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自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

「僧侶と海商たちの東シナ海」

2011-09-06 22:08:22 | Weblog
「僧侶と海商たちの         
東シナ海」榎本 渉著        2011-09-06

買った本はちょっと大型の文庫本で講談社選書メチエ
選書の本中世史のシリーズの1冊で「僧侶と海商たちの
東シナ海」榎本 渉著です。とても1時間で読める内容
ではありません。でもワクワクする題名です。僧侶と言えば
その昔、新しい文物を導入した学者であり、それを世の
中に教え広めた先生であり、医師が広まる前には医者で
もあり、日本文化形成の先達でした。海商と聞けば、海を
渡り各国の商品を売り買いし、文化交流と経済交流の担
い手で、カッコ良い大金持ちも居たことでしょう。東シナ海
とくれば、これはもう、日本と中国、沖縄、台湾、ルソンと
想いは広がります。そして海商は海賊にもなる。

古代、縄文人が外国へ行こうとすると、九州から壱岐、
対馬を経て釜山に着く。日本の外国との付き合いが、
最初が朝鮮であったのは当然かもしれない。600年代に
なり遣隋使が派遣された。隋まで行くとなると朝鮮経由
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4..

と言うのはどうなのか。遠回りなのか面倒くさいのか、航海
術も進んで来ただろうから、ルートが九州、済州島、中国
山東半島、又は蘇州、寧波というように変わる。玄界灘
から東シナ海へ。

遣唐使 630~894
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4..
上の年表では往きと帰りは翌年になっていますが、船は
そうなっていても一人の遣唐使が行って帰ってくるのは
約30年を要したと言われているので一生に2回は無理で
生涯に一度の大事業であったし、大変な秀才が選ばれて
行ったことでしょう。帰朝すれば出張報告は天皇に提出
されていたそうです。天皇に奏上して勅許を得て(それで
渡航費も下賜される)大宰府でpassportを発給して貰い
入唐する。唐がわでも人々が勝手に来ないように遣唐使
を通じて日本に命じていたようである。

船は国家事業であるから、その都度仕立てていたと推察
する。
海商  800~
やがてこの海を行き来して商いを行う海商が出現する。
国家事業として航海を手配しなくても、お金さえ出せば
行きたい所へ連れて行ってくれる人が現れると状況は
一変する。朝鮮新羅の人がその道に優れていたようで、
日本の船より速い、航海日数が短い。

円仁(遣唐使)は845年に帰国許可を得たが色々なこと
が起こり、目当ての船が利用出来なくなった。すると新羅
人の協力を得てすぐに別便の情報を得、847年9月2日、
山東半島を出て朝鮮西岸を南下し10日に対馬を通り過
ぎ、肥前沿岸を経由して17日に博多湾の能古島に到着
と榎本先生が記している。15日で日中を結んでいることに
驚きます。しかもルートは昔の玄界灘。ここまでで、本の
25%です。

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