青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

公職者への春秋叙勲は廃止せよ! 

2012-04-30 | 国のあり方
 先日、春の叙勲が行われるにあたり「異議あり」と記事を書いたが、再度、問題提起したい。

 毎年、春と秋には紫綬褒章や黄綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章、紅綬褒章などの叙勲が行われる。

 学問や芸術・文化などで功績を残した人には黄綬褒章が、その道一筋に励んだ人を称える人には黄綬褒章が、又、顕著なボランティア活動などには緑綬褒章が個人や団体に与えられ、公共の利益に貢献した人には藍綬褒章が、人命救助に尽力した人には紅綬褒章が授与されている。

 学問や文化・芸術の分野でご尽力された人たち、その道一筋に励み、技術を深めて職を極めた人たち、自分の命やお金や労力等を投げ打ってボランティア活動を続けて来られた人たち、民間に在って一般国民の利益に貢献してきた人たち、人命救助に尽力した人たちが褒章・勲章を受ける。このことは非常に良いことで、異論はない。

 でも、この春秋叙勲及び褒章、文化勲章授与の時、いつも思うのは、「政治家などかつて公職にあった人たちが、なぜ勲章をもらわなくてはならないのか」ということ。

 なぜそう思うかというと、国の政治家も、都道府県の知事も、都道府県の議員たちも、市区町村の首長も、市区町村の地方議員たちも、みんなみんなそれぞれ所属する組織から給与や報酬をもらって仕事に励んでいます。国会議員は3000万円ぐらいの報酬をもらっているから仕事をしています。この報酬を頂けなければ、誰も国会議員になんぞならない。

 石原東京都知事も東京都から給与をもらっているから知事の職務に知恵を使い中国と強く対峙もできます。尾崎高知県知事も高知県民から知事給与を頂けるから官僚を辞めて高知に来た。給与をくれなければ高知になんぞ戻ってこなかったのです。そして、地方議員も、職につけば報酬を頂けると思うからこそ、能力のあるなし関係なしで、誰彼なしにみんな議員選に出ようとし議員をしているのである。この報酬がなければ今の議員皆が市議選に出ていないのは疑いない。

 このように、企業社員も首長や議員も「所属する組織から給与や報酬をもらえるからこそ、仕事に励んでいる」ということは、逆に言うと、「仕事に励むからこそ、その職務遂行の代償として給与や報酬をもらっている」ということになる。(職務を遂行していないのに代償としての報酬をもらっている例外の人も多いが)

 それがです。民間でいる人たちが頑張り高い能力を発揮したことを評価されて勲章をもらうことは大変喜ばしいことだが、その人たちとともに、かつて国民や都道府県民、市区町村民の税金から給与や報酬をもらってきたこの公職にある人たちも、なぜかこの勲章をもらっていることには、大いに疑問を感じている。
 
 国会議員だった人たちが、都道府県知事だった人たちが、都道府県議員だった人たちが、市区町村の首長だった人たちが、そして市区町村の議員だった人たちが勲章をもらってはならないと思っている。

 この人たちは、仕事をしていた時には国民や住民の税金からその代償たる〝給料〟をそれぞれがもらっておきながら、「勲章を差し上げます」と連絡が来たら臆面もなく「ありがたく頂戴します」なんて言ってもらってしまう。臆面もなくよく言えたものだと思う。以前、最高位の桐花大綬章は国会議員だった扇千景元参院議長が選ばれ、「恥ずかしがらずに、頂こうかなと思いました」と語ったが、働いた分の代償としての報酬は既に国民の税金から貰っているのに更にご褒美をもらうことに違和感を持たず貰っても恥ずかしくないようだ。又、全国の地方議会議員の中からも多くの方々が選ばれ受賞している。

 思うのは、「そんなに勲章が欲しければ、最初から仕事の代償として与えられる給与も報酬を一銭ももらわずにやれ!」ということです。それなら、勲章に値するだろう。

 以前、私がまだ議員になる前の話をしよう。昭和61年から平成元年までの4年間、室戸市のど真ん中の浮津でジャズ喫茶をしていました。

 今でも忘れません。ある日のこと、店内の奥の方には数人の女性グループが仲良くモーニングを食べていた。そこに室戸市議会議員のY氏がやってきた。それまで一度も店に来たこともなかった一見のお客さんでした。彼はコーヒーを飲み始めたが、奥にいる女性たちの話の中に割って入って、こう言い放った。「あの水路はワシが役所に言うてやっちゃったきんの」。その議員と女性たちは知り合いではない。

 カウンターの中でそれを聞いた私は、首をひねりました。市会議員とはこの程度の人間たちか、と。

 「議員は市民の税金から報酬をもらっている立場の人間で、いろんな仕事をして当たり前の立場。だから報酬をもらいながら仕事をしない議員は泥棒のようなもんや。そんな立場の人間が、ちょっと担当課に口添えをしただけで、市民に向かって『仕事をやっちゃったきんの』と言えるのか。恩着せがましい。よくもそんなことが言えたもんよ」。

 そう思ったものです。やって当たり前の仕事を、「やってあげた」と言うその神経。ボランティアで議員の仕事をしているわけじゃないのに、自分が報酬をもらっている市民に対して恩がける。バッカジャナカロカと思った。

 もし、その女性たちから「あんたは私らの税金で飯を食いよう立場やに、なに偉そうに自慢しようがあぜ。恩着せがましい! やって当たり前やろ」と言われたらどうするつもりだろう。

 地方議会には物事をこういうように考えている議員もたくさんいるということです。だから思う。国民や県民、市区町村民の税金から仕事の代償である給与や報酬をもらっている人たちに、国は勲章を授与してはいけないと。

 叙勲の決まりはどうなっているか知りません。でも、公職にあって職から退いた人たちにもいろんな賞を授与していますが、長年その公職にあったことを評価して賞を授与しているのならば、授与するのは今すぐにおやめなさい。

 なぜならば、公職にいて一生懸命働くのは当たり前の話です。給与や報酬をもらっている限り、その人たちは賞に値しません。その公職にある時にいくら大変優れた功績があったとしても、それで当たり前。褒章に値しない。当たり前の仕事をした人物に賞を与えることはない。

 更に言うと、その人たちの中でも特に国会議員や知事職、都道府県議らは生活に苦しんでいる一般国民や一般市民の給与と比べるとそれはそれは分不相応な巨額の給与や報酬をもらっています。国民・住民の税金が原資である給与や報酬をもらっておりながら在職期間に功績がない、そんな人物の方が厳罰者だ。

