Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

平家物語の恋騒動

2007-09-04 22:45:18 | Weblog
平家物語の恋騒動            2007-09-04

私が受講する平家物語を読み通すも、だいぶ進行しま
した。平家物語は平家の勃興と隆盛、やがて衰退の
物語です。だから大抵の話は男共の争いと戦いの話
ですが、中には珍しく恋物語が有ります。それが小督
(こごう)と言う訳です。

高倉天皇は平清盛の次女(後に建礼門院となる)を中宮
(複数の皇后が立てられたときに最初に立后された皇后
以外の妃)に迎え、或いは、迎えさせられ、その御子安徳
天皇に早々と位を譲られ、或いは譲らされたが、風流を
愛し、慈愛深い院であった。

中宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE

その院は中宮付きの女房の童で葵前と言う少女を愛した
が、いろいろ取り沙汰するものが有ったので、世間の非難
を憚って、逢うのを辞めた。少女は、院の心を知り病臥後
数日で没した。

嘆きに沈む院を見兼ねた中宮が自分に使えていた女房
の小督を院のもとに差し出す。小督は桜町中納言の娘、
絶世の美女で琴の名手であった。正妻が傍女を差し出す
と言うのが、よく判らないが、そうはっきりと書かれています。
院は小督を愛し、一見落着と見えたが、清盛の横暴、多分
最後の横暴が始まる。

この小督は冷泉大納言隆房がまだ少将の頃、見染めた
女房であった。その隆房の妻は清盛の娘の一人であった。
清盛からすると、2人の婿、高倉院と隆房とが小督を愛し、
つまり自分の娘の面子を失わせたことになる。おのれ、
にっくき小督め、ひっ捕らえて亡きものにするぞと叫ぶの
であった。ま、亡きものと言っても。この場合、相手はか弱き
女性である。出家させれば済むのだが。

これを伝え聞いた小督は「私はどうなってもいいが、院の
身の上に若しものことが有っては・・・」と宮中を去って、
行く方知れずとなる。それでも清盛は、お世話をする女房も
差し出さず、参内する臣下にも睨みを利かせたので「入道
(清盛)の権威に憚って参り通う人もなし。男女うちひそめて、
禁中(宮中)いまいましうぞ見えし(陰鬱であった)。

ただ清盛さんの味方をする訳ではないが、この頃の清盛は
いらつくことが多くなってきていた。外孫を天皇にすると言う
絶頂を極めながら、思いどおりに行かないことが起こり始め
たのである。それが福原遷都、1180年治承4年であった。
この年、平定はしたが源三位頼政、以仁王の反乱が有った
年である。

http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jikenbo/fukuharasento/fukuharasento.html
http://homepage2.nifty.com/lame-ru/genpei/siseki/sento.htm

多くの在来勢力(寺社も含む)の反対を押し切って強行した
福原遷都であったが、悪いこと(準備不足による手違い、不
具合)が続けて起こり、また強硬な反対意見にも逢って、
同年に京都へ戻るのである(実は京都もガタガタになってる)。
海外貿易で財政を運用しようとしていた清盛にとっては、日
宋貿易の港である大輪田泊りを見晴らす福原の地を都にした
かった思いはよく判る。そして、なんともあっけないことに、こ
の翌年、清盛は死んでしまうのである。平家の衰退を予感さ
せるには、充分な事件となりました。--続く--


最新の画像もっと見る

コメントを投稿