有田芳生の『酔醒漫録』

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松本清張の高い志

2006-12-07 09:08:00 | 思索

 12月6日(水)テレビ局を出てジムへ向う。少しでも時間があれば身体を動かしたいと思うからだ。以前は週に5回も通っていたのに、いまでは1回から2回になってしまっている。それでも体重に変化なし。500メートル泳いだところで時間切れ。地下鉄で銀座。アップルストアでノートパソコンの設定について相談。専門知識のあるスタッフが丁寧に教えてくれ、ただちに解決した。約束していた知人から電話があり「てつ」で雑談。取材をしていて人間の本性がわからなくなることがある。あるところまでは親密に協力していてくれたものが、まったく拒絶という態度に変わることがあるからだ。他人から伺い知れない心の変化は、疑心暗鬼から生れるにしろ、無意識のなかで築かれてきた人格の表明なのだろう。あえていえば歪みだ。誰もが「癖」や「好き嫌い」などを表す価値判断を形成するが、そこにも伸び伸びした素直なものから攻撃的なものまで、数限りないパターンがある。関わりたくないと思わせるような攻撃的人格は、自分の姿を映す「他者という鏡」が曇ったり、壊れたことを背景にして、自己絶対化から生れる。それでも取材対象者だから気持ちは重くなる。松本清張は短編全集1『西郷札』(光文社)のあとがきにこんな決意を述べている。

 小説修業をしたことのない私は、どのような小説を志すべきか見当がつかなかった。ただ、他人の行く道は踏みたくなかった。

 これは小説の世界だけではなく、どんな分野の職業でも大切な志だろう。他人の行かない道を探り、見出すには、まずは我流の物まねからはじまるにせよ、どこかで自分の世界を作らなければならない。ノンフィクションの世界でも、たとえば沢木耕太郎さんのエピゴーネンは何人も現れた。文章の言い回しがそっくりなのだ。ところが真似るだけの書き手はいつのまにか消えてしまった。テレビでも同じだ。かつて田原総一朗さんによく似た仕草、語りかたをする人物がいた。誰もが「田原さんみたいだね」と感想を述べていた。「みたいだね」というのは否定的な評価である。彼もまたいつしかテレビ世界からは消えていった。憧れや目標とするものがなければ出発はない。しかし、いつまでもそこにとどまっていては進歩は生れてこない。どこかで生れる飛躍の条件は何だろうか。それが清張のいう「他人の行く道は踏みたくなかった」という志なのだ。他人のすぐれたところを方法として真似るにしても、自己を確立しなければ、いつしかその自分の影は薄れ、かげろうのようにはかないものに育っていく。