ありゃりゃサンポ

近現代の建築、町並みと橋が好き。
一日八千歩の散歩の忘備録。美味しいご飯と音楽と。
東京都全域をGPSで塗り潰し中。

きときとの富山⑦建築散歩・現代編

2024年11月03日 | 建築&土木見物
ダイニングカフェ・クレオン。2011年隈研吾建築都市設計事務所。

初日の魚津からの帰りに富山を通り過ぎてひとつ先の呉羽駅で下車。昭和に存在した呉羽紡績の巨大な工場跡地は市民芸術創造センターや公園になっています。
その一角にあるダイニングカフェ・クレオン。2011年隈研吾建築都市設計事務所。

安価で入手しやすい105mmの角材を組み合わせることなくただ積み上げていくだけで実現した有機的な空間。角材は太さ30mmのスチール棒を貫通して固定している。

天井がそれほど高くなく、いろいろな方向から無加工の角材が飛び出しているので、写真を撮ることに気を取られていて何度も頭をぶつけました。
お店の方に聞くとやはり食器を下げたりするときに頻繁にぶつけてしまうそうです。

この日のお天気や撮影時刻も良くなかったのですが、完成当初の写真と比べると木材表面が黒ずんでやや重苦しい印象でした。
隈研吾に限ることはできませんが、木を使ってナチュラルな雰囲気に仕上げたデザインが味わいになるか経年劣化になるか、いろいろと判断が分かれるころになりました。

氷見市民芸術文化館 古谷誠章+NASCA 2022年。



1963年に建てられた旧市民会館が震度6の地震で倒壊する可能性が高いとの指摘を受けて2014年に閉館から取り壊しに。
ホールのない街としての8年間を経て市民待望の新しい文化施設が完成しました。設計は公開プロポーザルで選ばれた古谷誠章+NASCA。
古谷誠章は作品としてはここでは初登場ですが、2019年に三軒茶屋に近い住宅地に建つおしゃれな自邸の見学会に参加したことがあります。

移転した市民病院があった場所で充分な土地があります。800人収容のホールがある本館を2階建ての回廊が囲みます。

回廊で囲まれた場所は青空広場と名付けられました。何もない芝生ですがいつでも中に入って遊んだり寝転がったりできます。

本館前の大階段は車椅子でも上に上がれるスロープもあります。青空広場でイベントが行われる際には階段そのものが客席としても機能する作り。

正直この建物はかなり気に入りました。なので写真も多い。できればここだけで

ホール前のホワイエ。もちろんホール内を見ることはできませんでした。

回廊の2階部分。ここも広場でお祭りなどやる際には観覧席になりますが、普段は何の目的もない場所です。
都内でこんなゆとりのある設計でホールが作れたら大評判になりそうです。

富山駅周辺は意外と気合の入った建築が多いです。環水公園に行く途中にみたいくつか


オーバード・ホール(富山市芸術文化ホール) 1996年久米設計
いろんな直方体が組み合わさって全体にゴツゴツしたマッチョに見える建物が好きです。客席数2,196は「北陸地方はもとより本州の日本海側で最大級のホール」だそうです。


オーバードホールのとなりにダイワハウスが建てた複合テナントビル「Dタワー富山」 2024年久米設計(また!)巨大な客船のようなビル。


城端の曳山会館の駐車場の奥にあった現代建築。近づいてみましたが入れそうな入口もなく写真1枚とって通り過ぎました。
帰ってから調べるとこれが先日見た野村家の土蔵群の裏手にあって土蔵と一体化するように作られた城端町資料館「蔵回廊」なるものと分かりました。
貴重な土蔵そのものを保存展示するために作られた施設ですが、ここに入る入口がその横の曳山会館の中にあって、曳山会館の入場料を払わないと見られないのでした。
設計はイギリスのゴードン・ベンソン&アラン・フォーサイス。どうしてこんなマイナー地方都市に海外の建築家が起用されたのか。

富山県では1990年~98年に「富山県まちのかおづくりプロジェクト」というのがありました。市町村が海外の建築家と協力して町の顔となる建物を作るという企画です。
プロジェクトのコミッショナーは磯崎新でした。「かおづくりプロジェクト」は8年間でで20ほどの建物が作られました。
蔵回廊もその20のうちの一つ。そして以前に見た新湊の内川赤い橋や、環水公園のあの橋もすべてこのプロジェクトで建てられたものだったのです。
2021年に新湊を散歩した時のブログに「なぜここにスペイン人建築家が出て来たのかは謎のままです。」と書いていましたが、3年後にその答えが分かりました。


最後に富山駅。これは建築というより都市計画の話です。
富山市は2006年に老朽化したJR西日本の富山港線をLRT化、2020年には富山駅の北と南で分かれていた複数の路面電車を、富山駅を貫通する形で接続させました。
上の写真でLRTが駅に向かっている場所は数年前まで広い駐車場だった場所です。路面電車の駅は見ている富山駅から駐車場を挟んで少し離れた手前にありました。
駅の再開発はいろいろ見てきましたが、駅の建て替えと同時に鉄道のルートまで変えてしまった例はあまり知りません。かなり利便性は高くなりました。
渋谷に例えるなら、井の頭線と銀座線を渋谷駅の3階で繋げてしまったようなイメージでしょうか。
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イイナパーク川口の伊東豊雄

