あられの日記

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その7)旅順ホテルと街歩き

2010年09月09日 04時20分23秒 | 旅順・大連旅行記
川島芳子所縁の粛親王府旧址からバスで程なく、宿泊ホテルに到着。
時刻はまだ15時30分。
 
旅順が外国人に解放されたのは2009年の秋。まだ1年も経ってないので、ホテルのグレードは高くない。
バスタブがなく、部屋も狭い。
 
でもそんなの関係ないね~。このホテルは立地が良いのだ。
かつての日本植民地時代の建物が残っている場所へ徒歩で行ける近さにある。しかもっ!ナイスビューなんである。
トップ画像は私の宿泊した413号室の部屋からの眺めです。
手前にあるのは八童公園。その奥に見える塔は勝利の塔。その奥が旅順口。
海ですっ。
こりゃもう行くしかないでしょう~。
行くってどこへ?
「街歩き」です。今回の旅の楽しみは自由時間が多いので気ままに街歩き出来る時間がたっぷりあること!
添乗員の挨拶周りもそこそこに、スーツケースも開けないままレッツゴー!!

とりあえずと、ホテルに隣接する公園へ向ったのですが、運悪く入口で公園の木の手入れをしていて中に入れませんでした。
気を取り直し、部屋の窓から見えた塔を目指します。

何の塔かと言いますと…。

中国が日本に「勝利」した記念の塔です。
ん?
あれ??
漢字の上にあるのは…。ロシア語??
ここで旅順の歴史を思い出さねばなりません。
日本と旅順のかかわりは1895年の日清戦争に始まります。日本軍は旅順を占領し、下関条約で旅順を含む遼東半島は日本に割譲された。しかし三国干渉により旅順はロシアの租借地となった。
ロシアは海軍の東の拠点として軍港・要塞を作った。
日露戦争勃発。激戦の末1905年1月旅順北郊外の村水師営にてステッセルと乃木将軍により停戦条約調印。同年ポーツマス条約において、清に対する租借権をロシアから引き継いだ。
第二次世界大戦末期の1945年、ソ連が侵攻。旅順を占領した後は、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港となる。
1955年、中国へ返還。今度は中国の軍港となった。
1981年に大連市に編入。
という経緯がありまして、旅順には日本とロシア所縁の物が散在してるのです。
勝利塔から海を目指し大きめの道を渡りましたら、なんだか…。海へ行けない~。

こんな感じでどうやら中国軍の施設です。
せめて海の写真が欲しい~とうろうろしてたら、軍人さんからストップかかってしまいまして撤収~。
ようやく外国人にも解放されたとは言え、旅順の市内には軍の施設があちこちにありまして、撮影出来ない。入れない場所はまだまだあるようで…。
ま、ダメならその時ね~。
気を取り直し街歩きを再開。

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