 とにかく、この春秋叙勲及び褒章、文化勲章授与の時、いつも思う。「なぜ政治家が、勲章をもらわなくてはならないのか」と。

 国民みんながこの理不尽さを解らないようですが、とにかくふざけた話だと思っている。


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リーダーの説明責任

2012-04-30 | 政治家のあり方
 皆さんはもうお忘れでしょうが、2009年5月、民主党の小沢代表が辞任。その記者会見で、こう述べた。

 「挙党一致の体制をより強固にするために、敢えてこの身を投げ打ち、民主党代表の職を辞することを決意した」と。あれほどいくつかの党を渡り歩き、トップを務めた人が原稿を読みながら、氏の体質に似つかわしくない「挙党一致の体制をより強固にするために」という言葉を使って。

 小沢氏はこの辞意表明において「敢えてこの身を投げ打ち」とも述べたが、それほど値打ちのある身の処し方ではなかろう。

 「敢えて」とは、「強いて」とか、「無理に」とか、「何かを押し切って」の意。つまり、周囲が引き止める状態があって、その引き止めるのを振り切って「この身を投げ打ち」、つまり、「自分のこの役職を犠牲にしてでも」やめましたという。

 「民主党代表の地位にある自分が辞めるというのを民主党の多くの議員が『あなたがいなければ政権は取れない』と言って引き止めるが、私はそれを振り切り、自分を犠牲にしてでも辞めなくてはいけないと考え、辞職することを決めた」と言った。

 だから、この辞職会見は「私が以前から辞職するというのを周りの皆んなが止めていたが、今日はそれを振りきり、代表を辞めることにした」という意味の発言になる。

 皆さんよくお分かりのように、これは小沢先生が自分で自分に値打ちを付けて言った話。本当は、民主党の他の議員の事をおもんぱかれば、もっと早く、4月中旬にでもサット辞めるべきだった。でも、上に立つ事が嫌いな人がさすがに今度だけは総理の椅子もあったから代表の座ににすがりついたが、世論に負けて辞めざるを得なくなった。(現在でも、民主党から小沢氏とその一派が出てゆけば、民主党が浄化されるのになあ」と思っている民主党議員は多い)

 実にいさぎよくない最後の姿だったが、この会見で一つ特に問題だと感じたのは、国民に対して「なぜ、辞任するのか」を説明しなかったことと、なにか辞任する事が政治家として立派な行為だとでも言いたげな態度で会見を行ったことだ。


 その数日後の5月12日、高知新聞のコラム「小社会」にこんな一節が掲載された。それを読んで、小沢代表と同様に、室戸市長の政治姿勢とも共通する点があると思い、記事に共感した。

 《(前略)▼会見で小沢氏は政権交代の実現へ、党が結束して総選挙に勝利するためと話した。だがこれだけで辞意に至る道筋を説明できるだろうか。もっと大きな視野で本筋を突いたのが、ジェラルド・カーティス米コロンビア大教授だ。
▼「国民とのコミュニケーション能力に欠ける人は首相になる資格がない」。民主党自身が設置した有識者会議で堂々、そう指摘した。次の首相に求められる資質を欠いているなら、小沢氏の辞意はそれが時代の要請だったということになる。
▼教授の言う能力は、小沢氏自身も認める「口べた」などとは関係ない。率直に思いを国民に語りかけ、その声に耳を澄ます。リーダーの姿勢が国民の心に響くかどうか。小沢氏が古い政治の体質から抜け切れなかったとすれば、非情だが淘汰も仕方ないとも映る。(後略)》


 同年4月24日に都内のホテルで行われた民主党の「政治資金問題をめぐる・・・第3者委員会」に招かれた同教授は、上のように述べ、小沢代表は有権者への説明が不十分だと厳しく批判している。

 これは、「政党の代表でありながら、秘書が政治資金規正法に絡み逮捕されたことに対して国民に説明しないでは許されない。逃げてばかりで、国民に向けての説明責任が果たせていないではないか」との問い掛けだった。

 記事の中のジェラルド・カーティス教授の発言、「国民とのコミュニケーション能力に欠ける人は首相になる資格がない」は、小沢さんに向け発した言葉ですが、この言葉から、こんな言葉が頭に浮かんだ。

 「住民とのコミュニケーション能力に欠ける人は、首長になる資格がない」。

 数年前を振り返って考えてみよう。

 室戸市の温浴施設の運営に関して、バーデハウス室戸に行った二度の財政支援は実は市の条例とその公募の時の公募要綱で「行わない」と明記された条項に反する市が行った行為でしたが、その支援を行う前にも住民に説明をしませんでしたし、市が新会社を立ち上げて運営するという市の重要問題の一つの転換期である議決の前にも「市民に説明会を開いてこのことを説明すべきです」と求めましたが、頑なに住民に説明をしようとしない。

 2008年9月議会の一般質問で私が小松市長に「議決する前に住民説明会を開き市民にこの支援について説明すべきだった。なぜこれを説明しないのか」と質したところ、市長は「説明が必要と思い、(6月議会で可決した後の)7月の住民懇談会で説明した」と答弁した。私が求めたのは、「説明したのか」では無く、「議決する前に住民に説明すべき」だった。つまり、住民に向かって説明責任を果たすのは嫌だと言ったということになる。

 これは室戸市議会においてだけではなくてどこの自治体の議会もそうだと思うが、行政側の常套手段として、質問の本旨からずらして自分たちに都合のいい答弁だけを行い、問いには答えない。そんな手法をよく使う。この市長答弁も典型的な市長等執行機関の、いわゆる“答弁回避術”の一つ。

 こんなのは質問から逃げているとしか言えず、正面切って答弁できない市長は意気地が無い。勇気が無いから、正面切って質問に答えられない。

 そこを、勇気を以って私に対して「議決する前に住民に説明しなかったことは適切な行政運営と言えない。議員の皆さんと住民の皆様には申しわけなく思っている」ぐらいの謝罪の言葉があれば、議員も「次回からはちゃんと住民に説明して下さいね」で、済む。