2024年10月21日 | 建築&土木見物
川口市の赤山歴史自然公園、愛称「イイナパーク川口」は2018年に開園した公園です。火葬場がなかった川口市に「火葬施設を含めた自然公園」として作られました。
場所は埼玉高速鉄道新井宿駅から徒歩で12分ほど。ここにある火葬場、地域物産館、歴史自然資料館の3つが伊東豊雄の設計に拠るものです。

初めに地域物産館。

つい先日、ヤオコー川越美術館で見たような白い漏斗型の柱が並んでいます。

カフェ+トイレ、ホール、マーケットの4つの独立した建物を白漏斗に支えられた屋根が連結しています。
個々の建物は鉄筋コンクリートの壁で自立しているので白漏斗は構造の役割は少なく主に装飾的な目的です。

白漏斗同士の連結部分は半透明のアクリル波板で塞がれています。

建物内にも続く白漏斗。伊東豊雄のこのモチーフって何か名前ないんでしょうか。別の人は「キノコ」と書いていました。

一段低くなった池の方向から見る地域物産館。

公園の北側は里山や雑木林のイメージで植栽がされています。元々は産業廃棄物最終処分場になる予定だった土地でした。近隣の人も安心したことでしょう。

フワフワドーム。最近流行の遊具です。富山美術館の屋上や昭和記念公園、なんかでも見た記憶があります。

園内を時計回りに池の東側に来ました。芝生広場の前の左側の切妻が2つ目の伊東豊雄で歴史自然史料館。右のガラスウォールは首都高のハイウェイオアシスです。

歴史自然史料館はガラスの壁の細長いホールに3つの建物が連結されています。左から、レンガの家、土の家、木の家。



資料館入口は反対側に回って土の家と木の家の間にあります。

見晴らしのいいホワイエ。

レンガの家は映像ギャラリー、土の家が展示室、木の家は管理棟とトイレ。
この辺りは絵江戸初期に見沼溜井の造成や利根川と荒川の河川改修事業を実施した伊奈家の赤山城があった場所なので伊奈家関連の展示が多く見られます。

芝生広場の奥にに川口市の火葬場「めぐりの森」が見えています。3つの目の伊東豊雄作品。公園と隣接の火葬場であるため極力その存在が目立たぬよう工夫されています。

ハイウェイオアシスの少し高くなったテラスから見るともう少しその特徴的な屋根が見えます。
うねる砂丘のような最上の中央に一段高くなっている部分が火葬設備。焼却ガスは2階にある設備で無害化されるので火葬場のシンボルとの言える高い煙突が必要ありません。

めぐりの森はイイナパークから直接行き来はできません。ハイウェイオアシスの駐車場の隅から一度国道に出る必要があります。
ハイウェイオアシスは首都高速川口線と短い専用線で直結しています。サービスエリアやパーキングエリアのレジャー的要素が拡大した物。
こちらはUG都市建築による設計です。

施設のメインは巨大な全天候型の遊び場。高速道路直結で雨の日でも子供が遊べる施設ということで大人気でした。

駐車場からぐるっと回って「めぐりの森」の正面に来ましたが、この日はお休みで入り口のゲートが閉まっていました。
火葬場ですので普段の見学はルールとしてもマナーとしてもNGです。一応、黒い服を着て来たのですが、まったく近づくこともできなくてなんとなく逆にほっとしました。
昨年春に大分で見た槇文彦が設計した風の丘葬斎場は、建築系の見学者に便宜を図ってくれましたが、どこでもそうという訳ではありません。
火葬場が休みの大安吉日の日に川口市が定期的に見学会を行っているらしいので、縁があればそれに参加しましょう。
個人的にはプリツカー賞受賞者の設計にしては魅力に乏しかった。多摩美図書館のようなわくわくはなかったです。

イイナパークの俯瞰図とそれぞれの施設の位置。葬祭場は黄色い線に沿って閉ざされていて公園からは行き来できません。
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ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館

2024年10月14日 | 建築&土木見物
東武東上線・川越市駅から観光客のいないルートで寺巡りと新河岸川歩きを楽しみながら30分。氷川神社の裏手の橋を渡った先にコンクリートの四角い箱がありました。

ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館。株式会社ヤオコーの創業者の母子がふとした縁で洋画家・三栖右嗣の作品を多く蒐集します。
この美術館は、自宅やヤオコー本社に飾られていた三栖右嗣の作品を一括して管理、展示するために2011年にヤオコーが建てた美術館です。

この美術館のことを知ったのは7月にNetflixでドラマ「アンメット」の8話を見て。

杉崎ミヤビちゃんと綾野天音先生がこの美術館でデートをしたシーン。天井から床に繋がる何なのかわからない謎の円錐にびっくりしました。
すぐに検索してそれがヤオコー川越美術館で、設計したのが伊東豊雄先生だと知りました。

建物は一辺が21.6mの正方形。コンクリート打ちっぱなし。方位通りに立っていて南面に開口部が2か所ある以外は白い壁が見えるのみです。
周囲を浅い水盤で囲まれていて、建物に沿ってぐるりと一周回ることができます。
左上に屋根の上に富士山のような形が突き出ていることを覚えておいてください。

