金曜日の昼

2013-07-26 | 日記

外は暑そうだ、ギャラリーはエアコンをつけなくてもまだ涼しい。時たま爽やかな風が吹いてきて、気持ちいい。金曜日の午前の時間はいつものように静かである。掛けてある絵は18年前の僕の作品 『 オーイマチス線 』 で、包装紙を使ったコラージュ作品である。当時、東京の大井町に、今もあると思うがカメラメーカーのニコン社があった。その大井町にはJR東北線と、東急線だったかの大井町線があった。ニコンの美術部の展覧会の時に、この絵を特別に出品させてもらったように思う。それでタイトルに大井町をかけて、アンリ・マチスが好きなのでマチスとくっ付けて、オーイ!マチス、だった。懐かしいナ … 、みんなどうしてるんだろう、みんな偉くなったんだろうナ … 。

あまりに静か過ぎると昔のことが勝手に出てきて、時間を忘れるのである。また今日も、もうランチタイムになってしまった。さて何を食べようか … 。パスタでも作るか、それとも近くのコンビニでパンでも買うかどうしよう … 。今朝はパンだったしな … 。

ところで明日27日 ( 土 ) は8時から、 『 朝活 』 の会場になるから朝は早めに出勤してちょっと忙しい。今回のテーマは 「 学んだことをシェアしよう 」 というもの。参加してみたいという方はぜひ来てみて下さい。参加費は、お茶・お菓子付き500円です。

 


透明グラスと 『 宝石の眠り 』

2013-07-25 | 日記

西脇順三郎最後の詩集 『 宝石の眠り 』 は昭和54年11月に花曜社から出版された。この時、詩人は85歳だった。装丁は詩人の吉岡実 ( 1919-1990 ) 。吉岡は装丁家としても有名であった。カクテルグラスを写したから、せっかくなのでこの詩集の中に 「 バーの瞑想 」 という詩があるので、それを紹介する。( 『 宝石の眠り 』 は昭和38年筑摩書房版 『 西脇順三郎全詩集 』 に収録したものを底本としている。単行本としては初めての詩集である。)

            野原を

            灰色に 

            かすつた

            指に

            ただよつてくる

            崖

            猫の死体

            樵夫の裸

            急に

            消された

            ヴェニュスに

            くらやむひとみに

            ただひとり歩く

            この野原の音

            永遠は

            菊の

            香いが

            す

            る

「 香い 」 とは匂いのことか。透明なグラスに赤い液体を注げば、「 赤いグラス 」 である。おいしいミルクを注げば、 「 白いグラス 」 になる。キコリ ( キリコ? ) の裸は名工のブロンズか。急に居なくなったヴェニュス ( ヴィーナス ) とは、急に化粧室に行ったバーのマダムかマドンナか。流す音がする。瞑想は単なる妄想であっても面白い。女の香りは、永遠なる菊花の匂いである。

 


今日の玄関

2013-07-24 | 日記

日の丸がゆがんだような作品はジョアン・ミロ ( 1893-1983 ) の版画 ( リトグラフ ) 。何とかシリーズの内の一枚で、何とか思い出したいのだが、何故か思い出せないでいると、しばらく気になって一日仕方ないのである …。 要するに … 忘れてしまった。 隣の作品は二科会の野村守夫 ( 1904-1979 ) の油彩6号 『 丘にある街 』 。野村はこの作品で芸術院恩賜賞をもらった。洋画家では好きな画家である。花を生けるのは母の仕事である。

腰痛が未だ回復してないので今日は病院だったから、読書も文庫本でだった。待合でカズオ・イシグロ ( 1954年生 ) 著 『 浮世の画家 』 ( 飛田茂雄訳 中公文庫1992年刊 ) を再読する。ストーリーはすっかり忘れてしまっている。いいのかそうでないのか、あれもこれも忘れる最近である。そうは言っても何度でも楽しめるということは、まあいいことなんだろう。と思い直しておく。そこで主人公の洋画家・小野には、長女は既婚の、次女は妙齢の、二人の娘と戦死した長男がいた。物語は、次女の縁談が破談になった理由を問うことから、始まる。今夜はその続きを、雨上がりの涼しい風を部屋に入れながら、読もう。睡魔がいつ襲ってくるか …。

