上野の東京都美術館「冷泉家 王朝の和歌守展」の、後期を見ました。
冷泉家歴代当主たちの精進の跡が窺える典籍の左ページ下の指擦れに、遠い過去にこの典籍を手にとっていた人が確かに存在していたのだ、と現在(いま)は存在していないはずの人たちが、すぐ近くにいるような感覚にとらわれる一瞬がありました。
私が美術館や博物館へ積極的に足を運ぶのは、役者として少しでも“いいもの”を見せるためにはまず、自分が“いいもの”や“ほんもの”を多く目にすることが大事である、と考えるからです。
“紛い物”からは所詮“紛い物”しか生まれず、決して本道に成り得るものではありません。
そして、そういったものを人に見せると云うことは、自身も“紛い者”に成り下がることであると、私は博物館や美術館などで本物に接する度に、自らを戒めるのです。
レプリカが展示されているのを目にして感動している人を、私は見たことがありません!
写真は、帰り道に上野公園で撮影した銀杏。
夕陽をうけて燦然たる山吹色を放つ姿に、
「ああ、秋だなぁ…」
と立ち止まって見上げた次第。
「山吹に 心温もる 銀杏かな」 李閑
冷泉家歴代当主たちの精進の跡が窺える典籍の左ページ下の指擦れに、遠い過去にこの典籍を手にとっていた人が確かに存在していたのだ、と現在(いま)は存在していないはずの人たちが、すぐ近くにいるような感覚にとらわれる一瞬がありました。
私が美術館や博物館へ積極的に足を運ぶのは、役者として少しでも“いいもの”を見せるためにはまず、自分が“いいもの”や“ほんもの”を多く目にすることが大事である、と考えるからです。
“紛い物”からは所詮“紛い物”しか生まれず、決して本道に成り得るものではありません。
そして、そういったものを人に見せると云うことは、自身も“紛い者”に成り下がることであると、私は博物館や美術館などで本物に接する度に、自らを戒めるのです。
レプリカが展示されているのを目にして感動している人を、私は見たことがありません!
写真は、帰り道に上野公園で撮影した銀杏。
夕陽をうけて燦然たる山吹色を放つ姿に、
「ああ、秋だなぁ…」
と立ち止まって見上げた次第。
「山吹に 心温もる 銀杏かな」 李閑