上の写真の反対(北西)の角。図らずもアートっぽい写真になりました。

正方形の建物は田の字に仕切られています。南東側がエントランス、受付とショップ。その北側の開口部から第一展示室に入ります。

ドラマで見たアレが目の前にありました。伊東の他の作品でもよく見かける漏斗状の柱
屋根を支持する構造としての役割はなく、接地面のLED光を360方向に柔らかく反射させるためのものと理解しました。

平面の天井から円錐への繋がりが美しい。

続いて北西側の第2展示室。こちらは第一展示室とは逆に天井が空に向かって引っぱりあげられる形で逆漏斗になっています。
引っぱりあげられた部分が先ほどの外観写真で屋根から上に飛び出している富士山状の部分です。

富士山の頂上にあたる部分から室内に向かって自然光が降り注いでいます。

第一展示室と第二展示室の断面図。(東西アスファルト事業協同組合における伊東豊雄の講演記録より)
第二展示室にいる時には天井の中央部分が持ち上げられているように見えたのですが、この図で見ると壁際からすぐに天井の傾斜が始まっています。

東京オリンピックのスポーツピクトグラムをデザインした廣村正彰氏がこの美術館のシンボルマークもデザインしています。
やはりこの上向きと下向きの漏斗がモチーフになっています。

蒐集展示されている三栖右嗣(みすゆうじ)は昭和2年生まれのリアリズム洋画家。2010年に没。精緻な写実と温かな情緒が共存する多くの名作を残しました。
アンドリュー・ワイエスに傾倒して実際の交流もありました。草原や荒れ地の表現は似た部分も多く見られます。

第二展示室の南、南西角がラウンジ。

500号の大作「爛漫」を見ながら茶菓を楽しむ公開スペースです。グランドピアノがあって音楽会も行われているよう。
展示室への入館とコーヒーがセットで500円という低価格設定ですので、行く際は必ずセットにして下さい。(単品だとそれぞれ300円)

アンメットからいろいろ楽しみが広がりました。
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御茶ノ水駅再開発

2024年09月30日 | 建築&土木見物

御茶ノ水駅の再開発工事現場。
神田川の谷の中腹ある使用中のホームの上にかぶさるような形で幅25m,長さ約140mの人工地盤を築き、その上に2階建ての駅舎を建てるというう特殊な工事です。
ホームの台地側に工事ヤードを確保することができないため最初に神田川の上に幅22m,長さ120m,高さ15mの桟橋を作りました。
このブログとして工事現場として取り上げたのは2017年9月でしたが、この時点で工事開始からすでに5年ほど経っていました。

7年前にも使った完成予想図。新駅舎もほぼ筐体は出来上がっていて2025年3月予定のオープンまで残り半年となりました。

完成予想図は右端にある白い斜めの部分で切れていますが、その右側にある御茶ノ水橋口の部分は外観はほとんど手が付けられていません。

昭和7(1932)年7月の総武線乗り入れ時に建てられたもので、装飾を配したモダニズム建築です。すでに文化財の域にあります。
新駅舎のエントランスとしてこのまま残されるようですが、どんな仕上がりになるのか楽しみです。

御茶ノ水橋口から川の左岸を聖橋へ。聖橋を渡つつもりでしたが道は秋葉原に向けて下がって、聖橋の下を潜ってしまいました。
ホームの上に新築の駅舎ができましたが、ホームそのものはほとんどそのままのようです。白い階段は朝のみ使われる出口専用改札。

ぐつっと回って聖橋上から見る工事用桟橋。桟橋を設置した状態でも神田川が氾濫しないよう現場から約1km上流まで川底を浚渫しています。

桟橋への入り口となる橋。これが見られるのもあと何か月か。
聖橋口は2023年12月から新駅舎の暫定使用開始となっています。来年3月にまとめて見物に行きます。
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今帰仁村中央公民館 村と島の建物

2024年09月20日 | 建築&土木見物

名護市役所で知られる象設計集団。1971年に吉阪隆正の事務所にいた若手建築家5人で設立した設計事務所です。
設立から50年以上経っていますが手掛けた建物の数はさほど多くなく、関東にいて見られるものもほとんどありません。
そんな象設計集団が最初に世に知られるきっかけとなったのがこちらの今帰仁村中央公民館(1975)

赤く塗られたコンクリートブロックで化粧した277本の列柱が特徴的です。
柱と屋根だけで囲われた空間は建物の内側であって外側でもある。名護市役所にあったアザナと類似の空間です。
村の人が自由に使える公民館では結婚式、会議、飲み会、討論会、昼寝、展示会、大工仕事などあらゆる用途に解放されてきました。

日本に返還されて3年後の沖縄で、那覇からも離れている国東半島の先端の村がなぜこのような先進的な設計集団と「普通でない」公民館を建てたのか。
その辺りの経緯は菊地史彦の「岸本建男と象設計集団が遺したもの 第4回」に詳しく書かれています。



この建物も完成から50年が経過してかなり老朽化が進んでいました。
外から見える室内も長らく使われていないような廃墟の様な部屋も見受けられました。村の人口減少や高齢化で公民館の役割も変わっています。