 何事においても、勇気のある人なら、そして誠実な真心のある人なら、不適正なことに対して「申し訳なかった」と謝罪できるし、間違いも改められよう。

 20年の12月議会だったか21年だったか忘れましたが、違法な形で進められた高速バスターミナル建設事業に関し、私は市長に対してこう指摘した。「人間、誰でも過ちというものはあります。だから、過ちを犯して人から指摘されたときには、すぐにその過ちを認めることです。そうすれば誰もそれから批判はしません。だから、市長もあの違法を認めて謝罪し、私が助言したように適法な形に改めてはいかがか」と“助け船”を出した。だが、答弁では「あの建物は適法です、これからも今のまま運営を行ってゆきます」と、それを拒絶。いつまでも間違いを改めません。

ま、これも一般の人なら「彼はそういう人だ」でこの話は終わりですが、仮にも市長。不正な事業を改めなければその地位にも傷が付くと思うが、市職員に聞くと今でも改めていないらしい。その理由は、あの人には正しい政治運営を行おうとする考えと勇気が無いから。他に理由はない。

 政治家に大切なのはそこ、「正しい政治を行おうとする精神があるかないか」だけに掛かっている。

 8年間、地方政治と選挙に関わってきてよーく解ったが、地方の政治家の半分以上、いや九割以上の政治家はこの観念がないと私は確信した。

 何事も「まー、いいか」、「まー、いいじゃないか」で全てユルユルでお互いに認め合って進めている。中に私のような厳格な人間が一人いると悪しき体質の和を乱すからか、よってたかってみんなから阻害され、住民からも排除されることになる。



 ではここで、組織の長はどのように説明責任を果たせばいいかを企業などの組織運営に関することを描いた参考書を基にして解説させていただく。

 まず、説明責任が正しく果たされると言えるのは、相手が納得した時である。市会議員である私が市長に室戸市が行った高速バスターミナル建設事業について指摘した時に、市長が全てを明らかにして説明し、それに私が納得した時である。つまり、市長が行う説明責任が自身が倫理的な観点でその事業に関して行動できたかどうか、ということがまず第一に問われる。もし倫理観がない市長ならばこの説明責任は果たせないということになる。だから、室戸市長は違法に行ったこの高速バスターミナル建設事業について説明責任がいまだに果たせないということになる。

 「倫理観」について調べました。そこには、「人間の行為における善・悪の観念」とあった。だから簡単に言えば、違法な政治を行う政治家は悪人で、法律をよく守って正しい政治を行う政治家は善人ということになる。

 説明責任を負う地位にある人(首長)は、説明を求める私を納得させる上で、“相手側”の議員である私の視点に立った説明を誠実に行わなくてはならない。つまり、説明責任を果たす上において、倫理は欠かすことができない基本原則といえる。

 それは、市長と議員の関係であっても、厳しい指摘に腹を立て威張り散らすのではなく、対等意識を以って意思疎通を行うのが説明責任を晴らすための基本である。また、市長、つまり行政組織の長である首長には、自ら改め修正するという心構えが絶対に必要。極論すれば、この精神がもともとない人は首長選挙になんぞ出馬してはいけないのである。

 このようにすべきであるのに、市長が行った違法行為を改革派議員が指摘しても、攻められ他方の市長が「いや、違法ではない、適法だ」と言っていては、いつまでも議員は納得せず平行線をたどる。双方向性がなくお互いが全く食い違って間見合わない状態では、いつまでたっても説明責任は成立しない。説明責任というのは、問い批判する議員側に倫理的にきちんと市長や担当課が行ったことを法律に基づいて正しく説明すれば、完璧に果たすことができる。つまり、この事業のように、市長と担当課長が違法であることをよく認識したうえで行った場合などは、「違法ではない」といつまでも虚偽の答弁を突っぱね繰り返すのではなくて、「20年8月の最初から違法であると知っていて行ってしまいました」と違法を認め、「どうも済みませんでした」と謝罪し、そのうえで、「谷口議員が提案したような形に、ちゃんと適法に改めます」と改めることである。これが「自己修正」。

 「自己修正」についても調べました。そこには「さまざまな関係性を持つ個人や組織体が、状況変化の中で、安定維持・成長のために、自らの意思で、よくないところを直し正しくすること」とある。これを健全な地方自治に関して言うと、「違法を行った市長が、調査した上で改革派議員にその違法業務を問われた場合には、室戸市の健全な財政運営とコンプライアンス(法令順守)精神に富んだ市政運営を行うために、市長自らの意思を以って、違法な形態を改め正しくすること」である。

 「説明責任」について言えるのは、不正や違法などあってはならない出来事に関し、あいまいにしてはいけないということ。一つの組織にあって、室戸市長のような言い逃れは、もっともみっともない行いと言える。なによりも、これをあいまいにして行った違法行為を改めなければ、未来永劫までそれは残り、違法があったことを語り継がれることから、将来の室戸市にとっても良いことではない。


 それと、高知県庁の企画振興部(現・総務部)市町村振興課職員と財政課職員の皆さん、他人事では済まされませんよ。室戸市の事業が違法だとよく認識しながら県費1444万円を出したのはあなた方ですからね。


 さて、このように住民への説明がいつも物事を議会で決めた後の、こんな事後承諾のような形で行われている室戸市ですが、全国の賢明なる市区町村の議員諸氏、地方の行政運営はこれでいいと思いますか。これで住民の声が行政に活かされているとお考えになられるか。

 政治組織が住民への説明責任を果たすこと。これは市区町村であっても国政であっても同じで、何としても為すべきリーダーの責務といえる。

 先に示したコラムに紹介されたカーティス教授の言葉通りです。「国民とのコミュニケーション能力に欠ける人は、首相になる資格はない」。

 この言葉から導き出されるのが、
「住民とのコミュニケーション能力に欠ける人は、首長になる資格がない」。

 市民と互いに意思を伝え合うこと。その重要性や資質がまちのリーダーに無かったら、そこで行われる政治は独裁的になり、間違いなく「独裁政治」となろう。そんな考え方で行う市政運営は、とても「住民自治の発露」とは言えず、一人よがりの政治となろう。

 コラム記事にもある。「口べたなどとは関係ない。率直に国民(市民)に語りかけ、その声に耳を澄ます。(その結果として)リーダーの姿勢が国民(市民)の心に響くかどうか」

 リーダーが、市民から批判や反対されるのを恐れて住民への説明責任を果たそうとの努力もせず、むしろそれを回避し続けるならば、「古い政治の体質から抜け切れなかったとすれば、非情だが淘汰も仕方ない」と、私も同様に考える。

