宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

断然、死刑支持です。

2005-07-02 23:29:05 | Weblog
あなたは死刑派 or 無期懲役派
少し長くなりますがよろしいでしょうかねえ。2点ほど述べさせてください。
先ずは、人間は何人たりとも殺される為に生まれてきたのではありません。人間より偉大なもの、自然に殺されるのはやぶさかではありませんが、同類に殺されるのは異常な状況です。
そして、受死刑者側の多くは、殺人が死刑に相当するくらいは多くの場合理解しています。
しかし、殺される側の多くはそこまでの命を理解できていません。ましてや何の理由もなく面識もなく無慈悲にあの世へ旅立たなくてはなりません。何故殺されたのか、その覚悟が出来ぬ内に死んでいくのです。
殺人に対しての死刑ではイコールにはなりません。被害者は理由無く、意味なく殺され、加害者はあらかじめ規定されている理由があって殺されるのです。同じだと思いますか? 同等だと思いますか?
しかもその殺人は、双方の親類縁者の心の深部へ分け入り、永遠に触れたくは無い汚点を残して彷徨い歩きます。
その場所、現場さえも酷い影響を受けます。加害者が犯した行為によって、大抵は本人よりも周囲の人々の方が深く傷つき、忘れることの出来ない出来事になるのです。
つまり、本当は被害者よりも重い刑が加害者には必要なくらいなのです。慈悲の心の不足による精神年齢の未熟さには、やってしまった行為に対しての結果による「つけ払い」報酬と言う責任を感じさせる必要があるのではないでしょうか。
誰しも、行為に対しては誠実に「良いにつけ、悪いにつけ」自然様から報酬を受けて生きているのです。
行為に対しての報復、報酬がいたれり、つくせりで甘く軽ければ、精神年齢の幼き者は、なめてしまって、かなりの確立で再犯に至るのは必定です。タバコを止めるのもその結果の恐ろしい病気を想像するからであり、とりもなおさず再犯させる法制度自体にも問題があることに気付かなければ、およそ理性的ではありますまい。誰しも目の前ににんじんがぶら下がっていれば食べたくなるのです。
 次に、現在の殺人に対する量刑ですが、一人では死刑にならず、三人だと死刑になる、と言う暗黙の了解事項があるらしいのですが、どうもこれも恨まれるのを嫌ったような無責任極まりない話のように思えます。死刑宣告から逃れたい気持ちはわからぬでもないが、誠実に履行して欲しいものです。
そこで私の提案ですが、悪質度で定めるべきなのではないでしょうか。
たとえ一人を殺しただけであっても、なぶり殺しや、頼まれた恨み無き殺人ができるなんぞは、加害者の持ち得ている本質に由来していて、その残忍性は筆頭に上げられましょう。
 一人殺しても死刑にはならない、あるいは少年ならば死刑にはならない、と言うことを理解していて殺す人や殺させる人もいます。これらも悪質度はかなり高い。
死刑制度があるがために、その恐れで殺人行為を躊躇する人々の隠れた数の多さを知ってください。
 親は、殺人は死刑を覚悟してやること、そして軽い罪だったとしても、若くて一番良い時期を刑務所で自由を奪われなければならぬことを、最低限のルールとして教え諭すべきことです。もっと大事な事柄は、成長過程に於いて、「慈悲の心を育む」ことです。そして「想像力を磨いて」ください。学校でも必要なことですから、これらの「心の成績」を上げてください。
闘争心も必要でしょう、協調性も必要でしょう、でも、殺人者を世に出すことはもっとも避けなければならないことです。最低限のルールを教えなかったことを恥ずべきです。慈悲の心ある周囲の人々は、それらのことが分っているから一生加害者よりも思い悩むのです。
一人の無慈悲な人間のために多くの人々の心に深い傷と憂いを残すのです。それは一つの殺人事件の
数倍、数十倍の人々の心の中で彷徨い続けることになるのです。被害者と加害者双方だけの問題ではないのです。
現在の、三人殺した結果の死刑と二人殺しても数年後には刑務所から出ることができるかも知れない無期懲役との格差はどうしたもんでしょうか。お話にもなりません。
 不思議なことに、死刑があってもなくても殺人事件が無くなることはありません。ある国民の中の一定の割合で、殺人を犯す特質を持った人間が海底火山の頭出しの如く現れるものです、自然の摂理なのでしょうね。
「世に盗人の種はつきまじ」って言うところでしょうか?
そうであったとしても、ブレーキ役としての「死刑制度」は失くしてはいけません。それによって助けられる(人殺しをせずに済む)人とその人を取り囲む多くの慈悲深き関係者を地獄の底へ突き落とさずに済むからです。それほどいかに「殺人行為」と言う事柄が、多くの人々の心の中を、暗雲のように覆い尽くすことになるのは今更言うまでもありません。常に加害者は多くの人たちに、「社会問題提起」のように投げかけてくるのです。本人たちが意識していようが、無意識であろうが、世間になかなか届かない地獄からの主張の声なのです。耳を貸すかどうかはその道のトップの裁量いかん。
 殺人に「若気の至り」と言う言い訳はありません。一生かかっても償うことはできないのです。何せ、「もういいよ」って言ってくれる人は、この世にいないのですから・・・・

追、被害者に問題ある殺人はこの限りではありません。