今帰仁村の建物と風景もう少し。

波羅蜜の向かいも古民家カフェでした。soma cafeさん。

今帰仁のごくごく何気ない静かな村の午前。

上層階がオーバーハングしている4階建てのビル。よく見ると窓の外側の壁と本体の壁も若干ですが角度がつけられています。
その意味はわかりませんが凝っていて素敵。

3階建ての民家ですが、3階部分は屋根と柱だけで壁がありません。沖縄ではけっこう見かけるスタイルです。
とりあえず3階建てで作って、使うのは2階まで。将来住む人の数が増えて必要になったら3階も部屋にすればよい。なんくるない。
大型の木造住居。2階部分が広間のようです。何かの生産設備か、病院か、宿泊施設か。いろいろと想像してしまいます。

場所が変わって伊計島の集落を散歩中。
敷地を取り囲む石垣(グック)と建物正面に風除けと目隠しをかねた塀(マイヤシ)が供えられた琉球標準のお宅。

前のブログでグックだけが残った家の写真を使いましたが、こちらは逆にフーヤ(母屋)だけが残った廃屋。

湾曲したブロック塀は城(グスク)の石垣からの伝統。塀がそのまま小屋の壁面と共用されている家も複数見ました。

石垣塀(グック)は実に多様でなんでもありなんですが、中には精緻な切り込みハギも見られます。見た目の印象としてはインカとかマチュピチュとかそっち系統。

ちょっと変わったデザインの学校がありました。角川ドワンゴ学園のN高等学校。N高というのはイニシャルではなくて正式名称が「N高等学校」。
詳しくは知らないのですが、通信教育だけで高校卒業資格がとれるそうで、生徒数は3万人というマンモス学校。
立派な校舎はありますが、実際に登校するのは夏の7~9日間のスクーリングの日だけです。それ以外のほとんどの日は無人ってことか。
以上沖縄建築視点のお散歩記録でした。

伊計島共同売店のポーク。250g缶で350円。こっちで買うのとそんなに変わらないかな。
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名護市役所庁舎

2024年09月17日 | 建築&土木見物

名護市役所を初めて見たのは2002年。本部半島の北西部にある沖縄美ら海水族館に向かう車の中からでした。
まだ、それほど建築に興味がない頃で、つるっとした平面的な建物を見慣れた目にはとてもおどろおどろした一種不気味とも思える印象でした。
ガウディやジェフリー・バワや那覇市役所を見た印象にも近い物でした。20年後の今は素直にかっこいいと思えています。

2階、3階に上がるためのとんでもなく長いスロープ。郊外の歩道橋並みに傾斜が緩やかで車いすや自転車でも上がれます。
とは言え、これが建設された1980年当時は日本でバリアフリー法が施工された2006年の四半世紀前です。あくまでもデザインとしてのスロープだったと考えます。

市庁舎は名護湾から250mの場所に海岸と平行に建っています。象設計集団は様々な方法で建物内に海風を通す工夫を施しています。

名護市役所メインエントランス。

3階に上がって海と反対側の広場を眺めています。
各フロアの北面にアサギテラスと呼ばれるスペースが設けられています。屋根は隙間が開いたパーゴラのようなもので日差しは遮りますが風は通します。

外装として使われているのはコンクリートブロック。赤と白の2色遣いは首里城正殿前の御庭を連想します。
戦後にアメリカ軍が持ち込んだ技術を沖縄の素材で沖縄の風土気候に合わせて改良した結果、島内の建築でコンクリートブロックの使用が急速に拡大しました。

3階のアサギテラス。植物と建物を一体化させて季節によって日差しなどをコントロールする設計だっだようです。

宝形に組まれたコンクリートの中央も大きく開いています。この日もなんどか豪雨を見ましたがそんな時にこの建物はどうなっているのか気になります。

南方向に見るスロープ部。名護市庁舎は300組以上が参加したコンペで選ばれた設計ですが、コンペ案の時はスロープはここまで長くなかったそうです。
奥に名護湾が見えています。

執務フロア。建物内部を貫通する「風の道」と呼ばれるダクトによる自然通風システムが設置された庁舎内は、建設当時はエアコンがなかったそうです。
今ではありえないことですが、考えて見れば私が入社した1984年でも会社も学校も交通機関も、エアコンはあればラッキーという存在でした。

北外観。沖縄風というよりインカ帝国などの古代文明を再現したように見えます。柱上部の白い逆階段型のブロックのデザインが効いてます。

東面はフラット。こちらにも逆階段型のブロックが外に突き出すように設置されていますが、かつてはこの上に56体のシーサーが鎮座していました。

こちらがシーサーがあった頃の参考写真。2019年3月に安全性を考慮して全て撤去されました。シーサーのあるなしで印象がガラッとかわります。

芝生広場越しの那覇市庁舎。

高度成長期に建てられた他の多くの建物と同様に名護市役所も現在建て替える方向で検討が進んでいます。
午前中に見た同じく象設計集団による今帰仁村中央公民館は別記事にします。

設計:象設計集団
協力:アトリエモビル
構造・階数:RC造/3階
延床面積:6149㎡
竣工:1981年6月

受賞:1982年 日本建築学会賞
   2011年 第10回日本建築家協会25年賞


今から19年前になる2005年11月。名護市で開催されたツール・ド・おきなわという自転車の大会に参加しました。
私たちはレースではなく「恩納村70kmファミリーサイクリング」というみんなで楽しく走るイベントに出たのですが、それでも70kmはけっこう長いね。
スタート&ゴールは名護市役所の横にある名護市民会館駐車場。7時半過ぎにスタートして午後2時ころ無事に帰って来ました。
上の写真はゴール直前にガッツポーズをする私。後ろの黄色いシャツがRさん。そして左に少し写っているのが名護市役所です。
この写真で見るとシーサーはちゃんとありますね。
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北区役所

