有田芳生の『酔醒漫録』

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『実相 日本共産党の査問事件』を読む

2008-04-21 08:46:16 | 読書

 4月20日(日)080420_13350001 珍しく昼間の池袋リブロへ出かけたのは、油井喜夫さんの『実相 日本共産党の査問事件』(七つ森書館)を手に入れるためであった。いまから35年も前の「新日和見主義」事件についての著作だ。私も20歳から最近まで「事件」が「傾向」や「潮流」を摘発したもので、ひどいものだと思ってきた。ところが『素描・1960年代』で中心的当事者が分派だったと認めたことに驚きつつも「そんなものだろう」と冷静に受けとめていた。ところが油井さんは当事者のひとりとして許せなかったのだろう。当然だ。被害者にとっては事件が「人生」そのものであるからだ。その感情と理性が一冊の著作を生んだ。山川暁夫(川端治)さんなどすでに鬼籍に入ったひとたちもいる。「いつも5月になると気が重いんだよ」と山川さんはよく語っていた。査問された側からすると、薫風香る心地よい季節さえ、そうは感じられなくなる。それだけの事件だった。関係者は本音の記録を事実に基づいて残すべきだ。しかし「遠い風景」を総括することが「いま」に連なるのならいい。35年も共感してきた私にとっては何だかノスタルジアの世界のようにしか思えないのは、すでに関心が別のところにあるからだろう。駅を降りて歩いていたら立派な家屋の塀に建築計画が掲げられていた。4階建ての共同住宅ができるという。庭にある手入れされた木々も伐採される運命か。どんどん変貌していくこの街に計画性などどこにも見られない。薬局で日垣隆さん推薦の「ハナノア」を買ってみた。「鼻うがい」は花粉症や風邪にいいらしい。べつに花粉症ではないのだけれどどんなものかと思った次第だ。夕食時に最近「発見」した「ふなぐち菊水一番しぼり」を飲む。10缶ほどを何と7年間も寝かしていたことになる。このアルミ缶に入った日本酒にはほろ苦い想い出がある。査問されていたころ、練馬区貫井のアパートでこの酒をよく飲んでいたからだ。私が31歳、長男がまだ1歳。蓋を開けて杯に注ぐとトロリとした琥珀色。口に含むと深みある古酒になっていた。中村一好さんとこの酒を飲みたかった。


中村一好さんを悼む

2008-04-20 10:53:08 | 人物

 中村一好さんを追悼する一文を「東京新聞」(4月15日)に書いた。タイトルは「あふれ出る音楽的才能 中村一好さんを悼む」。表記などの一部変更があるが、ここでは原文を掲載する。


「都はるみは日本の宝なんだよね」中村一好さんが、澄んだ低い声音でそう語ったのは、どこの酒場での会話だったか。「中村一好が愛した北村春美」と吐露して逝った心情の「闇の奥」に沈殿していたものが何かは誰にもわからない。もっとも近くにいた北村春美=都はるみさんさえ「思い当たることがなく」と言うしかないほどの無念。
 この数年、中村さんの酒量が増え、「毎晩呑んでは自棄的になっていました」(はるみさんのメッセージ、四月十日付)との姿を、私もまた垣間見ることがあった。しかしいつも捨て鉢になっていたわけではあるまい。都はるみという「日本の宝」にどのような新しい装いを施せばいいのか。中村さんはしばしば熱く語っていた。
 ある夜のこと。はるみさんも交えての会話のなかで、「年齢をさらに重ねたとき、小さなサロンのような会場に呼ばれて歌うのもいい」と将来構想を温めたこともある。はるみさんも「そうね」とうなずいていた。自暴自棄がまさったある刹那に「自己死」を選んだ中村さんには、「諦念のパトス」(トーマス・マン)があったのだろうか。
 中村さんの誕生日だった昨年六月三十日、六本木で還暦を祝う会が開かれた。主役の立場にもかかわらず、事務方責任者のように立ち回っていた中村さんは、想い出の数々を紹介するスライドの説明も自ら行っていた。そのとき配られた「中村一好・制作作品リスト」には、日本コロムビアに入社した翌一九七三年の「おそい夏」(麻田奈美)から二〇〇七年の「蛍の宿」(都はるみ)まで、百七十二曲を手がけたことが記録されている。
 主なプロデュース作品は「さだめ川」(ちあきなおみ)、「想い出ぼろぼろ」(内藤やす子)、「大阪しぐれ」(都はるみ)、「天城越え」(石川さゆり)などなど。あふれんばかりの音楽的才能がよくわかる。「彼なくしては今の私はありませんでした」とはるみさんはいう。そのとおりだ。「歌屋 都はるみ」あるかぎり、中村一好さんの精神は生き続ける。