 住民の声を無視して住民に意思を問わないリーダーには、退場願うしかない。

 勿論、行政のリーダーだけでなく、リーダーに寄り添い違法や不正を容認する議員もしかりだ。
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高知新聞の「落書き岩」の記事

2012-04-28 | 組織のあり方
 (先日の記事を再度掲載する)

 高知県唯一の地元紙・高知新聞が最近、おかしい。

 それは、高知新聞室戸支局長の真崎記者が書いた4月14日(土)の「室戸ジオ 岩に落書き」の記事と、20日(金)のコラム、土佐あちこち「落書き岩」の記事。

 最初の室戸岬の岩場に書かれた落書きについての記事ですが、まず、こんな落書きを世界的にどんな位置づけにあるかをお教えしておきます。

 この落書きは「タギング」と呼ばれ、大半がスプレーペンキで描かれる。この発祥は、アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ。これはいわゆる「ストリート・アート」から派生したものです。描いている本人さんたちは「アート」と思い悦に入り描いているが、アートとはとてもいえず、どこまでも落書きの域を出ない。

 特に、1990年代後半には今回のような落書きのようにデザイン化された英単語のみによるマーキング(所謂、歩く途中にあちこちにひる犬の小便と同じ)が目立つようになり、大半が室戸岬の岩場に書かれた「YOPEK」などのようにスペル間違いや意味のないスペルもあって、明らかに芸術性など微塵もないものが多い。しかし、ストリート・アートでも、適切な場所や物体に描かれた物に関してはやがて市民権を得て、芸術活動として認知された経緯がある。(その代表的な作家が世界的な抽象画家となったが31歳で亡くなった、キース・ヘリング)

 因って、このような芸術性のかけらもない落書きをところ構わず地域住民が困ろうがお構いなしで描いたものに関しては、この行為はその描かれた内容に関わらず公共や個人の財産を汚損しているため、器物損壊罪となり罰せられる。

 その程度の落書きを最初に報道した14日(土)の記事の内容についてはあまり疑義はないが、一点だけ、「溶剤などで塗料を落とすのは難しい」という記述については、「落とせないか否か」を塗料メーカーなどに問い合わせるなどして詳細に調査したうえでの記事か、と思っている。

 高知市のトイレや空き店舗のシャッターなどにもよくこの手の落書きがあり、高知新聞でも報じた記憶があるが、真崎記者はその落書きを落とした行政関係者に塗料の落とし方を問い合わせたのか。問い合わせたが「落とせません」と回答があったのか。

 記事を書く上において重要なことだから、それをお聞きしたい。

 そして、書いてある塗料はアクリルかラッカーかを調べたのか。そして、ラッカーならば通常はラッカー・シンナーで落とせるが、ラッカー・シンナーでも落とせないと解ったのか。又、塗料がアクリルならば、私が書いている洋画制作の例から言うと水で落とせるし、それもお湯の方がよく落ちることから、お湯を使っていま流行りの高圧洗浄機、それも大型の工業用でやれば簡単に落ちるが、それでやっても落ちないと解ったのか。

 そこまで調べたのか、です。それらのことはまったく調査せず、塗料については素人の域をでない人たちの話を聞いただけで記事を書いたのではないか、と私は考えている。

 そこで、この岩の落書きを落とす方法として、室戸市の観光関係者に助言したい。

 まず、発電機を借りてきて、岩に書かれた落書きに大型のバーナーの火を当て塗料を溶解させ、すぐに温水を使った大型の高圧洗浄機の噴出口を岩から10センチぐらいまで近づけて浮き上がった塗料を吹き飛ばしてしまう。この方法で30分も作業をすれば完全に消えてしまうと思っている。勿論、この作業を行う前には、岩の前面にビニールシートを敷き落ちた塗料が小石の間に入ってしまわないように用意しておくことも考えておかなくてはなりません。

 費用もいりますが、室戸岬の環境保全及び修復のためです。できれば騙されたと思って行ってみてほしい。尚、費用については、犯人逮捕の暁にはその全額を請求し払わせることです。


 それと、若いとこんなことも知らないとみえるが、4月14日の記事には室戸警察署から借りた落書きをした岩の写真を掲載しているが、あれは失敗だった。写真を掲載することでどういう影響が生まれるかをご存じない。

 その理由として、被害を受けた“された”側の立場で記事を書けばあんな「腹立たしい」ことを主張する記事になるが、私はあの犯人は高知市などにいる落書き常習犯の若者と見ていて、そのバカ者、いや、若者があの新聞記事を見たとき、腹を立てるか喜ぶかを考えたとき、喜ぶんですよね。犯罪を犯した“してやった”側の立場で考えると、あの新聞を見て、大喜びしたことは間違いない。それはなぜかというと、犯罪者心理というものは、放火犯がつけ火をして逃げ物陰に隠れてその火が大きくなるのを見て喜んでいるのと同じで、岩に落書きをしたのちにそれが写真入りで大きく新聞に載ったのを見て喜んだといえる。

 だから取材記者として知っておくべきは、再犯を防ぐためにも犯罪者を喜ばせてはならない、喜ばせるようなことはしてはならないということ。だから、記事にするにしても、犯人を喜ばせることのないように、写真を入れずに記事だけにすべきだった。それは、たとえ写真をつけて掲載することで読者に記事としての説得力を持たせることができるとしてもだ。

 更に言うと、高知新聞地方部に上げたその原稿をチェックした部長らも私が言うように考え、そこで写真だけは没にすべきだったとも言える。記事に室戸警察署から借りてきてまでして写真を掲載したということは、担当部長にもその観点が理解できていなかったと言えよう。地方部(あるいは整理部)と真崎記者は写真を掲載したことによって犯人を喜ばせてしまったが、ジャーナリストは書いた記事で以って犯罪者を決して喜ばせてはいけないのです。なぜかというと、犯罪者を喜ばせば付けあがって、その悪い人間、又は他の悪い人間によって再犯の恐れがあるからだ。もしかしたら、あの記事に喜びを感じた犯人が落書きされた岩の周辺でまた別の岩に落書きする恐れは充分にあると思っている。


 もうひとつ、20日(金)のコラム記事「落書き岩」については首を傾げる。

 記事にはこうある。

≪(前略)「元に戻してほしい」という声は強いが、岩石の性質上、完全に消し去るのは難しいという指摘がある。1千万年以上もかけて形成された自然の造形が一瞬にして汚された。再発をどう防ぐか。関係者は苦悩を深める。≫

