先日、古道具屋さんで見つけた黒いマットのキャンバス0号額縁に、10年前に描いたスケッチを入れて玄関の「ミチオ君」の脇に飾って見た。描いた日付けを見ると2008年3月31日で、僕がUターンしたのはこの年の5月末だったから、引っ越しの準備で忙しくしていた頃だった。そしてもう10年が過ぎたのである。昨夜、八代亜紀のCDを聞きながらたくさんに積み重なって崩れているスケッチブックを物色していて、なんとなく、言葉の書かれてあるこの絵を入れて見たのである。この写真の拡大が下の写真である。
言葉は「花の匂い」と題した哲学者・九鬼周造 (1888-1941) のエッセイから一部を引用したものである。今思っても、当時からあんまり読書範囲が拡がっていないのが知れて、それはそれで改めて思いを深くするのである。長年の東京暮らしを離れるに、九鬼周造のこの「可能が可能のままで … 」という言葉が胸にジーンとくるのであった。3月末に描かれてあるから、引用文の下に書いた桜色の3本の樹木はきっと桜である。文の中に木犀とあるがこれはちょうど今の季節で、春と秋がこの紙上で同居しているのが僕としては面白い。以下はその文章である。
花の匂い
今日(こんにち)ではすべてが過去に
沈んでしまった。
そして私は秋になって
しめやかな日に庭の木犀の匂を
書斎の窓で嗅ぐのを好むように
なった。私はただ
ひとりでしみじみと嗅ぐ。
そうすると
私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。
私が生まれたよりも
もっと遠いところへ。そこではまだ
可能が可能のままで
あったところへ。 ― 九鬼周造 ‘08.mar.31 写す
一首記す。 ―うすい桃色の花びらを踏んで通う道は雨降りー 実通男
きっと平成20年3月31日の朝の通勤時には、雨が降っていたのだろう。住まいから会社までは歩いて通っていたのだった。