大人になりきれない40代の「おっさん若者」に言いたいこと 

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気がついたらもういいオッサン…。あなたは立派な「大人」になれた実感はあるだろうか。「いいオトナ」が見えない現代において、ワカモノを卒業するにはどうすればいいのか。発売後話題を読んでいる新刊『「若者」をやめて、「大人」を始める』の著者であり、精神科医の熊代亨氏から40代のオッサンへのメッセージ。

 

大人になれないオッサンたち

識者が日本人の「成熟困難」を語るようになってから半世紀以上の時間が流れて、この国は少子高齢化社会を迎えました。

子どもや若者がいっこうに「大人」にならない──いわゆる、「成熟困難」が問題視され始めたのは高度経済成長の頃です。就活や結婚を親に頼りきる子どもや、マザーコンプレックスな子どもを、マスメディアは時におかしく、時には深刻に紹介してみせたのでした。

 

「成熟困難」は母子密着や父性の不在といった家族問題と関連して語られることも多く、精神科医が言及しがちな話題でもありました。たとえば、昭和時代の著名な精神科医の一人・土居健郎も、代表的な著書のなかで以下のようなことを書いています。

最近(昭和44年8月22日)、毎日新聞紙上の視点と呼ばれる小さなコラムに、「生き遅れの季節」と題する次のような記事がのっていた。「カッコイイ」という流行語がなまって「カッチョイイ」が流行りだしたが、これは幼児の舌足らずのしゃべり方への傾斜を示している。青春の季節は、大人に早くなりたい、子どもだとあなどられたくない、という生き急ぎの季節だと思っていたが、昨今はどうも生き遅れの季節であるらしい。その証拠に、長い髪や花やかな服装のどこが魅力なのか、と青年たちに聴いたところ、「かわいく見えるから」という答が返ってきた。以上がこの記事の大要であるが、このかわいく見えたいという気持が甘えの表現であることはいうまでもないことである。

土居健郎『「甘え」の構造』より

昭和44年に「生き遅れの季節」と書かれた対象は、おそらく団塊世代とその前後ぐらいと想定されますが、それ以後の世代に対しても、精神科医たちは成熟困難や思春期モラトリアムの延長といった、「大人」の手前で足踏みする若者について語り続け、社会学者たちも概ねそれに同調してきました。

実際、結婚や出産といった、これまで「大人」の指標とされてきた統計指標を眺めると、時代が進むほど「大人」の指標から遠ざかっていることがみてとれます。

 

なかでも生涯未婚率の年次推移は極端な変化を示していて、結婚をもって「大人」の指標とするなら、なるほど、生涯「大人」になれない人が急増していると考えざるを得ませんし、現代社会は「成熟困難」のきわみにあると言えるでしょう。

消え去った「年功序列制度」

では、たとえば現在の40代などは、本当に「大人」になりきれなかったのでしょうか?

彼らの生きざまを見ていると、とてもそういう気が起きません。同世代の私の知人には、未婚の人や子育てをしていない人もたくさんいますが、彼らは彼らで年を取り、社会の一員としての務めを果たしています。

「自分は何者にもなっていない。これから何者にでもなれる」といった若者らしい感覚はとうの昔に消え失せ、これまで積み重ねてきた自分の歴史の延長線に未来を見据えているという点でも、彼らは若者っぽくありません。

彼らは、これまで「大人」の指標とされてきた幾つかの条件に合致しませんが、かといって「若者」らしい精神の余白も、未来の可能性の過大評価といった特徴も有していません。そのうえ、これまでの「大人」に付随していたはずのメリットとも無縁に生きているのです。

 

どういうことかというと、かつての「大人」には、子育てや家庭といった責任だけではなく、「大人」に伴うメリットがセットになっていました。

ここでいうメリットには、正社員の昇給といった経済的なメリットだけでなく、心理-社会的なメリットも含みます。つまり、「年下は年上の言うことを聞くべき」「年下は年上を敬うべき」といった儒教的な価値観が、かつての日本には広く存在していたのでした。

この価値観は、心理-社会的な"年功序列制度"のようなもので、「大人」が子どもや若者に命令する大義名分ともなるものでした。

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ところが戦後から時間が経つにつれて、こうした「大人」のメリットは消えていきました。