 


季刊詩誌 『 無限 』 ( ㈱無限 昭和58年7月1日発行 )

2013-07-23 | 日記

       

 『 無限 第46号 』 の特集は 「 花・西脇順三郎 」 で、西脇の亡くなった翌年の出版である。表紙画及び挿画は池田満寿夫 ( 1934-1997 ) 。ここに西脇の 「 詩論・ポイエテス 」 が掲載 ( 再録 ) されている。11ページに亘る長文であるが最後部分を抜粋する。

詩人は超自然 ( または超現実 ) の経験を作品の中で表現する。これをマイナスの極とし、詩人の頭の中にある自然の経験 ( または現実の経験 ) をプラスの極として、この相反する二つの経験を詩人の頭の中で連結する。代数的にゼロになるように連結すれば絶対の調和が得られる。

これを創作者の立場でなく読者の立場からみると、読者は先ず作品に表現されたマイナスの極と読者の頭の中にある自然 ( または現実 ) とを連結してみることになる。その時作者がその頭の中に調和を感じている時は同じ頭なら同じ作用を感じることになる。

であるから芸術は超自然とか超現実であるといっても、決して現実と自然とを排除しようとするのでなく、芸術の作用をおこすためには現実と自然は必要なものである。現実とか自然がなければ芸術は成立しない。すなわち芸術作用の方程式は 「 超自然+自然=ゼロ 」 である。最大な調和はゼロである。それでゼロを作るには同量の超自然と自然とを結合しなければならない。

二つの相反するものの、結合の調和を創作することが、詩人なのである。現実や自然だけでは詩にはならない、超現実・超自然だけでも詩ではない。それら異次元の二つの調和こそが詩なのである、という。ただ愛だけでは詩ではない。ただ苦しみだけでは詩にはならないのである。詩の創作とは、それらを超えたものを結合しなければならないのである。愛を超えたものとは何だろう、苦しみを超越したものとは何だろうか … 。

ここに僕は詩の創作というものが机上でないことを理解する。僕は愛を超えるものを発見しなければならないのだし、苦しみを超えるものを、僕は自分の人生に見出さなければならないのである。僕が 「 詩 」 を書こうとするならば … 。

 


雨が降ったり止んだり、渡邉崋山。

2013-07-22 | 日記

夕方には激しい雨が降ったし、雲の流れも速いから夜の空はどうも怪しいから、今夜のウォーキングは止めた。だからその分、今年生誕220年になる渡辺崋山 ( 1793-1841 ) の画集を見る。夕方からずっと見ていたのだけど、崋山の線はとても繊細である。風景を描いたドローイングなどは、本当に空気が流れているようなのである。彼は武士でありながらその貧しい生活のため、絵を習い儒学を学び、読書をし絵を描き、 『 慎機論 』 を草し国宝 『 鷹見泉石像 』 を描き、絵を生計の資にしたという。そして言論弾圧事件に巻き込まれ、田原藩国許に蟄居を命ぜられたのだった。しかし蟄居中、 「 不忠不孝渡邉登 」 の絶筆と老母を残し、また別な憂患によって自刃したのである。この明かりの下、画集を見ながら僕は、江戸時代末期の、民を思う為政者にして画家・崋山に思いを馳せる。

また雨が降り出し、また止む。降り止むと、明けてある暗い窓から心地いい風が入った。深い信頼にあった老儒者・松崎慊堂 ( 1771-1844 ) は日記 『 慊堂日暦 』 に 「 崋山似杷憂羅罪、又似杷憂死、哀哉。 」 と記した。 「 杷憂 」 とは杞憂のことか?思い込まなくてもいいものによって罪を背負い、そして死ななくてもいいものによって、死んでしまった。 崋山よ、君は余りにも哀れだ、と師は悲嘆するのである。哀れな崋山であった。悲しい崋山であった。しかしここにも美しい永遠の星がある。

このランプの下、画集を閉じてメガネを探すのは何か抜けているのだろうか。そうかも…。