クミコの「友よ!」は素敵なアルバムだ

2008-04-20 09:04:00 | 人物

 4月19日(土)206 「婦人公論」の原稿をさらに加筆。どこまで何を書けば中村一好さんの追悼になるのかを熟考。26日に行う第2回「有田塾」のために石神井公園駅前で1時間、大泉学園駅で30分訴える。都内に戻りつつ銀座の三越前で30分。新しいリーフレットの表紙が弘兼憲史さんが書いてくれた似顔絵だからだろうか。若い人たちもよく受け取ってくれる。東京フォーラムCで家人と待ち合わせてクミコさんのコンサートへ。「友よ!」という新しいアルバムには、こんな言葉が添えられている。「忘れかけた物語を歌おう 同じ夢を追いかけ、同じ涙を流し、同じ時を生きた、友のために」。歌唱の合間のトークを聞いていれば、この歌手が同時代の空気を吸っていたこと、「何か」の社会運動に近かったこともよくわかった。そういえば年齢も2歳下だ。クミコさんからいただいた手紙には個性的な筆跡で「同世代へのエールになればと思っております」と書いてある。「向こうの世界」を歌った「私の青空」を聴いていると、中村さんの想い出がいくつも蘇り、目頭が熱くなってしまった。アンコールではアカペラで歌う「友よ」。幕が降りて会場を出るとき、「さっき大泉学園で演説されていましたよね」と女性から声をかけられた。こんなことがあるものだ。お祝いの花のいちばん右側に「都はるみ」の名前を見つけた。


38年ぶりに「太陽の塔」を見た

2008-04-19 09:09:47 | 立腹

 4月18日(金)080418_13240001 こんな原稿を書きたくないと思いながら「婦人公論」の原稿を最終的に推敲。イヤでも書かなくてはならないのは、テレビ、週刊誌があまりにも事実を歪めているからだ。嬉々として語るある女性リポーターなどは中村一好さんが制作し、都はるみさんの節目となった「大阪しぐれ」の名前さえ間違えていた。人の死さえも消費されていく。殺到したマスコミからの依頼を断り、「東京新聞」と「婦人公論」に原稿を書いたのは、都合いい部分だけをアリバイ的に使われるのを避けるためでもあった。死者を悼み、その仕事をできるだけ正確に伝えること。はるみさんには「東京新聞」の原稿を事前にお渡ししてあるし、「婦人公論」にお二人のことを書くことも伝えてある。編集者に原稿を送りホッとしていたところ、ある出版社の編集者である古い友人からメールが来た。それを見てびっくり。都はるみさんのインタビューを取ろうとしているらしいが、そっとしておくべきだ、悪い噂が立っているという忠告だった。すぐに電話して事実無根と説明をした。噂を流している者は、「都はるみも困っている」などということまで語っていたようだ。どこからそんな話がでてくるのかと唖然。はるみさんはほとんど誰とも会っていない。もちろん噂を流した人物とも。友人は噂を信じたことを反省していた。勝手な噂は避けられない。問題はそれを信じるかどうか。困ったものだ。はるみさんに付いているYさんに伝えると笑われてしまった。ホテルを出て大阪大学へ。乗り換えの途中で「太陽の塔」が見えた。38年ぶりに見たことになる。大阪大学のコンベンションセンターで行われている全国霊感商法被害弁連第47回集会で「北朝鮮と統一教会」について報告。終えたところで会場を出て新大阪。新幹線のなかで与謝野馨さんのはじめての著作『堂々たる政治』(新潮新書)を読む。


