PAUL KLEE SPIRIT

2013-03-25 | 日記

              

    パウル・クレー 『 「 悲嘆にくれる子の踊り 」 のためのデッサン 』 1921年

「 現実はほんとうに汲めども尽きない。一つ一つの物は現にそこにあり、きらきら輝いて、その本性の中にうめ込まれている。線はどれも引かれ、色彩はどれも光る、力強く、やわらかく。それらがどれもこれもみな見える。ただの一つも見落とされない。固定して、いとわしくも天国的に固定している。豊かさというものはない。貧しさというものはない。それは現実の平面図で、ちょうど細い銅版の画のよう、まるまった小さな記号がいちめんに書いてあるページのよう、そしてぼくはというと、言い表わすことができないけれども、それでも本当なのだ、ぼくが、ぼくの思考や、ぼくの中に閉じこめた死を持っていて、山ではなく、雲ではないけれども、またそれらのあいだにしるしづけられてもいるのは、ぼくが混じり合い、ぼくが住処を持っているのは。

ぼくはぼくがあるところの者で、過去もなく未来もなく、逃れゆく時を、ぼくの真実を持っていて、まったく一時的な、はっきり描き出され、すっかり取り囲まれた者だ、そしてぼくには隣人たちがいる。そしてぼくはこう言おう。」

     「 無限に大きなものと無限に小さなもののあいだには、

        無限に中ぐらいのものがあるのだ、と。」

          ( ル・クレジオ著・豊崎光一訳 『 物質的恍惚 』 から引用 )

僕の中にはあらゆるものが閉じこめられている。醜いものも美しいものも、猜疑も信頼も、小さなものも大きなものも … もう、面倒くさくなるくらいにあらゆるものが! 閉じこめれてあるのだ。生も死も僕の中に住みついている。だけど、僕はその中の何を開放するのか! ここに僕というスピリットが発生する。