1944年から1945年にかけて大牟田は5回の空襲を受けました。市街地も対象とした無差別爆撃でした。このため学生や子供、一般市民も爆撃の犠牲になりました。大牟田市役所の屋上には厚いコンクリートでできた防空監視所が残っています。監視所の中には人が入り伝声管で階下の対策室に侵入する飛行機の数や方向を伝えていたそうです。
高射砲陣地は三井の石炭コンビナート工場群を見晴らす丘の上にあります。この丘にあり陣地に隣接した三井三池染料工場検査課に直撃弾が落ち、6人の女子学徒を含む29名が殉職されました。昭和20年8月7日正午のことです。大牟田でも戦争を体験した人が少なくなりました。私も次の世代に語り継いでいこうと思っています。やはり平和がいいですね。
コメントありがとうございます。
大牟田市内に戦争の爪跡が残っているのは
ここ一件です。
今の世の中は戦後生まれの人が多くなり、
戦争の怖さや悲惨さを知りません。
冷戦時代は終わりましたが、各国では民族
対立の地域紛争や宗教紛争で多くの子供
達が犠牲となっています。
早くこの戦争が終結し、子供達の笑顔を見たい
と、願っています。
今の世の中平和で、戦争のこういった悲惨さ、悲しみ
感じなくなってきたみたいですね。
でも世界中どこかで戦争の被害に遭っている子供たち
がたくさんいます。大人の犠牲になっています。
コメントありがとうございます。
ベルさんは私と同世代だと思います。
両親からは戦争の話を一度も聞いた事は
ありません。
ただ、双子の叔父達が海軍と陸軍に別れて
徴集されたので復員後、喧嘩が絶えなかった
そうですし、もう一人の弟は終戦の年に満州に
徴集されて行ったそうです。
終戦後、ソ連軍の捕虜となり現地で戦病死を
したと母からは聞いています。
戦争は愛する家族や友人等を悲しみに落とす
ので、絶対にしてはいけませんね。
コメントありがとうございます。
各地には戦争の遺産がたくさん残って
いると思います。
防空壕跡はは各地域にあったようですが
危険なので土で埋められてしまっていて
何処にあるかはわかりません。
私は戦後生まれなので戦争の悲惨さを
恩師から聞いて育っています。
父親が戦争に行って医者の助手をしてたとか、
幼く父を亡くしたので、戦争の話は余り聞く事は無かったです。
母から聞いた話では、父は戦争が嫌だったみたいです。
それで医者と行動を共にしていたみたいです。
砲台は、此方にも瀬戸内の島に残ってます。
一度だけ見に行った事が有ります。
その島は、兵舎も司令塔跡も残ってます。
関東にも防空壕跡などが見られます、私も空襲だと
思います母親に手を引かれて空が真っ赤だったことだけは
覚えてます。
コメントありがとうございます。
今の代議士は二世の人が多く誕生し戦争の
恐ろしさを知らない人ばかりです。
戦争によって多くの若者が戦場へと徴兵され
帰らぬ人となりました。
今の平和は、彼らの犠牲によって成り立って
います。
今後も平和な世の中が続く事を願っています。
コメントありがとうございます。
戦争は罪のない人々を苦しめるので絶対に
してはいけませんね。
今の政治はまた戦前の世の中に帰ろうとする
動きがあるように感じています。
戦後日本は戦争放棄を憲法で定めています。
これからも戦争がない平和な世の中であって
欲しいと願っています。
戦争で得るのも無いことを悟って欲しいです。
国民の命と財産を守るといって、戦争を始めたのです。
そして同じことをいま、言っています
戦争をしない努力が大事なのでは