有田芳生の『酔醒漫録』

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「レッテル貼り」という方法

2006-09-19 06:57:04 | 思索

 9月18日(月)ジムを出たところで大阪から来た友人といっしょにいるという長女から電話があった。「どこにいるの」「表参道で泳いだところ」「見て見て、空を。すごくキレイだよ」。空を見上げるとたなびく白雲がまだらに薄紅く染まっていた。地下鉄に乗る。休日の車内は家族連れが目立ち、普段は背広姿のビジネスマンもラフな姿だ。週刊誌の吊り広告を見て「レッテル貼り」について考えた。疑心や不安から、あるいは他人を効果的におとしめるために使うのがこの手法だ。ネット検索すると「人・ものを『××だ』と決めつけること。人や事物を大まかにカテゴリー分類すること。特に政治的・思想的な分類に対して批判的に言及する際に用いられる」とある。数年前のこと。月島のもんじゃ焼き関係者から問い合わせがあった。「新しい店が繁盛しているんですが、どうも統一教会が経営しているようです」。調べて欲しいというのだ。「根拠は」と聞くと、店名がどうも怪しいという。たしかに統一教会信者を指す英語名に似てはいる。そこで調査をしたのだが、統一教会(信者)が経営しているという事実はまったくなかった。依頼者は「おかしいなあ」と不満げであった。それからさらに数年。マスコミ関係者数人で月島に行った。「怪文書」の研究で知られる先輩がさらりとこう言った。「ほら、あの店、統一教会なんだってね。アリタさんだから知っているでしょ」。つい最近のこと。朝日新聞政治部記者の知人と築地で飲んだ。「月島のもんじゃ焼きに統一教会が進出しているんですって。もんじゃだけじゃないですよ。いま話題の寿司屋チェーンにSってあるでしょ。安くて美味しいんですよ。あれ統一教会ですってね」。「そんなことはないよ」と言っても、もはや都市伝説になると「ここだけの話」が「事実」となり、広く流布する。オウム真理教しかり。板橋に開店したケーキ屋は噂が原因で廃業に追い込まれてしまった。後発の同業者が多くの客を集めて繁盛しているとき、統一教会やオウム真理教のレッテルは、素早く浸透していく。

060918_17580001  週刊誌がこの「レッテル商法」をすることには、どこに問題があるのか。それは取材方法論の核心に関わるからである。わたしには恥ずべき経験がある。霊感商法を取材するまで「統一教会=勝共連合=韓国生まれの国際的謀略組織」という図式がすり込まれていた。書籍や新聞などから得た知識である。「朝日ジャーナル」の霊感商法批判チームに加わりーーといっても藤森研さんとわたしだけだったがーー取材をはじめたとき、尾行や無言電話もあった。北海道の施設を訪ねたとき、出てきた責任者が身体を震わせながら「ぶっ殺してやろうか!」と叫んだこともあった。それでもわたしは自分が信じ込んでいた図式は違うぞと思うに到った。何人もの元信者や少ない現役幹部から話を聞き、とても謀略を行うような人たちではなかったからだ。もちろんなかには「非合法」的な任務を与えられる信者もいる。ここで気がついたのは方法論の間違いであった。哲学的にいえば「演繹法」ではなく「帰納法」でなくてはならないということだ。『明鏡国語辞典』(大修館書店)を見る。演繹とは「一般的な前提から、経験にたよらず論理によって個別の結論を導き出すこと」、帰納とは「個々の具体的な事実から共通点を探り、そこから一般的な原理や法則を導き出すこと」とある。つまり取材を通して得た事実から出発して結論を出すのがジャーナリズムなのだ。はじめに設定した「一般的前提」に取材対象を流し込んではならない。わたしはフリーランスになったばかりとはいえ、霊感商法の取材を通してそのことを学んだ。中身がないのに大声で啖呵を切るばかりの「レッテル貼り」は取材方法論として根本的に間違っているのである。


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