雨の大阪で原稿の推敲

2008-04-18 09:32:58 | 随感

 4月17日(木)大阪へ向う新幹線で「婦人公論」の第1稿を完成。編集部がつけたタイトルは「最愛のパートナーを失った都はるみさんへ」というもの。心斎橋のホテルでさっそく1回目の推敲。雨のなかを「わのつぎ」。ホテルに戻り「統一教会と北朝鮮」に関する資料を読む。


都はるみに会ってきた

2008-04-17 07:37:44 | 芸能

 4月16日(水)080416_16460001 寿司「はや田」の店主、早田城嗣さんの案内で「手打十段 うどんバカ一代」へ。早田さんが高松市内でいちばんのお薦め。朝6時から午後6時までの営業だ。ホテルに戻ってチェックアウトを延長して原稿を書く。午後2時。雨のなかを県民ホールへ。中村一好さんが亡くなってはじめての都はるみさんコンサート。関係者に購入をお願いしていた席に座っていささか困った。舞台から見て右手、前から4列目の端だ。これでは舞台から顔が見えてしまう。はるみさんは「知っている人の顔が見えると歌いにくいのよ」と語っていたことがある。なるべく小さくなっていようと思う。会場は2001人の席が満席。石川敏男さんなど、顔見知りのテレビリポーターたちもいた。開演を告げる鐘がまるで中村さんへの弔鐘のように聞こえる。舞台に現れたはるみさんの身体がひとまわり小さくなっていたので驚く。最初は「アンコ椿は恋の花」。歌い終えたところで「悲しいことばかり続きました」と涙ながらに語り、「歌を歌っていくしかありません。申しわけありません。涙は家に置いてきました」と細い言葉で結んだ。とはいえ「浮草ぐらし」で涙ぐみ、「抱きしめて」で第1部を締めた。第2部からは気分を変えたのだろう。いつもの明るい雰囲気に戻ったものの、第3部の「小樽運河」などで表情が変わっていた。会場のどれだけのファンが気付いただろうか。中村さんとの想い出の曲である「大阪しぐれ」を歌う直前には両こぶしを上から下に叩きつけるように力を入れた。そして「夫婦坂」では歌いながら鼻をすする音が何度も聞こえた。中村さんとの生活のために「引退」するとき、紅白歌合戦で歌った作品だ。「私の取り柄は元気です」と語り、いつものように「好きになった人」で幕が降りた。マスコミの囲み取材があるというので楽屋へ。待っていると関係者から声をかけられはるみさんの控室へ。しばらく話をした。会見は10分ほど。消え入るような小さな声。こんなときに聞かなくてもいい失礼な質問もあってあきれる。これからの支援をどうすればいいかを考えつつ帰京。


質問に答えられない厚労省役人

2008-04-16 08:54:52 | 立腹

 4月15日(火)080415_23540001 北海道新聞のK記者から電話。東京新聞に掲載された中村一好さんの追悼文を使いたいとのこと。提携紙なのでそんなことが可能なのだという。よろこんで了解。夕方まで「婦人公論」の原稿を書く。有楽町で「漫画実話ナックルズ」のMさんから取材される。批判的批評をとの申し出だが、とても面白かったことを伝える。徳島刑務所での虐待、各新聞社の記者の実態、2万人の風俗嬢が消えている不思議、タミフルを乱発した医院などなど、社会性あふれる内容なのだ。下品な写真を少しでも改善できればもっと読者は増えることだろう。午後7時20分のANA539便で高松。「はや田」で寿司。「凱陣」を飲みながら地元医師から話を聞く。メタボ検診の説明会に来た厚生労働省の担当者は、会場からの質問には答えなかったという。質問があれば紙に書いて提出して、あとからファクスなどで回答するとのこと。後期高齢者医療制度もふくめ、疑問に答えられない制度が、見切り発車で生活を侵食していく。


