最近隣のマンションの軒先にいるツバメたちがそろそろ巣立ちそう。
そろそろ巣立ちの時期を思わせるのでこのテーマで書いております。
上の題名ご存知の方もおりますかと思いますが、この時期特に多いヒナの誘拐のことを指します。
誘拐と聞くと「ヒナのためを思ってしたのに…」
とおっしゃる方々が多くいます。
何がヒナのためなのか話を聞いてみると
「ヒナ鳥が飛べないのに地面を歩いていたから」、「ノラ猫が近くにいて狙われていて…」
などの答えが返ってきます。
彼らはヒナを助けるために善意でヒナを拾っているのです。
この善意がどうして不幸なのか…
野鳥の会や自治体からは親が近くにいて見守っているから拾ってしまうと人の匂いがついて親鳥がヒナを見放してしまう。とか昔から言って呼びかけておりました。
下にポスターを添付いたします。
http://www.wbsj.org/fukyu/hirowanaide/img/hina_2017.pdf
でもこの理由が人々(特に日本人)に受け入れられない理由は別にあると感じております。
それは、日本人のヒューマニズム。つまり優しい国民性です。
日本人は弱者に対して助けたいという気持ちが出やすく、わかっていても「このままではヒナが車にひかれてしまう」とか「猫に食べられてしまう」と感じた瞬間に拾ってしまうのではないでしょうか。
しかし、考えてみてください。野生動物は生まれてから死ぬまで、自分(もしくは自分の家族・属する集団)のために精いっぱい生き抜きます(この姿勢は我々人間も学ばないといけないと思います)。
これは我々人間が行っている生活よりもシビアで、他種や自分のグループ外の動物達との遭遇は普通生死をかけた戦いに発展することが多いのです。
(↑「立山室堂ライチョウ見守りネット」から拝借いたしました画像です。http://raicho-mimamori.net/jp/ecology/territory.html)
この彼らの人生(?)に人間(日本人)のヒューマニズムを持ち込んでしまうと、彼らたちの価値観が壊れてしまい、自分や自分の属するグループを危機にさらす結果となりうるのではないでしょうか。
つまり、他種の生き物から無償で得られた一時的な愛情により、他の個体が自分を害する感覚が若干でも希薄になり、他の個体に遭遇した際に適切な防御・攻撃行動がとれず自分や周囲の仲間を死に追いやってしまう…
これは自分の死だけでなく、グループの全滅に繋がるかもしれません。
つまり、巣の中で比較的安全に育ったヒナたちにとって、巣立ちの際に自然界の脅威を肌で感じることは彼らにとって非常に重要な儀式であり、馬が外敵から逃げるために生まれて間もなく立ち上がるように、ヒナも一刻も早く飛べなければならない。
これを乗り越えられなければ成鳥になることはできないと親が与えた自立のための儀式なのではないでしょうか。
そんな重要な自立のための儀式を人の手で狂わされてしまったとき…自分だったらどう考えますか?
人間の世界では、人間皆が手を取り合ってお互い助け合うのが理想とされてますが、これはあくまでも人間のルールであり、野生動物や自然界に適応されるものではないと私は考えるのです。
これを読んでくれた方々には、社会的に正しいとされる善意はその社会に属する人間に向けてこそ善意となることも理解していただきたいと思います。
人同士でも風土により社会的ルールは多様であるのに、野生動物やもっと大きな自然界という世界を自分たちの社会のルールにあてはめるのは果たして正しいのでしょうか…
なんて考えながら、今年は
「ヒナ拾ったけどどうしたらいいでしょう」
の電話がかかってこないことを祈っております。