 もっともです。私は室戸市の行政関係者が関心を持たない平成3年から自分が発行している地域雑誌や自費を投じて発行した地質写真集でこの室戸半島の海岸の地質を室戸の観光振興に活かしてほしいと訴え続けてきた。そんな奇特な市民は他にはいません。そうして、平成20年からようやく“私が育ててきた室戸の地質”が日の目を見たのです。だから、今回の落書き事件は室戸市民だけでなく、私にとっても悔しい出来事に違いありません。「誰だ!こそこそと夜目を盗んで書きやがって。出てこい!」と思っている。

 言わばこの落書き犯は、私に「議員としての職責を果たそうと努力しない元市職員の市会議員は、報酬の金が欲しいだけの、天下りのようなものだ」と記事を書かれて腹を立て、当電子情報誌に暗闇からコメントを投げつけてきたどこかの市会議員とやっていることは一緒だ。

 そこで、記事の続きです。

≪そこで提案したい。この落書きをあえて残し、自然や環境を考える“反面教材”に出来ないか。ジオパークの理念は、貴重な地質や生態系の保護と、それらを活用した地域振興の両立にある。規制を強めれば、見て、触れて、学ぶ、というジオ本来の教材価値が薄れる。自然保護の意識を喚起する仕掛けとして「落書き岩」に「語ってもらう」のも手ではないか。「負の遺産」を警告と教訓に替えていく“上書き”大作を考えたい。≫

 こう、結んでいる。

 失礼ながら、「若いなー」と思いました。

 「落書き岩」と命名してしまったこと。なぜ被害を受けた岩に名前をつけてはいけないのかというと、それを書いた犯人を喜ばせてしまうからだ。新聞を見て、「やったー、オレが書いた作品に名前が付いたぞ!」と、仲間とともに喜び、悪くするとその犯人の友達らも「おれもやってみようか。また新聞で紹介してくれるかもしれないから」と落書きを誘発することが予感できる。だから、名前などつけずに、ただ単に「落書きされた岩」とすべきだった。

 そして、「この落書きをあえて残し」と記者は言います。どうも若いと、物事のなんたるかが解っていないようだ。

 なぜ、これまで高知県内、多いのは断然、高知市だが、その高知市のトイレや空き店舗のシャッターなどにこんなストリート・アートにもならない落書きを書かれて行政関係者が苦心して落とすのか、高知新聞の記者氏は考えたことがあるのか。そこからまず考えてみることだ。落書きを書かれて落とすのは、町の景観を害することや行き交う人たちが嫌な気分に為るから落としているぐらいは理解できるのではないか。それが解っていれば、「そこで提案したい。この落書きをあえて残してはどうか」なんて記事、書けないはず。だから、書いたということは、この要点を理解していないということになる。

 それと、「規制を強めれば、見て、触れて、学ぶ、というジオ本来の教材価値が薄れる」とかいうが、では、「環境保全という規制をすれば室戸市における地質の価値が薄れる」ということなのか? 「規制を強めればジオ本来の教材価値が薄れるから、落書きぐらいしてもいいように、規制を緩めろ」なんてことを世界のユネスコが許すと思っておられるのか?

 失礼ながら、如何にも愚かな提案です。

 又、「“落書き岩”を負の遺産として位置づけ(観光客に向けて)“語ってもらい”、それを警告と教訓に替えていくのも手ではないか」とかいうが、こんなものは観光客が書くようなものではなくて確信犯の若い犯罪者が日頃目立てないから注目を集めようと考えて書くもの。観光客に向かって「こんなものを書いたらいかんぞ」と警告や教訓を与えてどうするの? どうも物事のなんたるかが解っていないようです。

 とにもかくにも、書いた奴をしょっ引いて落とさせることに尽きる。又は、行政がお金を使って落とした場合は、その犯人にその代金の全額を支払わせ、もしその若者にお金がなければ、親に払わせること。それでおしまい。

 言っておきたいが、犯人を擁護するような記事を書いてはならない。選挙で当選して一週間後に公職選挙法違反となる金を配って回った地方政治家の夫婦も、室戸岬の岩場に英文字を書いた犯人も同じだ。犯罪者をみんなで庇ってはならないのです。罪には罰を与えること。私のようにいつも厳しく対処して、重い罰を与えることが大事だ。そうしなければいつまでも犯罪はなくならないし、決して町も良くならない。

 この落書きは残すべきではない。高知新聞の記者氏が何と言おうと、何としてでもあの落書きは落としてしまうことだ。

 私が平成3年からこれまで、大金を掛けて室戸市の観光振興策として呼びかけてきた「青空地質博物館」をあんな下品な物を残してけがされたくはない。何としても、落としてほしい。そしてまた元のふつうの岩場に戻してほしい。それも環境保全への重要な取り組みとなる。 

 最後に。

 器物損壊事件で被害を受けた物を「落書き岩」と命名して写真まで掲載してしまい、更に「保存して」という記事などはとんでもない話。記者は環境保全についてもっと勉強し直した方がいい。

 できれば一度、拙宅へおいで下さい。小生、室戸ではコンプライアンス(法令順守)精神に富んでいるために堅物のように思われていますが、妻に聞いていただきたいが、本当はサービス精神旺盛な、ユーモアにあふれた面白い男。唯、そんなわたくしでも、不真面目な人間と法律を守らず改めもしない悪い政治家にだけは、人の何倍も厳しい。

 それと、今は売れない画家として毎日、工房で絵ばかり描いていますが、自分のお金を使って「室戸の地質を観光に活かせ」と長くそして広く広報してきたのは高知県内の誰でもなく、小生です。記者はお若いのでご存じないでしょうが、室戸半島の地質が“成人して”室戸ジオパークとなるまでの“育ての親”は私で、“生みの親”は平成3年に室戸で世界付加体会議を開催するに当たりご尽力された東京大学の平朝彦教授。 日本中でこれに異論のある方はいないと思いますが、いたらご意見をお聞かせ頂きたい。これまでの正しい歩みをご説明させていただきます。

 だから、この点から言うと、高知新聞さんは私を一度取材してみるだけの価値はある。

  

  

 拙著、室戸半島の地質写真集『青空地質博物館』の巻頭に提言(上掲)として表明しているように、地質観光で飯を食うということは地質学だけではその目的を達成できないことは明らかです。室戸市で地質を観光に活かそうという活動が始まった経緯は私しか知りませんので、記者氏には地域づくりの在り方や、公職選挙法違反をした政治家の話、違法や不正が堂々とまかり通る室戸の政治体質の他、ジオパークについてもその在り方や見方、考え方についてなどをお教えさせていただきます。来て損にはなりませんので、どうぞおいで下さい。