「天才肌の音楽プロデューサー」

2008-04-15 07:47:10 | 人物

 4月14日(月)気象庁に電話をして3日深夜の天候を聞く。気温が何度で風はどのように吹いていたのか。それはわかったけれど、その夜に月が出たいたかどうかは東京天文台に聞いてくれといわれた。そこで電話をすると込み合っているからあとでかけるようにとの音声ガイドが流れるといきなり切れてしまう。そんな設定になっているのだ。何度も電話することでようやくつながる。中村一好さんの最後の夜を知りたかった。『中上健次エッセイ撰集 文学・芸能篇』は都はるみ事務所の中村さんの机上にあったただ1冊の単行本。「都はるみに捧げる」「ふたたび都はるみに捧げる」「都はるみ 最後のヒノキ舞台」「『アンコ椿は恋の花』の秘密」「志としての都はるみ」を読む。中村さんにとっては都はるみは「すべて」であった。六本木のグランドハイアット東京の「旬房」でテレビ朝日のYさん、その友人のSさん、Rさんとランチ。想い出話に抱腹しばしば。ANAインターコンチネンタルホテルで「週刊文春」の石井謙一郎記者と待ち合せ。「東京新聞」に書いた「中村一好さんを偲ぶ 天才肌の音楽プロデューサー」のゲラをチェック。仕事を終えて神保町「北京亭」。3時間も四方山話。53度もある中国酒を数え切れないほど飲む。


福祉中心の社会を創ろう!

2008-04-14 08:12:28 | 新党日本

 4月13日(日)080413_17330001 静岡にある病院のケアセンターで96歳になった義母に面会してきた。てきぱきと働く職員の姿が数時間の間だけでもとても印象に残った。介護士、看護師、医師など、人のお世話をする仕事の待遇をもっともっと善くすべきだろう。人類史にもまれな超少子高齢社会に突入しつつある日本。これからは産業構造を福祉中心に転換していくべきだ。「新党日本東京都第一支部NEWS 2008 VOL.2」でも書いたことだが、北欧諸国では福祉中心社会にすることで所得が2倍以上になった国が11もある。アイルランドなどは何と3・66倍だ。田中康夫代表が知事時代に実現した「宅幼老所」(お年寄りと幼児が同じ空間で時間を過ごす場所。400か所で実現)なども全国に拡大すべきだ。介護、医療、福祉の包括的ケアも具体化すべき課題である。病院を出たところで鮮やかな花々が眼に入った。芝桜だ。自然の色彩の何と美しいことか。静岡駅で予約した新幹線のチケットを遅らせるために窓口に並んだところ、前にいた男性に声をかけられた。「選挙のとき、新党日本の担当だったんですよ」という。時事通信のN記者だった。家人と駅構内にある「大作」へ。前から気になっていた居酒屋だ。生しらす、生桜エビや青のりがとても美味。乗車を遅らせてよかった。


一日がかりで追悼文を書く

2008-04-13 08:39:59 | 随感

 4月12日(土)池袋「おもろ」で「あゆみ出版」時代の同僚Kさんと泡盛を飲む。ここでも中村一好さんや都はるみさんと食事をした。いちばん最初はオウム事件の1995年。中村さんは「すくがらす」を何度も注文。そんなことを思いだせば泡盛が進むばかり。今朝から「都はるみ全曲集 枯木灘 残照」、「都はるみ・なさけ川」を繰り返し聴きながら「東京新聞」の原稿を書いていた。たったの2枚なのに、あだやおろそかには書けないという思いから何度も何度も推敲。この枚数にひとりの人生を凝縮することなど至難の業だ。ましてや兄のように慕っていた中村さんのこと。もはやいかんともし難いと午後5時に編集者に送信。新聞休刊日があるので掲載は15日の朝刊(予定)だという。『婦人公論』の原稿は12枚から14枚。そこではもっと詳しく書くことができる。中村さんの机上にあった一冊の本。昨日、出版社に連絡すると在庫なし。倉庫からの取り寄せというので、急いでネットで検索。吉祥寺の古書店に問い合わせると、あった。すぐに銀行振込を行うと、夕方には「発送しました」との連絡。そして今日の午後には到着。便利なものだ。トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(岩波文庫)も品切れ。その人間分析が、激情家だった中村さんの追悼文に参考になるかなと思ったものの、締め切りには間に合わない。仕方ない。