都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

旧 料亭一松

2024-07-21 | 新宿区  
旧 料亭一松
所在地 :新宿区 西新宿4-18
構造・階数:木・2
建設年代:戦後
解体年代:2019〜20(平成31〜令和2)
備考  :旧十二社三業地の料亭
Photo 2012.1.31

 西新宿の高層ビル街の西側の一角は、かつて十二社三業地だった場所。江戸時代、灌漑用に湧水を用いた池が造られたが、その周囲に次第に茶屋が建ち並んで遊興地として賑わったのが始まりという。明治期になると界隈は花街となり、最盛期には料亭や茶屋が60軒余、芸妓も約100名いたといい、池には貸ボート、屋形船、釣り舟もあって賑わったそうだ。

 しかし昭和になると、水質の悪化もあって池は徐々に埋め立てられ、1968(昭和43)年の十二社通りの建設に伴い完全に埋め立てられた。池の消滅と共に料亭も少なくなり、次第にマンションなどになっていった。かつての十二社では、このような料亭が池の周囲に数十軒建ち並んで花街の街並みを創っていたが、それも時代の移り変わりとともに消えていった。


 Photo 2012.1.31

 一松の建物はそのようななかで最近まで残っていて、かつての花街を思い起こす手掛かりとなっていたものだった。戦前の住宅地図では、当該地は料亭「楽々」となっているが、十二社周辺は戦災で焼失したそうなので、一松の建物は戦後まもなくに建てられたものだったらしい。

 界わいのかつての料亭の中では小規模な方だったようで、間口はさほど大きくない。道路沿いには庭と呼べるようなものはほぼなく、玄関前に細い松の木と小さな植え込み、植木鉢が少しある程度だった。だがそれらはよく手入れされていて、塀や玄関まわりもきれいに保たれていた。ご縁がなかったので、残念ながら内部、御座敷などの様子は知らない。また、建物は写真の頃まで残っていたが、料亭としては2009年頃までに廃業していたようだ。


 Photo 2017.6.11

十二社(じゅうにそう)の池(新宿区西新宿) : 東京の水 2009 fragments
BCR日記: 江戸の面影・十二社の池(その2)

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東芝港クラブ

2024-06-27 | 港区   
東芝港クラブ
所在地:港区 高輪4-4
構造・階数:木・2
建設年 :?
解体年代:2006〜08(平成18〜20)
Photo 2006.3.10

 高輪4丁目、二本榎通りの先の尾根道から西へ入り、品川区との区界にあるS字階段へ向かう途中にあった建物。

 外見上はさほど豪華な建物には見えなかったが、黒板塀が巡らされ、しっかりした門があり、庭木も手入れされていて、御座敷のある料亭のような施設だった。

 同じ高輪にある旧朝吹常吉邸(現 高輪館)は、「東芝山口記念会館」としてかつて東芝が保有していたもので、近代建築ファンの間ではよく知られている。しかしこちらは、それとは規模も豪華さもかなり違っていて、失礼だが本当に東芝の倶楽部施設なのだろうかと思ってしまう雰囲気ではあった。ただ、大企業だから様々な大きさやテイストの保養施設があって、「港クラブ」もその一つだったのかな、などということも想像されるのだった。


2024.8.26追記
 その後、旧版の住宅地図等を見たところ、ここが東芝港クラブとなったのは1970年代中頃以降だったことが分かった。それまでは個人宅。なお、戦後版(1950年代)の火災保険特殊地図では、東禅寺の門前(現 高輪3-20)に東芝港クラブが記載されている(現在は駐車場)。

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多和田歯科

2024-05-09 | 中央区  
多和田歯科
所在地:中央区 日本橋人形町2-7-13
構造・階数:木・2
建設年:震災後〜戦前
解体年:2021(令和3)
備考 :右隣は三倉屋米穀(株)、2000〜06に消失
Photo 1996.10.6

 歯科医院の看板が出ているのだが数寄屋っぽい日本建築で、妙な医院建築だなぁと思っていた建物。いつも見ている下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事で、かつては「三河屋」という「待合」だったという記述を読んで納得。たしかに戦後まもなくの火災保険特殊地図(1947年)には三河屋と記されている。

 1階のコーナー部は窓が大きく取られていて、これは歯科医院にする際に改装したのだろう。2階には火灯窓があったり、手摺のある張り出しがあったりして、やはり御座敷建築的。待合から歯科医院への転用というのは珍しくかなり意外でおもしろい。

 上写真の右奥は三倉屋米穀店。その奥、写真右端の木の陰は加島酒店。多和田歯科の左側の喜寿司(喜は、七を3つ書くもの)と加島酒店は現在も営業していて建物も現存している。三倉屋米穀店の建物は解体されて現在は5階建てのビルになっている。