2024年09月06日 | 建築&土木見物

10年後の令和15年頃を目標とした建て替え計画が進行中の北区役所。
公募型プロポーザルのプレゼンテーションの内容と、その結果松田平田設計案が交渉優先順位1位になったことは先日描きました。
それを書きながら、そういえば北区役所の庁舎の写真ってほぼ撮ったことがないということに気がつきました。
板橋区民なので役所そのものに用事がないにしても、定例散歩コースの途中にあって一番多くの回数、横を歩いている区役所なのに。
ということで先日のお散歩の時に初めてスマホのレンズを向けて見ました。こちらが都道から第一庁舎の入り口に入る部分。石畳になっていますがここもたぶん公道の一部。

1960年に建てられた第一庁舎。なんと私と同い年のポンコツでした。
そして驚くことに「設計者不詳」。ある人が区役所総務課に問い合わせたところ「記録が残っていない」という回答だったそうです。1960年ってそんな時代かー。
前回「学校みたいな建物」と評しましたが、部分的にモダニズムの香りも感じられます。

唯一何かを主張している玄関前の大きな庇。

第一庁舎は2年後に西棟が、9年後に東棟が最初の棟と接続して増築されています。その結果、最初の建物が中央棟と呼ばれます。

それでも庁舎としてはまったく不足だったので、周辺に次々と小さな別棟が建てられて行きます。こちらが王子郵便局も同居している第2庁舎。

右側の小さな白い建物が第5庁舎。私のお散歩では石神井川沿いを松橋まで歩いて、最後にこの道を通って王子神社に参拝するのが標準です。

第一庁舎東棟の前に何やらオブジェがありました。たぶん噴水になっているのでは。
Rさんがこれを見て、板橋駅前の噴水と似ていることに気づきました。

こちらがJR板橋駅滝野川口の噴水。確かに雰囲気が似ています。
区役所のは柱が石で上にステンレスの何か、板橋駅のは柱がステンレスの円筒で上に乗るのが石と逆になっています。同じ作者なのかも知れません。忙しいので調べないけど。

google mapで見た区役所周辺。石神井川と飛鳥山と王子神社の杜に囲まれた良い場所です。
10年後にできる新庁舎はこの写真よりずっと左の低地に建てられることになっています。
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大山商店街アーケードの消滅

2024年08月27日 | 建築&土木見物

大山ハッピーロード商店街。いつも賑わう商店街も週末の朝は人もまばらです。

商店街の中ほどを都市計画道路補助26号線が通ることから商店街が分断されつつあります。
道路より先に道路を囲むマンション群が建設されていますが、いよいよ象徴であるアーケードも撤去されたということで見に行ってきました。
最後に見た時はアーケードの残骸の様なものが中空に浮かんでいましたが、それもなくなって驚くほど広い空がそこにありました。

昭和に作られた道路計画に付随して、できた土地にマンションが建ったようですが、どう見てもマンションを建てることが優先されたように見えてしまいます。
新しい幹線道路ができて交通がスムーズになったり災害対策ができるのはいいことです。
でもそれが古くからそこにある地元の商店街を壊してまで道路を建設する必然性があったようには思えません。
仲宿は江戸時代に板橋宿と川越を繋ぐ古道に戦後に闇市ができたことで生まれた商店街です。
国は重要伝統的建造物群の保存にはある程度協力的ですが、近い将来に重要伝統的建造物群になりうる街並みの保存には無頓着です。
昭和の風景を残す商店街で、今も大規模商業施設に負けずに生き残っているような街並みはそろそろ緩やかな保存を考えるべきです。

商店街がなくなった部分は思っていたより大きかった。500mの商店街のうち150mほどが消滅しました。奥に見えるのが分断したアーケードが再開するところ。
ちなみに写真中央の建物も再開発の一部としてできたビルです。新しい道路はそのビルの左奥へ向かって作られる予定です。

道路予定地。150m分ほど、まだ土地の収用が終っていません。

道路予定地に残る建物の一つ。ストリートビューで見ると2013年以降に建て替えられたように見えます。
当然道路計画のことは分かっていたと思われますが、予想より展開が早かったのかも知れません。

川越街道に面した道路予定地の入り口が道路予定地を見る。完成した時にはここが大きな交差点になります。
補助26号線は中央の二つの背の高いマンションの間を通って板橋区役所北の山手通りと中山道との合流地点に繋がります。

振り返るとこんな風景。2014年の衛星写真ではすでにここまでは完成していました。

ハッピーロードの川越街道側入り口。
補助26号線は基本的に都道420号線です。現在の都道は地図上では緑の線のようにここで折れ曲がっています。
実際には商店街の中を車が通行することはできません。420号の標識は経っていますが現実にはここで一旦途切れているということです。

繋がっていない黄色い太い道路を赤い矢印のように一直線にぶち抜いて繋げようという計画。赤い楕円が分断されたハッピーロード商店街。
上の写真の緑の線はこちらでは青いジグザグです。

