京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

頭が良いと短命になるという生物学的証明

2024年08月19日 | 評論

<頭が良いと短命になるという生物学的証明>

 

 スイスのフリプール大学のタデウシュ・カベッキーはショウジョウバエを用いて学習行動が強化される選択実験を行ない、それがどの様な特性(形質)をもたらすか調べた。ハエにオレンジとパイナップルのゼリーを選択させるが、一方のゼリーにキニーネを加えておく。数時間でハエは苦いキニーネを避けて、もう一方のゼリーを好む様になる。この学習を3時間行なったのち、選んだゼリーに生んだ卵を取って育てる。このような操作を15代続けると、短い時間で学習できるハエが選抜でき、普通は3時間かかる学習が1時間でできる「かしこい」ハエの系統ができる。

 しかし、このハエはその代わりに短命という代価(トレードオフ)を支払っていることが分かった。美人(ハエ)薄命というが賢人(ハエ)薄命となっていたのである。人間でも勉強ばかりしていると、青成ひょうたんのようになって、健康を害することはあるが、単に遺伝的に「かしこく」なっただけのハエの寿命が短縮する理由はよくわかっていない。なにか生理的に潜在ストレスがかっているのか、ニューロンの結線構造におかしな事がおこっているのだろうか?

 一方、栄養価の低い餌でハエを育て、集団の中で比較的発育の速い個体を何代にもわたり選抜する。これを先ほどのような学習実験で学習能をみてみると、選抜する前のものより格段に低下していた。この実験段階では餌は普通のものを与えているので餌の影響ではない。この系統は多産になっており、「貧乏人の子沢山」のような家系になっていた。人の場合、そのような家の子の頭は、いいのか悪いのかという統計は無論ない。

 

参考文献

カール・ジンマー「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

2024年08月19日 | 日記

「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

 

 

 小学校の教科書にも載っている有名な俳句である。

この句は知られる限り3種類の表記がある。(芭蕉句集:日本古典文学大系 岩波書店1979)

古池や蛙飛びこむ水のをと(波留濃日:蛙合あつめ句)

ふる池やかわず飛こむみづの音 (芭蕉図録)

古る池や蛙飛込む水のおと(池田市「柿右衛門文庫」所蔵の芭蕉真筆の短冊)

 この中で真筆の短冊の表記が一番この句にふさわしく思える。

 

 小西甚一によると、これの初案は「古池や蛙とんだる水の音」だそうだ。天和元年(1681)か2年の頃の話である。上五をどうするか芭蕉が迷っていると、其角が「山吹や」はどうかと提案したのに、芭蕉はそれを採用せず「古池や」としたそうだ。支考の「葛の松原」という俳書に書いてある話だから本当だろう。小西によると「飛んだる」は当時の段林派の影響がみえるという。貞享(1684) 三年三月に芭蕉庵で催した「蛙合」二十番の際に「飛び込む」に改作したらしい。

 古池にカエルが飛び込めば、ポチャンと水音がするのはあたり前だから、其角は山吹の取り合わせで景色に奥行きを与えようとした。それを拒否して芭蕉はあえて「古池や」とした。池を注視させることにより、水と空気の波紋を視覚と聴覚で表したのであろう。まあまあの写生句ではあるが、いまでは小学生でもこんな句は作らない。どこの句会に之を出しても誰も採らないだろう。しかし、当時はこのような「斬新」な作品はまったく見当たらなかった。

   正岡子規も「古池の句の弁」で同様の趣旨のことを述べている。子規はその時代の蛙の俳句を多数ならべ、「悪句また悪句、駄洒落また駄洒落、読んで古池の句に至りて全くその種類を異にするの感あらん」と述べている。

ただ、この俳句は作られてから、芭蕉自身もコメントしたことはなかったし、弟子はだれも言及しなかった。ようするに完全に無視されていたのに、どうして人口に膾炙し俳句の代表のようになったのか?子規も不思議なこととしており、芭蕉はあの世で不満を述べているっだろうと言っている。

 江戸期の前衛的俳句、現代のただ事凡句といえよう。

 

参考図書

小西甚一 「俳句の世界ー発生から現代まで」 講談社学術文庫1159( 2010)

正岡子規 「古池の句の弁」(明治38年10月「ホトトギス」)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする