夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

眦を決して その2

2007-05-08 | 中身
 二人の死闘は当初、神竜剛次優勢に始まりました。
 神竜剛次は剣の達人であり、その腕前は途轍もなく凄まじい物です。鏡の上に敷いた和紙一枚を難なく斬ってのける切っ先の見切りを発揮して、流全次郎を着実に追い詰めて行きます。
「お前の技は俺に見切られてしまっている!お前は捕らえられたネズミ同然、俺の刀で一寸刻み五分試し、いたぶり殺されていくのだ!!哀れだなあ流……!お前はこうしてズタズタになって死んで行くというのに、お前が命を張ってまで助けてきてやった生徒達は、恩知らずにもお前を見捨てるばかりか、お前を厄介者扱いしているようじゃないか!」
 対する流全次郎は太極拳と八極拳の使い手です。彼もまた達人と呼ぶに値する使い手ですが、男の誓いの証として両腕を手錠で封じている為に手技に制限があり、これまで数回神竜剛次とは直接対決を行い、尽く敗北して来ました。しかし辛うじて致命傷を避けながら、神竜剛次の言葉に対して叫びます。
「俺は他人の為に闘ってきたのでは無い!全て自分の為に闘ってきたのだ!!人を虐げ支配する人間を倒す事は、俺自身の主義を貫く事だからだ!!」
 私はこの漫画を初めて読んだのは4歳くらいだった筈ですが、当時はかなり衝撃を受けました。自分の為では無く他人の為に何かをする、それこそが「良い事」なのだと親からは教えられていましたから。
 しかし、考えてみれば当然の事で……「他人の為」というのも結局は自らの心を満たす為でしかありません。それを自覚して、甘ったるい感傷に浸らず真正面から受け止め、歩む。それは今でも私の指針の一つです。
「うるわしいじゃないか!お前を裏切ってばかりいるあの生徒達を、まだ庇おうと言うのか!?」
「彼等を裏切り者とは呼びたくない!我々が闘い続けていれば、彼等もいつか必ず闘いに戻ってくれるだろう!」
 流全次郎の仲間を信じる意志。それに応じる事も無く気まずそうに目を伏せる生徒達を指し示し、神竜剛次は嘲笑しました。
「あの連中が闘うだとっ!?流っ!貴様にはまだ解らんのか!!奴らはブタだっ!!ブタが本当に闘うと信じているのかっ!!奴らは人より多くエサを喰おうと人を押し退けたりするが、信義や理想の為に闘ったりはしない!!奴らは欲深で下劣なブタなのだっ!!大衆はブタだっ!そのブタどもによってこの社会は汚されてしまった。高貴な人間の為の理想社会に建て直すのだっ!!」
 これに負けじと、流全次郎が返します。
「何が理想社会だっ!!お前のする事は、世の人々を虐げ冷酷に支配する事ではないかっ!!」
 神竜剛次は、鼻で笑います。
「ブタに人間の言葉をかけてやっても無駄だ!ブタに必要なのは鞭だ!鞭で叩いて判らせてやるのだっ!」
「許せんっ!その言葉っ!!」
 神竜剛次の言葉は正論ですが、これに激昂した流全次郎は突進し、その蹴りは幸運にも腹をかすめる事になります。普段ならば問題にもならない浅手ですが、実は神竜剛次は直前に腹を刺されており、その傷が開いてしまう事に。気取られないように間合いを取り仕切り直す神竜剛次に、流全次郎は毅然と言い放ちました。
「大衆はブタだ等と、人間を侮辱する権利は誰にも無い!」
「俺にはある……何故なら、俺はこの目で地獄を見たからだ…!」
「人間に対してそれ程絶望的な考えを抱くようになるまでに、いったいどんな地獄を見たというのだ!?」
 開いた傷口がもたらす激痛を鎮める為、神竜剛次には時間が必要でした。その時間稼ぎの意味もあり、彼は対峙したまま自らの過去を語り始めます。
「良かろう……貴様の冥途の土産に俺がどんな地獄を見たか話してやろう。お前達が薄々察しているように、俺の真の父親は影の総理と呼ばれているあの男だ!俺の母親には結婚を誓った恋人がいた。それなのに影の総理は母親の両親に圧力をかけ、自分の物にしてしまった。それも正式な妻としてでは無い。あの男にはそのような女が十人以上もいたようだ。その中で、あの男との間に男児を産んだ女七人が、あの広大な敷地内に一緒に住まわされた。影の総理は七人の女に総数十三人の男児の内、最も強い者を自分の跡取りにすると宣言した。という事は、十三人の男児は互いに争い合えという事だ。」
「自分の子供達を争い合わせよう等とは惨い事を……!」
 流全次郎は憤りますが、しかし影の総理の行いは至極当然の事。この世界は、生きるという事は……突き詰めたならば闘い奪い合う事でしかありません。自らの強大な権力を引き継ぐに相応しいか否かを測る為には、この宣言は極めて有効な手法です。