補助26号線は完成すれば品川区大井から板橋区仲宿まで22kmを繋ぐ道路です。環状6.5号線というニックネームでこのブログでも最も奥登場する都市計画道路です。
少年期を過ごした目黒通りから学芸大学駅付近や三宿を経由し、大山商店街を貫いて中宿という個人的に深い関係のあるコースを通ります。
私が生きているうちに全線開通はなさそうですし、特に応援しているわけでもありませんが状況は今後も見守っていきます。
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北区役所新庁舎公募型プロポーザル

2024年08月23日 | 建築&土木見物

石神井川と王子神社の間に1960年代に建てられた北区役所「第一庁舎」があります。4階建ての小学校の様な目立たない庁舎です。
23区中人口では11位の北区の行政機関がとても全部入りきることはできず、周辺10か所ほどのビルに分散して存在しています。(写真は第2庁舎)

これだけ分散していると住民サービスとしてはなかなか不便な場面もあることと想像します。
この数年の間に東京23区の内、19の区役所を見ていますが、現時点で庁舎が一番残念なのは北区です。
そんな北区もいよいよ新庁舎の建設に向けて動き始めています。

場所は現在の第一庁舎から徒歩10分ほど北西。国立印刷局王子工場の敷地の一部分を北区が購入することになっています。(上の図の青い星の所)
庁舎設計に関しては、2023年12月に基本設計業務委託プロポーザル審査が実施されました。
3社が行ったプレゼンテーションの様子は2時間40分の動画としてyoutubeにもアップされていますが、なかなか面白いです。
選ばれなかった2案も含めて3つを見て行きます。

提案した組織名は伏せられています。それがどこだか想像しながら見るのも面白い。
ちなみに動画の中の「A者」という表記は「A社」の誤記ではないかと思いましたが、「A者」で正しいようです。

A者案

直方体で最下部にはスカートのように広がったガラス屋根に囲まれたアトリウム。
上部は水平に4ブロックに見えますが一つ一つが3層あります。全体としてはアトリウム含めて18階くらいになるんでしょうか。
何かを象徴するガラスウォールのアーチデザインが特徴的です。

3層のブロックの窓側が吹き抜けになっています。日当たりは良さそうですが良すぎるのが心配になります。
プレゼンでは「縁側空間」と呼んでいました。これが4つ積み重なってビルを構成します。

最下部のアトリウム。これだけの広さがある広場を作るのは区役所が災害時の避難所として機能することを考えています。
建設予定地は武蔵野台地の下で、隅田川、荒川の氾濫水域になります。どの提案も防災機能に関しては力が入っていました。
ちなみにビル下部の巨大空間だと新宿住友ビルの三角広場を連想します。

B者案

B案のプレゼンではスクリーンに移される資料の視認性の悪さが気になりました。
この完成予想外環図もコントラストも彩度も低すぎて見ていて気持ちが暗くなる感じ。どんな立派な提案でもこの資料では好印象は与えにくいです。
建物は二つの縦長の直方体が重なってくの字に接合されたデザイン。テラスや屋上の曲線でやわらかさを出そうとしています。

こちらも吹き抜けを用いた大きな広場が用意されています。
この図も残念ながら暗い。またデザインも区役所というより最近よくある病院に見えます。

C者案

コーナーを丸めた楕円形の様な平面。高さは12階と最も低いのですがその分設置面積が3案の中で最大になっています。
下層階外側に大量の植栽。ブリッジは将来的に飛鳥山から連続して歩いて来られるような計画です。

下層部の広場は3提案に共通。Ground Level3.5mは想定浸水の3mより高い位置になります。

建物センターに全フロアを貫く巨大な吹き抜け、コミュニケーション・ヴォイドが設けられています。
センターが全吹き抜けになってるのは山口県の長門市庁舎を思い出しますがそれより遥かに巨大な空間になりそうです。

断面図。光と空気を通すヴォイドの役割。斜めの吹き抜けは隈研吾のTOYAMAキラリを思い出しました。

プレゼンした会社を想像しながら見ていましたが、全くひとつも当りませんでした。
実際の提案者はこちら。

A者=佐藤総合計画
B者=遠藤克彦建築研究所・東畑建築事務所 設計共同企業体
C者=松田平田設計・小堀哲夫建築設計事務所 設計共同企業体

そして第1位に選ばれたのはC者=松田平田設計・小堀哲夫建築設計事務所 設計共同企業体でした。
完成予定は令和15年ということですからまだ10年も先の話です。
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桐生明治館(旧群馬県衛生所)

2024年07月26日 | 建築&土木見物

梨木温泉からの帰り。わたらせ渓谷鉄道から東武に乗り換える相老駅で待ち時間が長かったので駅から徒歩8分の場所にある桐生明治館という洋館を見に行きました。

明治12年に群馬県の衛生所兼医学校として建てられましたが、衛生所は翌年に廃止に。医学校も学生が集まらないなどの理由で2年後に廃校になってしまいます。
その後県立女学校、小学校、織物展示館、群馬県農会事務所と変遷を重ねます。
昭和4年に払い下げを受けた相生村に移築され村役場となり、昭和29年に桐生市と合併した後は桐生市役所の相生出張所として昭和50年代まで機能します。

