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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

松葉杖物語 最終章

2005-07-01 12:27:28 | Weblog
 最終章と決め付けているが、別に医者のお墨付きをもらったわけではない。
 先週の金曜日が診察日であったが、用事ができてしまいサボってしまった。こうなると、人間、というか怠け癖のある私は、もう余程の事がない限り2度と診察に行くことはないだろう。予定では、来週にも通院することになっている。まだリハビリも始まっていない。
 だがそこはそれ、「臨機応変」「ケースバイケース」「ここ掘れワンワン(これは違うか)」と言い方は違えど、状況の変化に応じて対応を変えるのが大人というもの。自分でリハビリをしながら機能回復に務めている。
 ただ、痛みはないものの依然として腫れが引かず、履ける靴は一足しかないのでファッション(?)は限定されてしまうが、まあ、歩ける喜びに比べたら苦になるものではない。
 「松葉杖運動」によるシェープアップで逆三角形になりかけていた上半身は、無残にも引力との闘いに敗れ、おじさん体型に逆戻りしつつある。その点は、最近始めた「深夜の特訓 神明丸公園編」がどの位続くかにかかっているが、これまでの自分の人生を振り返れば、3日以上続いたことはなく、自信を持って「おじさん体型復活」を断言できる。
 1ヵ月半余の「松葉杖物語」とのお付き合い、ありがとうございました。

私の視点 相談相手

2005-07-01 11:36:40 | Weblog
 ある若者からメールが来た。その若者は今年に入って人から相談を受け、自分自身も潰れそうになりながらもなんとかその相談者が一応の改善が見られるところまで持ってこれたが、一時期は自分も潰れそうになった経験を持つと書いてきた。
 そんな自分の経験を含めて、ヴォランティアが要介護(支援)者の精神的な支えをしていく内に自らも心の変調を来たす例が多いと書いてきた。だから、ヴォランティア・スタッフの「心のケア」が必要とされている、と。また、心理カウンセラーの自殺率の多さにも触れていた。
 これは、私自身が多くの人から相談を受けるうち、「陥りやすい落とし穴」と実感していたことだ。私は人からよく相談される。恐らく、話し易い空気があるからだろう。また、その一方で「一応口は堅そうだ」と見えるらしい。
 話し易さに関しては自分でも自信がある。特に子供や高齢者との関係作りはこの歳になってもあまり苦労した記憶はない。もちろん一時的な誤解によるギクシャクはあるが、それもそんなに長く続いたことはない。
 私には相談を受ける身になる自分がいつも自分自信に厳命していることがある。それは、「子供や若者にうそを言うな」「相談者との距離(関係)を常に明確にしておく」「相談の内容を他言しない」である。
 まず、「うそを言うな」に関してであるが、子供や若者は研ぎ澄まされた感性を持つ。特に彼らが深く悩んでいるケースでは、世間の“おとな”に対して疑惑の目を向けている場合が多い。だから、小さな矛盾にも鋭く反応してくる。生死に関わることなど余程の事がない限りはうそはついてはならない。裏を返せば、私は聖人君子とは程遠く、自分の中にうそをつきたくなる「悪魔」が住んでいることになるが、もちろんそんな弱い自分を隠すこともない。そんな弱い自分を見せることも相手の信用を得られることにつながっているかもしれない。
 「相談者との関係」だが、かつて夫との関係に悩む一児の母親の相談相手になっていた時、彼女の中にいつの間にか「私への誤解」が生まれそうになった。それ以来、私は必要以上に相談者との距離を折を見て明確にするようにしている。相談時間や電話・メール連絡に関しても、約束事として最初から明確にしている。その上での相談しか乗れないと“契約”するわけだ。もし途中でそれが崩れそうになれば、その時に再確認をしてもらっている。冷たいと思われるかもしれないが、私にはそれ以上のことはできないし、しようとも思わない。
 そして最後の守秘義務だが、これを分かっていない人の多いことには驚かされる。かつて親しくしていたヴォランティア仲間は、その風貌や口調から相談を受ける事が少なくなかったが、その相談された内容を他のヴォランティアたちに、「ここだけの話だよ」「君だけに話すんだからね」とあちこちに口外していた。まるで、子供が遊び仲間に大事なおもちゃを上げて人気取りをするように見え、とても危険なことと感じた私は、彼をきつく叱った。すると、ナント「若い人に人気のある浅井さんへのやっかみもあったかもね」とのたもうた。この御仁、今も若者達の「心のケア」をするヴォランティア活動を行なっている。また、開業医にもとんでもない人物がいた。彼は、診療に仁術を、と患者との話をとても重視する方針を前面に押し出して自分のクリニックを「行列の出来る診療所」に仕立て上げた。私もその考え方に賛同して多くの友人知人を紹介した。しかし、その医者、何を間違えたかその内、患者との会話から得られる情報を他の患者に無断で話すようになってしまった。その内容は病名から家庭内のいざこざまで多岐に亘る。私はこの医者はそのうち名誉毀損で訴えられる事態に陥ると見ている。
 読者の中にも、相談をされることが多いという人もかなりいるはずだ。しかし、その一方で、これまでの経験から相談されても何となくしり込みしてしまう人も少なくないはず。私の周りにもそう言う人が最近増えている。それはどうしてか。
 相談を受ける場合、どうしても「情の世界」から可哀相だとやりすぎてしまう人が多いように見受けられる。やりすぎて相手から頼られ、それが結果的にとても重く感じられるようになってしまう。
 われわれ素人に出来ることはそんなに多くはない。「白馬の王子さま」や「月光仮面(古いよね?)」になることは不可能だ。そこで考えたのが、「相談の分散化」だ。1人の人が要支援者全てを支えるのではなく、あくまでも理想論だが、周囲の人がそれぞれ得意な分野でいいから分担して対応していれば、主に相談を受けた人が精神的な異常を来たすことが減るのではないだろうか。
 皆さんが精神科系病院に足を運ぶことはあまりないだろうが、“評判のいい”精神科の医者は抱えきれない数の患者を前に悲鳴を上げている。診察まで数週間から1ヶ月待たせることはごく普通になっている。それだけに、あまり声を上げる人がいないが、社会全体でこの問題に取り組む必要があるのだ。今あなたの周りを見渡して、助けを必要としている人がいれば、「何か一つに限定」して話を聞いてみてあげてください。そこから一人ひとりの人がこの問題に参加すれば、状況が随分改善されるような気がする。