 Photo 2014.5.4

 この界隈はかつては貸座敷、料理屋、芸者置屋がある三業地で、芳町花街と呼ばれた場所だった。最近(2010年時点)では、濱田家という料亭があるのみで、芸者さんは16名とのこと。かつての面影はかなり薄れているが、人形町駅周辺には旧料亭と思しき建物が並ぶ路地もあり、わずかだが往時の雰囲気が感じられる。


 Photo 2014.5.6

 左側の喜寿司は1923(大正12)創業。木造家屋が建ち並ぶ街並みはかつての花街の記憶を残すものだったが、旧待合の建物も消失して、周辺には高層のマンションやオフィスが建ち並ぶようになっている。


2024.8.26追記
 多和田歯科の開業時期は正確には判らなかった。ただ、1953年版の火保図で「待合三河屋」、1963年発行の「全住宅案内図帳」で「多和田医院」とされているので、この間(1953〜63)に待合をやめて歯科になったようだ。
 また、上写真の少し後の1997年頃には歯科もやめたようで、この頃以降は、歯科の看板は掲げられていたが、住宅地図では個人宅として記載されていた。

既往記事:人形町 - 都市徘徊blog(2014.7.27)

多和田歯科/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
三倉屋米店、京樽/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
花街の紹介(芳町) | 東京花柳界情報舎

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天山旅館

2023-05-24 | 埼玉県  
天山旅館
所在地:川越市 西小仙波町1-12
構造・階数:木・2
解体年:2011〜15(平成23〜27)
Photo 2004.12.3

 川越名所の喜多院の西側には、かつて遊廓があった。現在は旅館や料亭が数軒ある静かな場所になっている。

 埼玉県では1928(昭和3)年に公娼廃止決議案が可決され、1930(昭和5)年には遊廓に自発的な廃業を求めたそうだ。以後それらは「乙種料理店(達磨屋)」というものになったが、その実態はあまり変わらなかったそうで、戦後の売春防止法施行まで営業が続いたという。
 その後それらの建物は、改修・転用して旅館や料亭となったり、普通の住宅やアパートになったようだ。現在では建て替えも進み、かつての面影はわずかでしかない。

 旅館の看板を掲げていたこの建物が、その乙種料理店(達磨屋)だったかどうかは確証がない。ただ板塀や門柱、玄関の唐破風の庇などにはそれらしい雰囲気が残されていた。外壁がモルタル塗りなのは戦後のどこかの時点で改修されたためではないだろうか。
 撮影時はまだ旅館として営業していたようだったが、いつのまにかなくなっていた。建物の消失と共に街の記憶も次第に薄れていく。

川越市西小仙波町・喜多院裏の遊郭跡 - 東京DEEP案内

日本国内の建物や街並み
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三福荘

2023-02-24 | 足立区  
三福荘/旧赤線のカフェー?
所在地:足立区 千住柳町20-13
構造・階数:木・2
建設年:戦後
解体年:2018〜19
Photo 2006.10.8

 千住柳町の旧赤線エリアの中央を通る南北の道沿いにあった建物。元はいわゆるカフェーだったのではないかと思われるが、本当にそうだったのか、またそうだった場合の屋号などは不明。1960年代以降はアパートだったようで、最後の頃には三福荘というアパートだった。

 正面が左右対称になっているあたりは旧カフェー建築系の建物を思わせるが、それだけなので旧カフェー建築なのかどうかははっきりしない。1階部分の店舗?の様子が分かればと思ったが、シャッターが閉じられた状態しか知らない。玉の井や鳩の街、洲崎ほど明瞭な洋風デザインの建物ではなかったのでやはり確証はない。


 東南側からの全景


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あけぼの荘

2023-02-21 | 足立区  
あけぼの荘/旧曙楼・旧旅館光楽
所在地:足立区 千住柳町19
構造・階数:木・2
建設年:戦後
解体年:2001〜03(平成13〜15)
Photo 2001.5.27

 赤線時代は曙楼として営業していたという建物。赤線でなくなった後は「光楽」という旅館だったようだ(注)。
 旅館としての営業がいつごろまで続いていたのかは未把握。撮影時は「あけぼの荘」というアパートで、表通り側の1階には居酒屋とスナックが入居していた。
 遊廓系建築でしばしばある左右対称のデザインではなかったが、左右2ヶ所に入口があるあたりはその系統と言えなくもない。軒先に白い円があるが、往時はここに屋号かなにかが記されていたのではないだろうか。

 千住柳町には90年代までは赤線時代の建物が数軒残っていたが、現在はほぼなくなっている。この建物も撮影後数年のうちに解体されたらしく、2004年版の住宅地図では既に月極駐車場になっている。

  注)東京都全住宅案内地図帳 足立区(1962発行?)による。

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旧医院・妓楼の煉瓦塀

2023-02-12 | 板橋区  
旧医院・旧妓楼の煉瓦塀
所在地:板橋区 仲宿41
構造 :煉瓦
解体時期:2010〜14(平成22〜26)
Photo 2009.11.15