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室戸ジオパーク、「室戸岬(舌状岩)」の制作

2012-04-27 | 私の絵画制作活動
 政治に関する記事が少なくなって寂しくお思いの方々には申し訳ありませんが、いま本職としている
“世界で唯一人の室戸ジオパークを描く画家”としての画業のご報告です。 

 昨年7月から30年ぶりに描き始めた絵画制作活動で、これで10作目となります。

 10作目になる作品は、舌状をした岩場を描いた「室戸岬(舌状岩)」。

 ・・・と言ってもお分かりにならないと思いますので、小生が20年に発行した室戸半島の海岸でみられる岩場をまとめた地質写真集『青空地質博物館』をご覧ください。

      

 この自著の中で紹介している室戸岬の岩、「舌状岩」、英語で言うと「TONGUE ROCK(タング・ロック)」です。写真集ではこの岩を東側から撮影していますが、今回はもう少し西に移動して、どろっと垂れ流れ固まり舌状をした岩を正面に据えて描いています。

   

 まず、描き始めの下描きをご覧いただきたい。

  

 そして、下書きから一週間後の、そうですね、仕上がりまではまだ3分ぐらいの、下塗りを始めたぐらいの出来が次の、今日の状態です。

   

 勿論、昔から連休だからって休むことはありませんでしたし、地域雑誌の出版の時も、室戸市議会議員だった8年間もそう努めてきた。また、今年は大きな目標を立てているので、リサーチによってそれが達成可能と確信すれば近くその決心をし、絵を描くことはしばらくお休みして、精力的にその分野で働こうと考えています。

 こうして、わたくし、まだまだ老いてゆくいるわけにはいかないのです。 

 この絵に関してはこれから約半月後の5月中旬ごろの仕上がりと予定。

 あっ、それと、これまでこの電子情報誌に書いてきた地方政治に関する記事を一冊の本にまとめ、出版するという件については以前、お話ししましたが、現在もその編集作業を行っていて、完成次第、地方政治の不正や不健全な実態について実名で報道するつもりでいますのでご期待ください。尚、私家版として発行の予定ですので、そこに登場する悪い政治家には販売の予定はありませんので、あしからず。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、4月27日(金)付けGooブログランキング(171万0914ブログ)中、1885位でした。

 驚きました。単なる絵の制作報告だったのにこのようにたくさんの方々にご覧いただき、驚いています。ただ思うに、これは先日書いた「最近、高知新聞がおかしい」の記事に高知新聞社の皆さんが関心を以って検索したからだと思っていますが、とにもかくにも、当電子情報誌ではこれが3度めの1000位台。ありがとうございました。

 私には連休なんてないので、旅行に行かずにお家でパソコンをつついている方はこれからも毎日チェックしてくださいね。
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「伝説の工場再建屋」 山田日登志氏に学ぶ

2012-04-26 | 組織のあり方
  
   (室戸岬海景)

 思い出しますが、4年前のNHKの番組「プロフェッショナル」の「輝け社員 よみがえれ会社」は大変勉強になった。

 番組の副題は「伝説の工場再建屋 山田日登志」。

 山田氏が目指すのは、
工夫すれば、努力次第で生産性は高まり、工場は無限に強くなる。

 これが山田さんの信念です。

 今、企業人だけでなく、首長や行政職員、議会人にもその職務に関する能力アップの面で参考になるのではないかと思い、当時、番組を見ながら大急ぎでメモしたので、その山田さんの言葉や行動哲学を列挙してみたい。

①「ムダ」を見つける。

 ●トップの指示待ちでいいのか。

 ●社員の意識を変えるにはどうすればいいのか。

 ●トップは社員のやる気を引き出せ。

 ●会社の目指すところは何か。

②常識破りの工場改革で、社員が変わった。

 ●決められたことだけやっていた社員の意識が変わった。

③悪い点を悪いと誰かが言わなきゃ、人は変わらない。

④工場に潜むムダを取り除く男が必要だ。

⑤変わることはいいことだとみんなが気付くと、組織は変わってくる。
(誰も気付かないと、いつまでも組織は変わらないということになる)

 ●仕事が増えて文句を言っていた人も、効率が上がってくると「色々工夫できて、仕事が楽しい」と、やがてどんどんやる気が増大してくる。
 ●社員が仕事の楽しさを味わえば、工場はどんどん強くなる。

⑥働くことに喜びを持つこと。

⑦7苦しいけれど、仕事が楽しいという人間を作らなければ、組織は荒廃する。

⑧変化を受け入れないから、改革が進まない。逆に言うと、改革が進まないのは、組織に属する人間が変化を受け入れないからだ。

⑨下手な伝統や昔から続いてきた慣習に固執し過ぎると、社員が好き勝ってやるから、会社がおかしくなるんだ。

⑩工夫の余地は無限にある。後は、やるかやらないかだけだ。

⑪プロフェッショナルとは、使命を感じて人が賞賛してくれる働きをする、そんな人をプロと言う。


「赤字工場を再建するための手法」

①材料は使う場所に置く。

②機械が商品を作る時に見ているだけの人はムダで、必要ない。

③動線を短くする。

④運ぶ距離は出来るだけ短くする。

⑤新製品は客のニーズに合ったものを作る。


(これらは当たり前のことだが、気付かずに仕事をしている例が多分にある)


 以上は走り書きしたメモを基に要点を列挙したものですが、この番組を見ていま振り返って思うのは、やはりこれまで私が議員の責務として8年間行ってきたことに誤りはありませんでした。

 議会に出てきた議案に違法があろうが不正があろうが、それを解っていながらみんなで挙って「まー、いいか」と賛成しているようでは、あまりにも幼稚で、政治家としてはまったくの失格。山田日登志の教えを聞くまでもないが、「動かない人間の方が間違っている」と確信した次第である。

 それと、この番組の中で特に注目したのは、山田さんに問題点を指摘された一人の家具職人がそれを改善しようと必死になって作業時間を短縮しようと苦心するシーンでした。機械や材料の置き場所を変えたり、取っ払ったりして、少しずつ時間を短縮して行く過程は、特に楽しく見せていただいた。こんな職人のいる会社や組織は強いと思いましたね。逆に言えば、こんな熱意のある人がいない会社や組織に将来は無いし良くはならないと、確信めいたものを感じた。