昭和51年に重要文化財に指定。昭和59年から2年かけて解体修理を行い、村役場時代に改変された部分を創建時の形に復旧。修理後に桐生明治館として公開されました。

創建当時の写真。

内部は展示室や会議室に改装されています。

正面扉の左右に二階に上がる急な階段があります。

階段を上がった先が、2階ベランダ。1階は確かに屋内だったのにその上部は半屋外状態でした。
屋根の下ではありますが風に煽られた雨はベランダを濡らし雨水は階段を伝って1階の廊下から室内に侵入します。重要文化財の保存維持としてはなかなか厳しい。
係の人に聞いた所、実際に水は入るそうで、状況によってはブルーシートで階段上部を覆ってしまうそうです。

設計者は不明。群馬県庁の技師とだけ書かれていました。細部まで意匠を凝らした美しい建物です。

朝ドラ「純情きらり」ではヒロインの父親が勤める岡崎市役所として撮影されたそうです。

気温33度の中を往復しましたがいい時間つぶしになりました。りょうもう号で帰ります。
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市川市木内ギャラリー(木内重四郎別邸洋館)

2024年07月09日 | 建築&土木見物
千葉街道で江戸川を越えて千葉へ。そこから北上して切り通しの道を10分ほど歩いた森の中に一軒の洋館がありました。

明治から大正にかけて貴族医院議員や京都府知事を勤めた千葉県出身の政治家、木内重四郎が国府台の1万坪の土地に建てた別邸の一部が復元保存されています。

大正3年に竣工した邸宅は和洋瀬中様式で建てられ、玄関部分を含む全体の1/4が洋館、3/4が和館になっています。
スレート葺きの張り出し屋根の下は格天井に組み物風のデザイン。エンボスの付いた石膏ボードとここだけでも甚だしく和洋が混在しています。

室内への最初のドア。

1万坪あった別邸は戦後不動産企業の所有となり、平成初頭まで鹿島建設の社宅として利用されました。
1999年に住民による保存活動も空しく取り壊され、敷地には低層の高級マンションが建てられました。
その際、マンション開発業者である株式会社サンウッドが洋館部分の木材や建具などをできる限り保管し、敷地の隅に場所を移して復元されました。
復元した洋館は市川市に寄贈され、当時の建築用式を公開し文化活動施設として使用されています。

書斎。飾られている作者不明の風景画も当時の物。

建物自体は鉄筋コンクリート造りで文化財的価値は薄いのですが、蝶番のネジに至るまで使えるものはできるだけ使用しています。(右側は当時のネジ)

サンルームになった旧ベランダ部分。

建築模型。赤線で囲った部分が復元された洋館部分。

取り壊し時に見つかった棟札。和館部を設計した保岡勝也、洋館部を設計した鹿島貞房始め棟梁、大工、石工、瓦師、ペンキ職人までびっしりと名前が残されています。
木内重四郎が招集した当時のドリームチームによる作品であったことが伺えます。

書斎出窓部分。

入口の反対側外観。1階部分はもともと壁ではなく和館と接続していた部分です。2階3階にハーフティンバー様式が見られます。
3階部分の望楼は明治末期としては珍しい鉄骨の軸組で作られていました。元々あった場所からは江戸川と市川橋が見下ろせたそうです。
コンクリート造りの復元洋館ということで、ほとんど期待せずに立ち寄りましたが係の女性の詳細な説明のおかげで実のある見学となりました。
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相似形

2024年06月26日 | 建築&土木見物

都内某所をサンポ途中に見かけた住宅。4階建ての堂々たる建物ですが玄関がひとつなので個人宅でしょうか。なかなかの邸宅です。
これを見ていたら似た建物を思い出しました。

角川武蔵野ミュージアム。似てる。
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魔法の文学館(江戸川区角野栄子児童文学館)

2024年06月22日 | 建築&土木見物

江戸川区南葛西のなぎさ公園内に昨年11月にオープンした魔法の文学館。「魔女の宅急便」の作者である童話作家、角野栄子さんの名を冠した児童文学館です。

白い壁とピンク色の窓。建物周囲を見て回りましたがこの建物がどういう形をしているのか全体像は分かりませんでした。

高さ12mほどの小さな丘に建つ文学館。入り口は1階ですが3階のカフェテラスと丘の天辺が繋がっていました。
身持ちの良いテラスですが細い鎖で仕切られていて、文学館を利用した人のみ入ることができます。

1階に戻って700円のチケットを買って入場。区の文学館にしてはちょっと高い。

入ってすぐに大きな階段。通路でもありますし両脇に置かれたクッションを使ってここで絵本を読むこともできます。
内部はご覧の通りの赤1色。文学館ではこのテーマカラーのことを「いちご色」と称しています。濃いめのショッキングピンクぐらい。
カラーチャートで似た色を探したら「世界の伝統色」の中にそのものずばりでストロベリーという色がありました。C:10+M:90+Y:45。シアンの暗さが効いてます。

館内には館長でもある角野栄子さんと選書委員会が選んだ児童書が約10000冊ほど。

さっき外から建物の写真を撮っていた場所を室内から見るとこんな感じ。

絵本に出てくる小さな家がいろいろな方向に放射状に接続されているという作りでした。繋がった屋根を花弁に例えて「フラワールーフ」と名付けられています。

建設前の完成予想図。なるほど確かに花弁っぽい。

内装、展示は角野洋子氏の娘であるアートディレクター・くぼしまりお氏と隈事務所の下で実施設計と施工は乃村工芸社が担当しました。
乃村工芸社は江戸川区の委託を受けて指定管理者となって運営にも当たっています。

