夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

戦士と軍人との相違。

2013-10-12 | 中身
 以前、「弱いヤツは戦うな。」という記事を書きました。もう8年前になります。当時、「見事なまでにざっぱりとした阿呆な文章ですね」という感想を頂戴しましたけれど、あれは実際、多くの方々の率直な想いだったのだろうと認識しています。まぁ御存知の通り私は多くの方々、という要素に全く価値を見出していませんので、心に何も響かないのですが。
 兎にも角にも、あれはつまり「前書きのようなもの。」で記しましたような戦士の傲慢さを示した記事です。闘って闘って闘って死ぬ、全力で殴り殴られ殺し殺され喰らい喰らわれる。闘争というのはそういう生臭いモノであって、闘争を楽しむ為には生臭さを意に介さない天賦の資質が必要なのだと私は考えています。その資質を備えていない者が、それでも闘争に臨むというのなら……それこそ尋常では無い力量と覚悟が必要だろう、と。
 
 さて、万里の反論を拝読して感じた事はこの、闘争に対する戦士と軍人の認識の相違でした。
 ちなみにこれは今更申し上げるまでもない事ですけれど、そもそも純軍事学的な知識教養に関しましては、私は万里の足元にも及ぶものではありません。それこそ太平洋戦争当時の日米国力差くらいの開きはあるでしょう。故に時事系列などの指摘に関しましては私からの反論を行いません。これは、日付が数日前後しようと私の論旨に影響はない、というのも一因です。また、軍令伝達の仕組み、戦略戦術の立案と実行、これらも万里が仰る通りなのでしょう。それで何の問題もありません。
 何はともあれ要するに、山本五十六も南雲忠一も栗田健男も万里が列挙なさった彼等の上位者も含め、私が定義するところの戦士ではなく軍人である事は言うに及ばず、更に狭義での職業軍人であったのだろう、と受け取りました。どういう事かと言えば、これはつまり……「眼前の一戦に全てを賭けるか否か」の相違です。
 私は戦士ですから、勝てない闘いも望むところ。自分の矜恃を貫く為に己の勝手で闘うのですから、ぶっちゃけてしまえば勝ち負けは二の次三の次。軍令だろうと何だろうと他者の命令など意に介さず、覚悟を決めて強敵相手に闘技の全てを尽くし、死中に万分の一の勝機を見出しそれに賭け、生きるか死ぬかする事が大好物です。生か死か、その確率なんてどうでも良いと考えますし、己が掴みたいモノに手を伸ばした結果として失敗して死ぬのなら、ただ笑って死ぬ心積もりですけれども……山本五十六他二名、というよりも職業軍人は異なる。つまり、あまりに分の悪い賭は行わない。その結果として敗北が確定するとしても、それでも自軍全てを壊滅させる危険性の高い用兵は選択から外れるのでしょう。これが、「眼前の一戦に全てを賭けるか否か」という事。戦後、そして次の闘いを考慮するか否か、と言い換えても良い。だからこそ、まともに闘っても敗北が見えている戦争で、敵を利するだけの兵力温存策を選択するのだろうと認識しました。

 根本的な問題として、私は軍人という方々は戦士とは事なり、明確に勝利の為に闘うのであるから、己自身の主義主張も美学も矜恃も命も捨てて、勝利を得る為に全力を尽くすモノだと考えていました。だからこそ、その勝利を目指し形振り構わない姿勢こそが、軍人が戦士に闘争で勝り得るほぼ唯一の要素だろう、と。しかしまぁ実際、軍隊に限らず集団の意思統一が完全に行われる事は至難を極めますし……簡単に言ってしまうなら、私が軍人というモノを、買い被り過ぎていたという事ですね。いえ、買い被りとは違うのかも知れません。戦士と軍人では、そもそも行おうとしている闘争、その根源的定義からして異なるのかも。
 ……はっはっは、ますますもって「前書きのようなもの。」だけで済んでいた話の気がしてきましたっ。