あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

巨木崩壊済(泣)

2019年04月10日 05時27分50秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019年3月24日訪問。大國魂神社さんの参道のケヤキ並木から徒歩数分のところで矢島稲荷の大ケヤキを発見した。そもそも探してるのが巨木なだけに、行けば見つかるだろうと思ってたのに、ムズかった!理由は画像をみていただければ納得いただけるかと思う。そもそもこの木は巨木の本に載ってて、掲載画像は狛狐と鳥居の背後に画面一杯に見える幹が凄くて見たい!と思ったのだ。けども、場所が判然としない。理由は行ってみたわかった。稲荷と名前はついてるものの、これ、個人の屋敷稲荷じゃないかな?んで、現状既に稲荷神社の程をなしていない。赤い鳥居はあるけども、その奥のお社に神様はもういない。そんな感じです。稲荷に敷地はコンクリート塀で囲まれており、コンクリート塀の中はケヤキの大きな切り株と枝と枯葉が積み上がってる。まるでこみ捨て場か薪置き場かといった風情です。あ!違った!風情などと高尚な表現ももったいないや。ま、なんとか目的地にはついたので画像を貼り付けます。
ハイ。最近の巨木巡りでよくある奴。木が皮だけ残し中身がない!
視線を落とすと巨木の気配だけは十分残ってるんだけども。これを見て右側はこれ。
酷い〜。残骸になった巨木も結構見たけどな。フォローするにもましなコメントも出来ん。
あ。少し下がって撮影してみた。現状がわかる?実はコンクリート塀の中で精一杯下がって撮影してる。なんとか木の全景を撮影できないか頑張ってみる。
コンクリート塀の上に携帯を掲げて撮影中。ちなみに画像右側に写る構造物は駐車場の屋根です。
角度的に、根元で3本に分岐した木で、手前の大株が最近枯れたかどうかして、コンクリート塀の中に積み上がってる切り株の下の部分と思われ。
で、奥の真ん中のが皮だけになり中身がなかった部分。
上の画像では分かりにくけど奥の白く写ってる細めの枝がまだ生きてるかもしれない。もしかしたら大ケヤキがまだ生きてるかもしれん部分。どうなんだろか?訪問は3月24日なので、まだ若葉もなかったんだ。
んでもって3枚目の府中の名木百選のプレート発見。
樹高17メートル 幹周り10メートル 1988年8月選定 とありました。
なんと!1988年には幹回り10メートルもあった!!その頃の大ケヤキを見たかった〜〜!!
あ。それでも説明板あるんだ〜!!
矢島稲荷の大ケヤキ 府中市指定文化財市天然記念物 昭和61年5月23日指定
このケヤキは周囲9、55メートル 樹高17メートルあり、東京都では練馬白山神社(練馬区練馬)の大ケヤキに次ぐケヤキの巨樹です。
樹齢800年と推定され、天保6年(1835)、安政6年(1859)そして昭和28年(1953)の三度も火災にあい、腐朽度もかなり進んでいるが、外科手術のため老大樹のわりには健康度は悪くなく、樹勢も旺盛である。 昭和62年1月府中市教育委員会」
ん〜と?昭和62年ということは、西暦1987年でWIKIによりますとNHKの大河が『独眼竜政宗』でアニメ『ビックリマン」の放送が始まり、マッチの『愚か者』がヒットし『中島みゆきのオールナイトニッポン』の放送が終わった年です。
その時代ならば、この大ケヤキの雄姿が見えたのか〜。時の流れに身を任せ私らは次行ってみよう!ってか、市の天然記念物を個人で維持するのは過酷です。予算つけてやれよ。府中市。ま。素人が趣味で巨木巡りしてるだけなので、好き勝手ほざけるんだけどね。あまりにあまりな状況にあれこれいいたくなったんだ〜。あ〜う〜。

さて、gooブログには簡単なアクセス解析というページがありまして、昨日から突然アスセスが増えたページがある。なぜだろ?と思ったら今朝のニュースで渋沢栄一が次の一万円札になる。とやっていた。
私からすると、今ごろ?遅すぎるわ!福沢諭吉よりよっぽどすごい人だったのに。とまず思ったよ。
で、せっかくなので既出の渋沢栄一関連の記事をリンク貼ってみる。
上の記事は東京メトロ南北線王子駅そばの飛鳥山にある施設です。ここはかつて渋沢栄一の住まいがあり、現在は3つの建物で資料館などが公開されてます。辺りは8代将軍吉宗が植えた桜の名所でもあるので、今の時期散策のついでに立ち寄り、渋沢栄一の人となりを知るのもいいかもね。
続きましては、同じく王子の飛鳥山にある渋沢栄一の迎賓館だった建物で、ここも公開されてます。ポイントは、渋沢栄一の銅像がある!ので、渋沢栄一と記念撮影出来ることですね。
確か在りし日の渋沢栄一宅はすごかったけども、東京大空襲で屋敷の大半が焼失。ここは焼け残りです。

そして私の一押しはこの記事。渋沢栄一のお墓がなぜに寛永寺の旧墓域にあるのか?といいますと、渋沢栄一は若い頃徳川15代慶喜の家臣だったのです。日本が幕末で動乱だった頃にはヨーロッパ(パリ万博使節団)に行っており、帰国命令を受けて日本に戻ったらすでに時代は明治。そこで渋沢栄一は主君に会いに静岡へ。そこで慶喜に言われたのです。「自分の道をゆけ」と。ああ、この時渋沢栄一には(私はもう何もできないし、やってはならないのだ)という殿の心の声が届いたのかもしれん。
その後渋沢栄一はヨーロッパで学んだ知識を実践にかかり、やがて明治政府にスカウトされ明治初期に数々の会社を立ち上げまくり日本の基礎を作るのだ。くう〜〜!!歴史好きならぐっときますよね。そんな彼のお墓は、寛永寺の脇から北へ続く桜並木を抜けてすぐあります。
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