あられの日記

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笠森稲荷と築地塀 谷中散歩その6

2017年11月06日 06時00分25秒 | 上野・根津・湯島・神田
谷中霊園を出て谷中散歩に戻りました。根津権現かいわい浪漫ちっくマップによりますと、近所に笠森稲荷と築地塀がある。行ってみよう!
笠森稲荷といえば、江戸三大美人の一人笠森お仙です。期待して行ってみたところ、何コレッ!
トップ画像の屋敷稲荷ほどの小さいのが現在の笠森稲荷です。

説明板発見:でも期待に反して説明板が簡単だったので、帰宅後WIKIで調べた。
笠森稲荷は感応寺(1833年天王寺と改称)の塔頭・福泉院境内にあった稲荷社。
明治に入って福泉院は廃寺となり、稲荷社は養寿院へ遷座した。跡には明治26年(1893)に功徳林寺が建立され、境内に改めて笠森稲荷が祀られている。」(wikiより)
私が訪問したのがこちらのトップ画像です。
ちなみに、江戸三大美人とは、明和三美人で、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の笠森お仙・浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤・二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしのこと。
笠森お仙を題材に、狂言や歌舞伎が作られるほど江戸を一世風靡し、笠森稲荷の参拝客も増え、手ぬぐいや絵草紙などのグッズも販売されてたそうで、江戸のアイドルだったとか。
人気が出るとグッズを作り、気軽に会えるアイドルというコンセプト。ン??どっかで聞いたね。平成も江戸も日本人は同じことしてるんですね。
さて、谷中霊園を出た細道に戻ってきた。次の目的地は〜??
地図を眺めてたら、目に見覚えのある観音像が飛び込んできた。

観音様の石像の画像を撮影しそびったんだけど、上の画像の左の門柱の奥に置いてあります。この観音様を見たことあるんだけど?
説明板発見:狩野芳崖のお墓 台東区史跡 長安寺境内
明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴くうの長男として、長門国長府(現山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と歌われた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心やアメリカ人フェロノサなどの日本画家復興運動に加わり、明治17年第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。
芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒。さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図・不動明王図(ともに東京芸大所蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治21年、天心・雅邦等とともに東京芸術大学の創設に尽力したが、開校まじかの同年11月61歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)がたつ。」
見覚えあったのは芳崖さんの悲母観音でしたか。あれを石像にしたのね。時間がなかったから、墓参は次回に。
長安寺さんの右手の細道へ。次の目的地の築地塀が見えてきた。

レトロな情緒たっぷりです。これ、唐突に登場したんだよね?かつては何だったんだろか?上の画像手前に見える青色の四角の中には登録有形文化財 文化庁と書いてある。
WIKIによりますと、築地塀とは、泥土をつき固めて作った塀のこと。と出てました。
この築地塀の正体は、観音寺の塀です。境内の南面を面する延長37、6メートルの練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り、潜り戸を1箇所備える。江戸文政期の1830-1867に作られた。

絵になる塀です。画像では大きさがわかりにくいので。モデルを待つ。

江戸の時代より現代の人は身長が伸びたので、築地塀は低く感じられますね。

ちなみに、築地塀の前の細道を挟んである塀も素敵でした。築地塀が泥土をつき固めて作った塀のことならば、これだって時代の違う築地塀です。
足元の細道もここだけ洗い出しの玉砂利を固めて作ったような趣です。ここで着物を着て写真を撮ると素敵なんじゃないかな?

築地塀の奥に竹の塀が見えたので見に行く。いわゆる竹垣です。竹垣もいろんな形のがあるんだ。
さてと?またまた取り出す浪漫ちっくマップ。え〜と?築地塀から夕焼けだんだんの谷中銀座への近道は?このまま突き当たりを右か?行ってみよう(続く)
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