 旧中山道の板橋宿の中で旧街道から東へ小路を入ったところにあったレンガ塀。昔はお医者さんだったお宅で塀はその頃のものらしかった。医院はどうやら1990年代に診療をやめ、建物も建て替えたようだったが塀はその後もしばらくは残っていた。
 煉瓦は長手積み。倒壊しないよう鉄材で補強されていた。ただ数年後にここを訪れた時には数軒の家が建てられており、塀も撤去されていた。


2023.5.11追記
 下記『江戸四宿を歩く』のp.86に、「石井医院には、かつての妓楼「伊勢孫楼」の面影をとどめるレンガ塀が残っている。」という記述があり、写真のレンガ塀はかつては妓楼の塀だったもののようだ。

『江戸四宿を歩く−品川宿・千住宿・板橋宿・内藤新宿』
 江戸・東京文庫⑦ 江戸の名残と情緒の探訪、街と暮らし社、2001

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料亭丸染

2023-01-27 | 豊島区  
料亭丸染
所在地:豊島区 南大塚1-43
構造・階数:木・2
建設年:?
解体年:2008〜10(平成20〜22)
Photo 2003.10.15

 大塚三業地にあった料亭。JR大塚駅前から東南へ向かう小石川の谷地沿いに大塚三業通りはあり、かつてはその周辺に料亭が多くあった。丸染は三業通りから北側へ坂を少し上った場所のL字型の路地沿いにあったもの。

 規模はあまり大きくなく庭も小さかったようだが、建物が黒板塀で囲まれ、普通より凝った門があるようすはやはり料亭ならでは。かつてはこの店も賑わっていたのだろう。

 最後の頃、建物の外観は老朽化していてあまり魅力的とはいえなかったが、内部はきれいだったのだろうか。入ったことがないので営業していた頃の実際の様子は不明。

 建物は2008年頃まで残っていたが、いつ頃まで営業していたかは未把握。

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キャバレー日の丸

2023-01-18 | 豊島区  
キャバレー日の丸/曙ビル
所在地:豊島区 池袋2-3
構造・階数:SRC・5
建設年:曙ビル 1962(昭和37)
備考 :キャバレー日の丸は1970年代に開店した模様。2008〜09に閉店。
    店舗が入居していた曙ビルは2022年7月時点でも現存。
Photo 1997.2.23

 池袋西口エリアにあったキャバレーで、前項の笹周のすぐそば。私自身はキャバレーに馴染みがないので入ったことはなかったが、レトロな電飾が気になる店舗だった。断りなく真正面から撮影すると面倒なことになりそうだったので、遠目から1カットのみ撮影。塔状の目立つ広告看板がコーナー壁面に張り付いているのが印象的だった。


 Photo 2008.2.11

 2008年に通り掛かったら、塔状の広告看板はなくなって3階までの電飾看板に替えられており、ビル全体も塗り替えられていた。白色電球がチカチカ瞬く看板は昭和な雰囲気。ところどころ電球の球が切れて点いていないのも昔を思い起こさせる。最近はLEDなので球切れもなくきっちりしていて、愛嬌というかダサさがない。

 新宿にも同様の店があり、そちらには「しびれるキャバレー日の丸」という看板が出ていたが、こちらには「しびれる」の文字はナシ。ネットには池袋が支店という記載もあり、なんらかの関係はあるようだが詳細は知らず。

 キャバレー日の丸は2008年か2009年に閉店。2009年12月時点のGoogle ストリートビューでは、ネオンサインもなくなりテナント募集中になっている。
 キャバレーが入居していた曙ビルは2022年7月時点でも存在していて、外壁はまた別の色に塗り替えられている。

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旧カフェー「鹿島家」

2022-12-18 | 墨田区  
旧玉の井・カフェー鹿島家
所在地:墨田区墨田3-11
構造・階数:木・2F
解体年:1996〜97(平成8〜9)
Photo 1994.4.17

 2階にバルコニー状の部分があり、もしかするとここは顔見せ部分として機能することが期待されていたのかもしれない。コーナー部が丸く、裏通りにしては凝ったつくりになっており、不思議な存在感を放っていた。

 『新編「昭和二十年」東京地図』(西井一夫・平嶋彰彦、筑摩書房、1992)によると、旧玉の井遊廓の建物だったとされる。玉の井は関東大震災後に形成された私娼街で、永井荷風が足繁く通ったことでも知られる。当初の建物は戦災で失われ、戦後は若干場所を替えて売春防止法施行まで赤線として営業したという。当時の建物が90年代までは幾つか残っていたが、現在は大半が建て替えられ、当時の面影はほとんど無い。


2022.12.18追記
 『玉の井色街の社会と暮らし』(日比恒明、自由国民社、2010)によれば、この建物は「鹿島家」というカフェーだったそうだ。また、住宅地図などで確認したところ、玉の井遊廓の廃止後はメリヤス工場となっていた。

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