『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(アンソニー・トゥー/KADOKAWA) 

写真拡大

 2018年7月6日、オウム真理教(以下、オウム)の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫(63)他、幹部だった早川紀代秀(68)、井上嘉浩(48)、新実智光(54)、土谷正実(53)、遠藤誠一(58)、中川智正(55)の死刑が執行された。

 本書『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(アンソニー・トゥー/KADOKAWA)は、「死刑執行されたら出版してください」という中川元死刑囚(以下、中川)の意志も考慮して出版されたノンフィクションだ。

■毒性学の世界的な権威によるオウムテロの全貌解明

 中川は、医師であり化学にも精通した科学者だったが、一連のオウム事件では、計11件25人もの殺人に関与した。

 コロラド州立大学名誉教授で日本語も堪能な著者は、1994年6月27日に長野県松本市で発生した松本サリン事件、95年3月20日に東京都で発生した地下鉄サリン事件において、サリンや化学兵器情報が不足していた日本政府やメディに、多くの情報を提供してくれた毒性学の世界的な権威だ。

 本書で著者が試みているのは、中川との対話を軸に、「オウムがいかに化学兵器・生物兵器を開発し、それらを使ったテロを起こすに至ったか」の全貌解明と、対話で得られた情報や教訓を、後世にまで伝えることである。

 死刑因と面会できるのは通常、弁護士と家族に限られている。著者が15回も中川と面会できたのは、社会的ミッションを果たす目的のための特別措置があったからである。

■オウムはいかに化学・生物兵器をもつようになったのか?

 登場する元オウム信者は多数にのぼるが、中心人物は生物兵器の責任者だった遠藤誠一元死刑因(以下、遠藤)と化学兵器の責任者だった土谷正実元死刑因(以下、土屋)のふたりの元死刑因(共に7月6日に死刑執行)と中川である。

 ちなみにサリンやVXガスなど、オウムが生成だけでなく、テロ兵器として実用に成功したのが化学兵器で、ボツリヌス菌など“使用はしたものの”、効果なく失敗に終わったのが生物兵器である。

 本書で初めて知り、思わず身震いしたことのひとつに、オウムはボツリヌス菌を、筆者の地元路線でもある東京の「中央線沿線に撒いていた」という事実がある。

■中央線沿線に「ボツリヌス菌テロ」を仕掛けていた

 本書によれば、遠藤は自分が製造した生物兵器としてのボツリヌス菌は失敗作で、殺傷効果はゼロだとわかっていた。しかし、教祖にその事実が明かせず、とりあえず撒いたという。

 もし遠藤が生物兵器を完成させていたら、いったいどんな惨事が広がっていたのか…。菌やウイルスを使う生物兵器は、感染もあるため被害は甚大だ。遠藤がことごとく生物兵器の製造に失敗したことは「不幸中の幸いだった」と著者も記している。

 一方で、著者の科学者としての目線から「優秀な人物」に映ってしまうのが、サリンやVXガス兵器の生成に成功した土谷だ。

 特に、参考文献がないVXガスを、なぜ土屋が生成できたのかは、著者の大きな関心事だった。そして中川の証言により著者は、衝撃的な真相を知る。土屋にVSガス生成の大きなヒントを与えたもの、それは、著者が学術誌に掲載したVXガスに関する記事だったのだ。

 著者は「私はなんともいたたまれない気持ちになった」と、慙愧の念を本書で数回、表現を変えて記している。

■故・金正男暗殺の情報提供に協力していた中川元死刑因

 著者がそこまで悔やむのには理由がある。1994年12月12日、土屋の生成したVSガスを使い、世界で初めてのVSガス殺人事件が起きてしまったからだ。中川は実行犯のひとりだった。被害者となった会社員の故・濱口忠仁氏(28)は、教団からスパイ容疑をかけられ殺されたが、実際は全く無関係な人物だった。

 VSガスで人を殺めた中川が、その経験を生かす機会があったことを本書は記している。2017年2月13日にマレーシアのクアラルンプール国際空港で起こった「金正男暗殺事件」である。この際、暗殺に使われたのが、本当にVXガスなのか否か、日本のマスコミは著者に見解を求めたという。そこで著者が中川に見解を求めると、中川はメールで「金正男氏の様子から間違いなくVXガスが使用された」ことなどを伝え、マスコミはその情報を使用したそうだ。

 このことを契機に「皆様のお役に立つような文をこれからも書きたい」と著者に相談したという中川。かつて、医師として、世の役に立つことを誓った人物が、最期を迎える約1年前になってようやく、本来の自分のミッションに気づけたというのは、何とも皮肉なものだ。

■集団の中で自分の道を見失わないようにすることの大切さ

 さて、本書から一般の人たちが得られる教訓とはなにか。それはテロ対策の専門的なことなどではなく、「集団の中にいても、周囲に洗脳されず、自分の心や道を見失わないようにすることの大切さ」ではないだろうか。

 中川は、「(麻原は)ヨガや瞑想指導者としては極めて能力が高かったのです。教団が殺人を犯すなどと思って入信した者は皆無」と著者に語り、最初は誰もが純粋にヨガに心身の癒しを求めオウムに入信した、と明かしている。

 それがなぜ暴徒化したかはぜひ、本書でお読みいただきたいのだが、間違っていると思っていても、「NOが言えなかったばかりに、人を殺め、自分の人生を取り戻せなくなることもある」という、恐ろしい現実があることを本書は明かしている。

 もし、間違っていると思えば、周囲に同調せずにNOを言う。一人で表明できなければ、親や警察などに助けを求めてでも、間違いには加担しないことである。

 そんなオウム真理教の実態に関心がある方は、ぜひ、本書から学んでみてほしい。

文=町田光