ブログ日記 日々のうつろい 

退職後パソコンとガイドのボランティアをし、カラオケ(ポップス)やダンス等で生活を楽しむオジサンのブログ。

古道リレーウォークⅡ‐②の直前下見

2018-11-25 22:55:12 | 日記

 今日は来週の日曜日が本番となる当会独自企画の古道リレーウォークⅡ‐②の3回目の下見歩きで、来週が本番なので直前下見ということになる。

 集合は出発駅となる駅の改札口に13時と言うことになっているが、電車でほぼ1時間程かかるので昼食を早目に済ませて近くのJR駅へと歩いて行く。

 快速は泊まらない駅なので終点駅によっては途中で快速に乗って来たが、集合駅も普通電車しか止まらないので途中で快速に乗っても最終的には同じ普通電車にまた乗ることがあるが、今回は快速に乗った方が早く着いた。

 降り立った駅の改札前に女性メンバーが2人既に立っていたので聞けば早く到着する電車でやって来たとのこと。

 S事務局長はまだ来ていなかったが、同じ電車の別車両に乗っていて私より少し遅れて改札に出て来た。

 早速、出発となったが、前回の下見で道順などは既に分かっている昔の村中の路地を歩いて行き、今は無いが昔はここらあたりにあったとされる王子社跡推定地を廻り、古道に出る。

 この辺りは灌漑池がいくつもあるが、古道はその池の横を通るような道筋になっている。

 しばらく歩くと昔、全国を行脚した人の目安となる一里塚が残っている場所がある。

 今頬化の地域ではほとんど見かけないが一里塚のあるところは文字通り塚の如く円く土盛りがなされてあり、その外周辺には石垣となっていて、手前には顕彰したことを示す道標がたっている。

 更にその先へ進んで行くとこの辺りは昔農耕用に牛を飼っていて非常に大事にしていたことを示す牛神さまの碑がアチラコチラに建っている。

 進んで行くと今はその地区の会館になっている表の道路際にも牛神さんがあり、此処で昔は牛の売り買いをしていたという。

 さらにその先に行くとその市の斎場があり、近くの一帯が墓地になっているが、その一角に明智光秀の息子が今は無き寺の住職をしていたとされ、明智光秀は山崎で農民に打ち取られたとされているが実は落ち延びてひっそりと息子が住職をしている寺で秘かに暮らしていたという伝説が残っている。

 その斎場を後にして、更に南下して行くと豊臣秀吉軍が手こずった根来衆の本拠地にやってくる。

 根来と言えば鉄砲を操る集団で本願寺に与して当初は織田信長が手こずっていたが、信長亡き後秀吉の謀略で和解したが、約束を守らず根来の本拠である城を破却して根こそぎ根来の勢力を奪ってしまい、天下統一の野望を手にする足がかりとなった。

 当時はかなりの軍勢で戦をしており、本城ではなく、平野にある小高い場所にある城を守る本願寺側の9500人に対して13万人の秀吉軍が押し寄せたとされている。

 が、その城攻めに対する秀吉軍の本陣は、その後に我々が訪れたガイドポイントの前方後円墳の上だったということである。

 大坂冬の陣の時でも大坂城の南にある以前は古墳だろうと言われていた小高い丘の上に徳川家康が本陣をを設けたが、今までに出土品が出て来ないことから古墳ではなかったと言われている。

 その近くに古い時代からある延喜式内社があるが、その近くにあったとされている王子社が合祀されているという記事もあったが結局宮司さんに訊いたが、そんな祠は一切ないということである。

 ことほど左様にこの地域では戦の関係なのか王子社の行方が分からなくなっているが、この近くの古老の話によると以前は近くに王子社の碑があったと言うことの様である。

 最後は以前は少し離れた今は会館となっている地にあったとされている王子社が今はすっかり影も形も無くなっているような状態である。

 その王子社とは別に最後のガイドポイントとなる神社に王子社が合祀されているということだったが、それは影も形もない状態である。

 その神社でゴールとなったが、そこから民鉄駅へは歩いて5分程度だが、JR駅はそこから25分程歩いたところにある。

 それで私の場合、JRの方が自宅最寄り駅は近いので本番の時はJRで帰りたい客は私がJR駅まで誘導して帰ることになった。