荒川三歩

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彼岸過ぎの雑司ヶ谷霊園を巡るー3

2019年09月29日 | 散文

竹久夢二の墓へ行きます。

 

いつ見ても個性的で彼らしい佇まいです。「大正ロマン」を代表する画家であり詩人です。「夢二式」の美人画や「宵待草」などの叙情的な詩歌が大流行しました。

 

彼は若い日に雑司が谷に住みました。島月包月に目をかけられ、また羽仁もと子の「婦人之友社」で絵画主任を勤め、挿し絵を描きました。

 

墓の文字は画家の有島生馬です。「竹久夢二を埋む」とあります。

 

いつも、この下に埋められているのだなと見詰めます。

 

夢二が見る景色です。

 

羽仁もと子の墓へ行きます。

 

歴史家羽仁五郎は娘婿です。大きな一族の墓です。

 

キリスト教徒として、西池袋に新しい教育を目指して自由学園を創立しました。当時の校舎、明日(みょうにち)館はフランク・ロイド・ライトの設計で国の重要文化財です。

 

雑誌「婦人之友」を創刊しました。そこで前出の竹久夢二が活躍しました。彼女の学んだ「明治女学校」の校医は女医第一号の「荻野吟子」です。

 

 荻野吟子の墓は広大な雑司ヶ谷霊園の中でも道路脇にある石像で一際目立ちます。

 

望まれて名主の長男と結婚したものの、その夫からうつされた淋病がもとで離婚します。上京して大学東校に入院し婦人科治療を受けますが、その時治療に当たった医師が全て男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から女医を志します。

 

東京女学校(後のお茶の水女子大学)の一期生として入学し、首席で卒業します。女医の必要性を説き続け私立医学校・好寿院に特別に入学を許され優秀な成績で卒業しますが、医師開業試験の受験が許されません。

 

5年後やっと許された医師開業前期試験に他の女性3人と受験し、吟子一人のみが合格となります。翌年後期試験にも合格し、湯島に「婦人科荻野医院」を開業します。女医を志して15年、34歳にしてやっと近代日本初の公許女医となります。

 

そして、明治女学校で前述の羽仁もと子と繋がって、竹下夢二と繋がっていきます。その人たちが同じ墓地に眠っているのです。

この話、終わります。

 

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