角野洋子氏の書斎をイメージしたコーナー。

3階のカフェ。ガラスの外に見えているのが旧江戸川です。
昨日のブログでこの丘のことを「自然の地形」と書きましたが、年代別写真で検討するとやはり1990年頃公園をつくる時点で造成した人工の丘のようです。

カフェから丘の上のテラスへ。

トイレもぬかりなく白といちご色でした。

毎時20分と40分に階段の下の「黒猫シアター」で映像が上映されます。
何も知らないで見に行ったのですが、プログラムがインタラクティブなやつで、物語の進行途中で観客もガイドのお姉さんの指示に合わせて声を出したり踊ったりします。
平日午前中で観客は数人のお母さんと子供だけ。その中で私も「りんごちゃんだーいすき~~!」と大きな声で言わなければならずかなり恥ずかしかったです。
がんばりましたよ。
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武蔵野クリーンセンター・むさしのエコreゾート

2024年06月17日 | 建築&土木見物

武蔵野市の北側。武蔵野市役所の隣接地で見た奇妙なデザインの建物。
壁面にMUSASHINO ECO RESORTの文字が見えます。

外壁の斜めのこれなに。

中はこんな感じでした。よくある市民講座とか児童館のような感じ。

壁際に飾られていた写真で斜めのアレが何だったのかを知りました。
ここはゴミ焼却場だった施設です。斜めの鉄の壁はゴミ収集車が集めてきたゴミを焼却所前のピットに落とすためのゲートドアでした。

こちらがかつての焼却場の建築模型。平成28年まで使われていた焼却場を取り壊す際に、赤線の部分で切って右側だけを残しました。
赤線の左側部分は最初の写真の芝生に変わりました。だから最初に「外壁」と見えた部分も元は室内の障壁だったのです。

建築模型で見える天窓がそのまま天窓として残っています。(この写真は模型と180度反対向き)
「むさしのエコreゾート」と名付けられたこちらの施設は2020年にオープン。市民が環境問題を学べる環境啓発施設として利用されています。
デザイン設計監修は水谷俊博建築設計事務所。実施設計・施工は鹿島建設です。

1980年代に建てられた鉄筋コンクリートの建物の断面と知って見るとなかなか味わいが深い。

窓やドアなどはリフォームでつけられたものです。
ゲートの手前に深いピットがあって、今立っているこの場所の地下で毎日ゴミが燃やされていたのか。面白いものを見ました。

芝生の反対側にある2017年にオープンした新しい焼却場も見学していきます。

外壁周りにのテラコッタのルーバーと壁面緑化によって建物全体を武蔵野の森のように見せています。

現在、収集車はこのゲートから出入りします。

収集車の妨げにならないよう2階レベルのデッキが周囲に巡らされています。

今どきの焼却場は見学されることを最初から想定して作られることが多い。
谷口吉生が設計した広島の清掃工場はそのうち見に行くと決めています。

ゴミ焼却で生まれた熱を発電に回すボイラー部分。

従来のゴミ焼却場のイメージからかけ離れています。

可燃ごみピット。幅11m、長さ19m。 ピットの底までは23mあります。

左がコントロールセンター。右が焼却炉への投入口です。

コントロールセンターもガラス張り。

小型のゴジラ対策本部みたいでかっこいい。意外と若い職員さんたちは見られることに慣れている感じでした。
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MUFG PARK まちライブラリー

2024年06月16日 | 建築&土木見物

五日市街道を挟んで向きあっている三鷹市と西東京市。その境界線上の西東京側に2023年に新しい公園が生まれました。
MUFGパーク。70年以上、三菱UFJフィナンシャル・グループの運動場だった広大な土地ををリニューアルして一般に開放した施設です。
南北350m、東西220mほどの変形の5角形。一企業がこれほどの面積の公園を一般に公開するのは極めて稀です。

メインパークエリアと名付けられた芝生の奥に見えるのが目的のライブラリー棟。

大きな庇の屋根とデッキの間に全面ガラス張りの図書館。

芝生の反対側は重厚なコンクリートが屋根を支えています。

こちらは「地域に働き、住み、訪ねる人々が本を通してお互いを知り関係を創ろう」という運動を行っているまちライブラリーという団体が運営する図書館です。
本は全て融資の寄贈によるもの。ここのように規模の大きなものもありますが、喫茶店や寺社や病院など様々な場所で活動が広がっています。

上はタイムカプセル本箱。写真や手紙、子どもの成長記録、仲間との思い出など「“生活(いとなみ)” の記憶」を本型のタイムカプセルに入れて保管します。

季節に関係なく1/3程度の人はテラスでの時間を楽しむそうです。

児童書のコーナー前にはフロアクッション。
人が集まり交流することが目的の一つなので、普通の図書館のようにルールで静寂を求めることはありません。

訪ねたのは平日の昼過ぎ。スペース的には充分なゆとりがありました。

とても快適で居心地の良い場所ですが、今後どのように秩序を保っていけるかちょっと心配になりました。

トイレ回り。

設計は三菱地所設計/大森晃+髙橋祐太。
大屋根には落ち葉対策で樋をつけていません。雨の日には軒先から広く落ちる雨水が白糸の滝のようになるそうです。見たいな。

高原のコテージのようにも見えるライブラリー。駅から20~30分の不便な場所ですが近所の人にとっては素晴らしいプレゼントになりました。
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