バブル景気が終わり、就職氷河期が始まってからは、経済的な理由によって結婚や出産に手が届かない人が現れるようになりました。結婚したくてもお金が足りない・経済的に自立したくても収入が乏しいから親元からさえ離れられない──そういう若者が珍しくなくなったのです。

また、戦後から次第にメインストリームになっていった若者中心文化は、儒教的な価値観をすっかり駆逐してしまい、心理-社会的な"年功序列制度"は崩壊しました。もはや、年上だからという理由で年下に敬ってもらえるとは限りません。

それでも今日の40代は「若者」ではいられず、「大人」をやっていくしかないのです。

見た目だけで言えば、今日の40代は昭和時代の40代より若くみえるでしょうし、価値観の面からいっても、今日の40代は若者中心文化の申し子でもあります。

それでも、これぐらいの年齢になってくれば自分より若い世代こそが本物の「若者」だという実感は伴ってきますし、人生の折り返し地点を過ぎたという自覚も生じてきます。"自分の人生はこれから新たにつくられる以上に、自分自身が積み重ねてきたことのうえに続いていく"という前提で生きていくことにも慣れてきます。

実際、(株)マンダムが行った40代の意識調査でも、人生のやり直しがきかない年代という自覚や、自分達が社会の中心の年代であるという自覚がみてとれます。出生率や婚姻率が低下している現代にあっても、やはり40代は"不惑"の季節なのです。

大人はおもしろいんだぞ!

世の中には、バブル景気以前には想像すらできなかった困難な境遇でも働き続け、生活を成り立たせている「大人」がいます。若者時代の失敗によって苦しい立場に置かれ、それでもめげることなく生き続けている「大人」もいます。

子育てや後進の育成に励んでいる「大人」だけが日本社会を成立させているわけではありません。今日の日本社会がどうにか成り立っている背景には、そのような無数の無名な「大人」の存在があることを忘れてはならないように思います。

彼らは失われた「大人」のメリットを享受していないにも関わらず、折からの人手不足でチヤホヤされる若者世代に文句を言うことすらなく、一個の「大人」として生き続けているのです。

誰でもわかりやすく、勲章のように見せびらかすこともできる「大人」の指標をこなしている40代は、それはそれで立派な「大人」です。

しかし、そうではない人生を生き、苦難や理不尽に出会いながらも歳月の重みに折れることなく生き続けている40代も、それはそれで立派な「大人」ではないでしょうか。むしろ一面において、そういった人々こそが厳めしい「大人」の道を歩んでいるとさえ言えるでしょう。

「大人」という言葉のニュアンスは人によってまちまちなので、「子どもや後進を育てていなけりゃ大人じゃない」というご意見もあるでしょう。とりわけ若者側からみて、「いまどきの中年は『大人』合格点とは言えない」、といったお叱りがあるとしたら、それは真摯に受け止めなければなりません。

なぜなら、「大人」が「若者」にあれこれモノ申すよりは、「若者」が「大人」にあれこれモノ申すほうが健全ですし、年下の人には、それを言う資格があるように思うからです。

それでも、これまでの指標どおりの「大人」も、そうでない「大人」もそれぞれに年を取り、過去の積み重ねのうえにできあがった人生を生きているという事実の重みを、これから中年を迎える人や、すでに中年を迎えている人は、もう少し積極的に捉えて構わないのではないでしょうか。

 

多種多様な人生を生きる同世代の姿を見ていると、過去から積み重なった長い時間のなかを生きる人々、これからの夢や希望に生きるのでなく、これまでの経験やいきさつを背負って生きる人々に、「未熟」などと言ってはいけないように私には思われます。

今、「大人」の年齢を迎えている人も、これから「大人」の年齢になっていく人も、どうか狭い範囲で「大人」を定義するのでなく、さまざまな人生に、さまざまな蓄積があることに思いを馳せてください。そして、そのような「大人」の生きざまには「若者」とは一味違った、面白みや気付きがあることを思い出してみてください。

これまでの指標どおりの「大人」が少なくなってきているのは事実ですが、それでも彼らは「若者」ではなく、「大人」というほかありません。今、「若者」盛りを迎えている人も、やがて「若者」ではなくなるでしょう。

だからこそ、「若者」を終えて「大人」が始まった後のことについて、もっと多くのことが、もっと積極的に語られても良いのではないかと、私は思っています。