 この場合も、飛騨高山の家具会社社長が「再建屋・山田」に工場形体の改革改善を依頼して職人に指導してもらったことから木製チェアの製作時間が半分に短縮されたものであって、これがこの会社の別の工程で仕事をしている同僚職人が当該職人に改善点を指摘し助言を与えた時に、素直にそれを聞き入れ、改善に努めたかは大いに疑問だ。

 「上」から支持されたり、著名な人物が来て指導されたら改めようと努力するが、同僚や自分より経験の浅い人、分野の違う人から誤りや不適正や知識・技術の改善点などを指摘、指導されると、努力しない。むしろ反発する。

 人間とは概してそうしたものですが、そこを素直に反省し、受け入れてトライしてみるところに、勇気の有無、誠意の有無が表出する。

 でも、テレビや映画のように「あー、あいつが言うように、俺は今日まで間違っていた。改心して、組織のために尽くそう」とする人は、あまりいない。

 人の教えに関していうと、努力する人はもともと生真面目な努力家だから、指摘されることも無く、自分で学び改める。一方、過ちを指摘される人はその指摘に反論して大体、改心しないもので、その悪い性格は死ぬまで直らない。

 これを本日の結論としたい。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、4月26日(木)付けGooブログランキング(171万0492ブログ)中、4585位でした。
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松井秀喜、東地区のレイズ入団へ!

2012-04-24 | 文化・芸術・スポーツ
 今日、事務所でテレビをつけっぱなしにして絵を制作していたら、「前アスレティックスの松井秀喜選手がレイズとの契約間際」といううれしいニュースが流れた。

 松井の入団を心待ちしていた小生は、「えっ」と後ろにあるテレビの方を振り向き、「やっと決まったか」と一人、大喜びしました。予想していたナショナル・リーグのドジャースではありませんでしたが、スタートから1位を快調に走るチームに新たな強打者は必要ないということです。

 で、早速、詳細に知ろうとネットでスポーツニュースを検索。それによると、「地元紙報道によると、マイナー契約後はフロリダ州のキャンプ施設での練習を経て、傘下の3Aに合流する方針」だというから、多分、5日から10日間ぐらいレイズのキャンプ場グランドで練習をし、3Aで5試合ぐらい試合に出場した後、メジャーに上がるのではないか。もうひとつ、3AではR・ソックスの松坂との対戦も期待されている。

 とすると、マイナー契約は日本時間の明日25日、練習は一週間とみて5月1日、3Aでの試合に5試合出場して5月7日とすると、松井秀喜選手がメジャーに昇格してアメリカン・リーグのタンパベイ・レイズの試合に出場するのは、5月8日以降かと予想している。

 レイズの試合日程は、日本時間の5月1日(火)から4日(金)までマリナーズとの4連戦、5月5日(土)から7日(月)までは昨年いたアスレティックスとの3連戦、そのあとは5月9日(水)から11日(金)までこれこそ古巣のヤンキースとの3連戦となっている。明日契約するとして、マリナーズ戦までは一週間だから、これに出場するのは無理だろう。

 毎年4月に開幕して10月初めに終了するメジャーですが、それも、はや開幕して一か月が経つので、松井もゆっくりなんかしていられない立場。だから明日契約するとして、遅くても4月25日から丁度2週間目の、5月9日のヤンキース戦には今年のメジャー初出場になると予想する。

 私が10代の頃、明治生まれの親父・谷口義貴がよく言っていた例えを思い出す。「大関は、八つから晩」。うちの父親は大正時代に大阪である財閥お抱え大工の棟梁について大工をし、戦前の昭和18年に銘木製材所を起業して名を成した男ですが、その親父がこの例えを口癖のように言っていたので、これは戦前、関西の商売人や職人仲間の中で使われていた言葉だと解釈している。だから、高知県でこの言葉を聞いたことのある人はあまりいないと思います。

 「大関は、八つから晩」の意味は、昔、江戸時代の相撲に横綱はなくて、一番上位が大関でした。その大関が土俵に上がってくるのは「八つ」、つまり午後2時から3時ごろ。そして、「晩」とは午後五時以降。だから「大関は八つから晩」とは、「一番強い者は、みんなが相撲を取り終わるころに登場する」という意味になる。

 曰く、松井の登場は、決して遅くはないということです。ファンの皆さんにはお待たせしましたが、最上位の“大関”(今でいうと横綱)である松井は勇躍、これから大リーグの“土俵”に上がります。盛大な拍手で迎えてやっていただきたい。

 とにもかくにも、やっと春が来た。本当にやっと松井がメジャーに帰ってきたことは喜ばしい出来事である。我がことのようにうれしく思っている。

 それも、アメリカン・リーグの東地区の球団に入ったことが何よりもうれしい。松井のマンションはニューヨークだから、昨年のアスレティックスや一昨年のエンゼルスの本拠地である西地区と違い、地元みたいなもの。何とかこのレイズで少なくても2年間働いてくれれば、小生もそれ以上は無理は言わない。

 そうすれば彼も39歳。それ以後は私にとってはおまけみたいなもの。だから、それで引退しても、大リーグのどこかのチームと契約して1年、2年働けたとしても、それはそれで良しとしたい。

 彼があと2年ぐらいできれば、私としてはもう大満足。あのヤンキースの一員としてワールドシリーズを戦かった姿を、すべて生中継で見て応援し熱狂できたことを思い出にしようと思っている。

 さあ、今夜はお祝いをしなきゃいかん。愛する妻と二人して、ビールで乾杯だ!


