荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

新大久保から大久保へ(百人町のプライド)。

2019年01月14日 | 散文
山手線・埼京線の新大久保駅が見えてきました。
異国情緒タップリの街です。


横断歩道を渡ります。


韓流店を見上げます。
向こうから見下ろされています。


ガード下へ入ります。
壁画がありました。


皆仲良くしている楽しそうな絵です。




ガードをくぐり抜けると百人町です。
日の丸があって、ガラリと雰囲気が変わりました。


隣の新大久保との違いを強調しているように見えます。


「百人町明るい会商店街」に来ました。


韓流店が無くなりました。


中央線大久保駅が見えてきました。


ガード下に「江戸幕府鉄砲組百人隊と大久保つつじ」の説明板がありました。
天正18年(1590年)徳川家康が江戸入府の際、内藤氏に率いられた伊賀組などの鉄砲同心は、江戸の西の警備にあたるために駐屯しました。関ヶ原の戦いの後、幕府は鉄砲組に組屋敷を与え、現在の百人町に定住しました。鉄砲組は同心百人を配属されたので百人組と呼ばれ、百人町の地名の由来になりました。平時は、江戸城の警護にあたり、将軍が寛永寺、日光東照宮などに参拝する際には警護にあたりました。


大久保村付近は、つつじの自生地であったとされますが、鉄砲組は定住後、屋敷内で余暇を利用して、つつじの栽培を行いました。やがて名所として江戸で評判となり、「江戸名所図会」「江戸名所花暦」などに紹介されています。つつじ栽培は、明治維新以降、一時衰退しましたが、明治16年に大久保躑躅園が開園し、一万株ものつつじが栽培され明治時代花見客で賑わいました。明治天皇が、大久保つつじの短歌を詠まれ、それを記念した歌碑が皆中稲荷神社に建立されています。


その後、日比谷公園ができると大部分のつつじが移され、町の発展の歴史と共に姿を消していきました。しかし、「大久保つつじ」への愛着は強く戦後になって毎年4月、ゆかりの深い皆中稲荷神社において、地元商店街の二世会の若者たちによって「大久保つつじ祭り」が行われるようになり、昭和47年には新宿区の花に指定されました。また昭和36年からは、「江戸幕府鉄砲組百人隊出陣行列の儀」が地元有志の尽力により行われるようになり、平成14年に新宿区無形民俗文化財として登録されました。
大久保壁画制作委員会

なるほど、誇りを持った壁画ですね。

大久保駅を過ぎて小滝橋通りを北上したら、柏木教会がありました。
歴史があって、色々な文化が共存している街のようです。


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