「十三人の中で俺は最年少だった。六歳になるまでは闘いに加わる事は免除されていた。だが、それまで俺は他の十二人の異母兄弟の醜い争いを毎日見せつけられて育ったのだ。全員本当に命懸けで争っていた。俺の母の他の六人の母親達も自分の息子を影の総理の跡取りにしようと血眼になった。考えてもみるが良い!十三人の男児と七人の母親が一つの屋敷内に住んで命懸けで争い合う姿を……!夜も昼も油断は出来ない!廊下を迂闊に歩く事も出来ない!誰かが廊下の角で待ち伏せしているかも知れないからな!俺が六歳になるまでに三人が死に、五人が再起不能の大怪我をして屋敷から出ていった!」
「む、酷すぎる……」
 これまで自らの過去を一切語らなかった神竜剛次の話に対して、流全次郎は聴き入り、踏み込むチャンスを逃します。この辺りの甘さが彼の弱点であり、同時に魅力なのですけれど。
「俺の母は俺が六歳になったら闘いに巻き込まれ、殺されるに違いないと怖れていた。そして俺も子供心に確信していた。争いは上から二番目の兄が、ほぼ勝利をおさめていた。六歳になる一ヶ月前、俺は何週間も鋭く研ぎ上げた果物ナイフを隠し持って……兄が学校に出かけるのを玄関の外で待ち伏せしていた。そして兄が玄関から出てくる所を、俺は果物ナイフを持って体当たりした。果物ナイフが兄の腹に突き刺さって行く時の感触を俺は未だに忘れられない!俺は六歳になる前に、母親が違うとはいえ実の兄を殺したのだ!その時兄は十六歳……地獄だった……」
「跡取りの座を巡って兄弟同士殺し合いまでして争うのを散々見せつけられた挙げ句……まさに地獄としか言い様がない……」
 流全次郎の仲間が益体もない呟きを発しますが、当時の神竜剛次少年の行動は実に理に適った物です。
 そもそも非合法極まりない存在である影の総理、その跡取りになろうというのに、定められたルールを後生大事に遵守する等という姿勢は、後継者として不適格。私ならば六歳に満たなかろうとイの一番に抹殺してしまう所ですが、それを怠り慢心するようでは刺されて死んでも当然というもの。
「兄を刺した後、仰天して我を忘れている母親の手を引いて、俺は屋敷から逃げ出した。その日に母親の昔の恋人だった男の元に逃げる事は前から決まっていたのだ。男は俺達を暖かく迎えてくれた。俺が兄を刺した事を嘆き悲しみ、俺が報復を受ける事を怖れて半狂乱になっていた母親を宥め労ってくれた……しかし、俺は全然後悔していなかった!!影の総理の跡取りの座が欲しいばかりに争い合う兄達は、反吐が出る程醜かった!!刺したのが当然だと今も信じている!!」
「神竜のこの非情さは、そんな幼い頃に培われたのか……!」
 刺さなければ自分が消された筈ですし、これも理に適った言葉です。自らの信条に則って行動したのだから後悔もしていないし、慰めなんて不要。これこそ毅然とした態度というものではないでしょうか。
「母親の恋人だった男は教師で、中央から遠く離れた地方の学校に勤めていた。俺達三人は地方の街でひっそりと暮らした。男は俺を可愛がってくれた。俺は生まれて初めて母親が嬉しそうに笑う顔を見た。俺の今までの人生の中で、心安まる日々を過ごしたのはその時だけだ。幸せそうな母親の姿を俺は今でも思い浮かべる事が出来る。今になって考えれば、母親は捕らえられる事を覚悟していたに違いない。だからこそ、束の間の幸せを思い切り味わいたかったのだろう。その男は貧しかったが、善良で優しかった。俺が母親以外の人間を愛したのは、後にも先にもその男だけだった。後で裏切られるとも知らず……! 俺達の幸せな日々も永くは続かなかった。三ヶ月もたたぬ内に居所を発見され、三人は捕らえられてしまった!影の総理は母に対する罰として、俺を母親の手から奪い神竜家に預けた。母親は屋敷内に閉じこめられ、男はどこかに連れていかれた。影の総理は男を殺しはしない、いつか会わせてやると言った。母親は信じた。それしか母を支えるものは無かったからだ。母親は男が必ず救いに来てくれると信じるようになった。ひたむきに男の愛を信じ、それに全てを傾けていた。だが、子供と愛する男を奪われ、閉じこめられている内に、母親の神経は弱っていった……。俺は時々神竜家を脱出しては母の元に忍び込む事を繰り返した。会うたびに母親の精神状態がおかしくなっていくのが、子供心にも解った。これも地獄だった……」
「そんな目に遭わされれば、誰でもおかしくなる……!」
 影の総理は極めて巧妙です。自分に背いた女への仕置きとして、まず心の支えを奪う。そして完全には壊れないように、微かな希望を与える。人間は、ほんの僅かな希望があれば、それを頼りに生きて行ける物だからです。しかし、その希望に全てを託してしまうと人間は視野が狭窄して精神が非常に脆くなってしまいます。
「そしてある日……影の総理は言った!あの男に会わせてやると…!信じられぬ思いで、屋敷内の一室に行った。確かに男は居た!だが以前の男とはまるで変わってしまっていた!金のかかった贅沢な身なりをし、脂ぎった顔をしていた!貧しいが善良で優しかった男の面影は無かった!傍らに若い女を連れていた!!訝しむ俺達に男は言った……影の総理のおかげで有名私立学園の教頭に抜擢してもらった。地方の教師とは比較にならぬ地位と収入を手に入れたと……そして女を新しい妻だと紹介した!母親の恋人だった男は言った。自分は影の総理に感謝していると……俺達母子も影の総理に感謝して仕えるべきだと……!男は影の総理に力で脅され、同時に世俗的な地位や収入という甘いエサを差し出され、俺の母親を裏切ったのだ!!闘う意志も無く下劣な欲に目が眩み、男だけを頼りにしていた俺の母親を……!これが、影の総理の俺の母親に対する決定的な罰だったのだ!!母親の愛した男がどんなに下らぬ人間なのか、いや人間の本質がどんなに卑しい物なのか見せつけたのだ!!母親は部屋を飛び出した。俺は慌てて後を追った。だが間に合わなかった……母親は短刀で胸を突いていた…………地獄だった……」
 男をただ殺すだけでは、想いは永遠に美しいまま、胸に刻まれる事になるでしょう。死者というモノは、無限に美化出来る存在でもあります。そしてその想い出を礎として歩み続ける事も可能だった筈です。
 けれど影の総理は、そんな事は許しませんでした。
 この罰は、人が人に与え得る最大級の仕打ちだと、私は考えます。全てを捧げ愛した存在を作り替え、想い出さえも踏み躙らせる……それを可能とする力を持っていると示し畏怖させる直接的な効能以上に、生きてきた時間そのものを否定するのですから。
「兄を刺した事で俺を高く評価した影の総理は、他の兄弟達と離して特別の英才教育を施す為に、俺をそのまま神竜家に預けて育てさせた。そして人間と社会について様々な事を学ぶにつれて、俺は、あの地獄の日々に人間の本質を掴んでいた事を知った!醜く争う兄達の姿!俺の母親を裏切った浅ましい男の姿!それこそが人間の本質なのだと……!!」
「それは違う!」
「人間は下らぬ欲望の為に醜く争い合うのだ!!人間は力に屈し易いものだ!!浅ましい欲望に高貴な人間性などわけなく放棄するものだ!!それが大衆の真の姿だっ!大衆はブタだっ!!」
「違うっ!神竜、お前は間違っている!!」
「この愚か者がっ!貴様もブタの群の中でくたばるが良いっ!」
 神竜剛次の人間に対する考察は、正鵠を射ていると私は考えます。ただ生きているだけで人間は素晴らしいとか、ありのままの存在そのものに価値があるとか、そういう人の心に砂糖を擦り込むようなフレーズが昨今では幅を利かせていますけれど、笑止の極み。常に自身を磨き研鑽する意志を持たぬなら、人もミジンコも同じようなモノ。命なんていう物は、それ自体は人も他の動植物も等しく無価値であり、そこに価値を見出すのはあくまでも主観の問題です。そして主観は甘やかせば甘やかす程に、醜さを許容する方向に傾くモノですから、常に自身で律する必要があります。それを放棄するならば、神竜剛次が言うように、人はブタと同じという事です。
 流全次郎は、あくまでも神竜剛次の言葉に抗います。仲間を信頼するに留まらず、「大衆」さえも信じようとするのが流全次郎という男の流儀だからです。彼自身、「大衆」には裏切られてばかりです。どれだけ流全次郎が力を尽くし誠意を示しても、少しでも自身に危害が及びそうになれば保身に走り、平然と彼を売り渡す……そんな仕打ちばかりを受けてきました。
 が、しかし。彼は他者からの酬いが欲しいから大衆を信じた訳ではありません。信じたいから、それが自身の信念だから、信じたのです。
 特筆すべき点として、神竜剛次が「貴様もブタの群の中でくたばるが良い」という言葉を使っています。
 つまり流全次郎という男は神竜剛次にとって、青臭い綺麗事を並べる目障りな敵ですけれど、それでもブタでは無いのです。これまでの闘いにおいて流全次郎は下らぬ欲望の為に争うのでは無く、力にも屈さず、浅ましい欲望を跳ね退けて人間性を示し続けて来たのですから。

 ブタではない、対等の人間と認めるが故に、だからこそ闘う。二人の決闘は、いよいよ佳境へと突入します。

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