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、4月24日(火)付けGooブログランキング(170万9748ブログ)中、3738位でした。
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最近、高知新聞がおかしい

2012-04-23 | 書籍・新聞・テレビ
 長年にわたってお世話になってきた高知新聞ですが、どうしても言わせていただきたい。


 高知県唯一の地元紙・高知新聞が最近、おかしい。何がおかしいかって? あれも、これもですが、疑問に思うことを二つだけ挙げさせていただく。

 一つは、高知新聞室戸支局長である記者が書いた4月14日(土)の「室戸ジオ 岩に落書き」の記事と、20日(金)のコラム、土佐あちこち「落書き岩」の記事について。

 もう一つは、高知新聞自体の記事が激減して通販広告などが増加し、新聞としての品格が急落していること。これは県民の中の、敏感に物の変化を感じ取れる方はもう察知しておられると思います。


 最初の室戸岬の岩場に書かれた落書きについての記事ですが、まず、こんな落書きを世界的にどんな位置づけにあるかをお教えする。

 この落書きは「タギング」と呼ばれ、大半がスプレーペンキで描かれる。この発祥は、アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ。これはいわゆる「ストリート・アート」から派生したものです。描いている本人さんたちは「アート」と思い悦に入り描いているが、アートとはとてもいえず、どこまでも落書きの域を出ない。

 特に、1990年代後半には今回のような落書きのようにデザイン化された英単語のみによるマーキング(所謂、歩く途中にあちこちにひる犬の小便と同じ)が目立つようになり、大半が室戸岬の岩場に書かれた「YOPEK」などのようにスペル間違いや意味のないスペルもあって、明らかに芸術性など微塵もないものが多い。しかし、ストリート・アートでも、適切な場所や物体に描かれた物に関してはやがて市民権を得て、芸術活動として認知された経緯がある。(その代表的な作家が世界的な抽象画家となったが31歳で亡くなった、キース・ヘリング)

 因って、このような芸術性のかけらもない落書きをところ構わず地域住民が困ろうがお構いなしで描いたものに関しては、この行為はその描かれた内容に関わらず公共や個人の財産を汚損しているため、器物損壊罪となり罰せられる。

 その程度の落書きを最初に報道した14日(土)の記事の内容についてはあまり疑義はないが、一点だけ、「溶剤などで塗料を落とすのは難しい」という記述については、「落とせないか否か」を塗料メーカーなどに問い合わせるなどして詳細に調査したうえでの記事か、と思っている。

 高知市のトイレや空き店舗のシャッターなどにもよくこの手の落書きがあり、高知新聞でも報じた記憶があるが、真崎記者はその落書きを落とした行政関係者に塗料の落とし方を問い合わせたのか。問い合わせたが「落とせません」と回答があったのか。

 記事を書く上において重要なことだから、それをお聞きしたい。

 そして、書いてある塗料はアクリルかラッカーかを調べたのか。そして、ラッカーならば通常はラッカー・シンナーで落とせるが、ラッカー・シンナーでも落とせないと解ったのか。又、塗料がアクリルならば、私が書いている洋画制作の例から言うと水で落とせるし、それもお湯の方がよく落ちることから、お湯を使っていま流行りの高圧洗浄機、それも大型の工業用でやれば簡単に落ちるが、それでやっても落ちないと解ったのか。

 そこまで調べたのか、です。それらのことはまったく調査せず、塗料については素人の域をでない人たちの話を聞いただけで記事を書いたのではないか、と私は考えている。

 そこで、この岩の落書きを落とす方法として、室戸市の観光関係者に助言したい。

 まず、発電機を借りてきて、岩に書かれた落書きに大型のバーナーの火を当て塗料を溶解させ、すぐに温水を使った大型の高圧洗浄機の噴出口を岩から10センチぐらいまで近づけて浮き上がった塗料を吹き飛ばしてしまう。この方法で30分も作業をすれば完全に消えてしまうと思っている。勿論、この作業を行う前には、岩の前面にビニールシートを敷き落ちた塗料が小石の間に入ってしまわないように用意しておくことも考えておかなくてはなりません。

 費用もいりますが、室戸岬の環境保全及び修復のためです。できれば騙されたと思って行ってみてほしい。尚、費用については、犯人逮捕の暁にはその全額を請求し払わせることです。


 それと、若いとこんなことも知らないとみえるが、4月14日の記事には室戸警察署から借りた落書きをした岩の写真を掲載しているが、あれは失敗だった。写真を掲載することでどういう影響が生まれるかをご存じない。

 その理由として、被害を受けた“された”側の立場で記事を書けばあんな「腹立たしい」ことを主張する記事になるが、私はあの犯人は高知市などにいる落書き常習犯の若者と見ていて、その若者があの新聞記事を見たとき、腹を立てるか喜ぶかを考えたとき、喜ぶんですよね。犯罪を犯した“してやった”側の立場で考えると、あの新聞を見て、大喜びしたことは間違いない。それはなぜかというと、犯罪者心理というものは、放火犯がつけ火をして逃げ物陰に隠れてその火が大きくなるのを見て喜んでいるのと同じで、岩に落書きをしたのちにそれが写真入りで大きく新聞に載ったのを見て喜んだといえる。

 だから取材記者として知っておくべきは、再犯を防ぐためにも犯罪者を喜ばせてはならない、喜ばせるようなことはしてはならないということ。だから、記事にするにしても、犯人を喜ばせることのないように、写真を入れずに記事だけにすべきだった。それは、たとえ写真をつけて掲載することで読者に記事としての説得力を持たせることができるとしてもだ。

 更に言うと、高知新聞地方部に上げたその原稿をチェックした部長らも私が言うように考え、そこで写真だけは没にすべきだったとも言える。記事に室戸警察署から借りてきてまでして写真を掲載したということは、担当部長にもその観点が理解できていなかったと言えよう。地方部(あるいは整理部)と記者は写真を掲載したことによって犯人を喜ばせてしまったが、ジャーナリストは書いた記事で以って犯罪者を決して喜ばせてはいけないのです。なぜかというと、犯罪者を喜ばせば付けあがって、その悪い人間、又は他の悪い人間によって再犯の恐れがあるからだ。もしかしたら、あの記事に喜びを感じた犯人が落書きされた岩の周辺でまた別の岩に落書きする恐れは充分にあると思っている。


 もうひとつ、20日(金)のコラム記事「落書き岩」については首を傾げる。

 記事にはこうある。

≪(前略)「元に戻してほしい」という声は強いが、岩石の性質上、完全に消し去るのは難しいという指摘がある。1千万年以上もかけて形成された自然の造形が一瞬にして汚された。再発をどう防ぐか。関係者は苦悩を深める。≫

 もっともです。私は室戸市の行政関係者が関心を持たない平成3年から自分が発行している地域雑誌や自費を投じて発行した地質写真集でこの室戸半島の海岸の地質を室戸の観光振興に活かしてほしいと訴え続けてきた。そんな奇特な市民は他にはいません。そうして、平成20年からようやく“私が育ててきた室戸の地質”が日の目を見たのです。だから、今回の落書き事件は室戸市民だけでなく、私にとっても悔しい出来事に違いありません。「誰だ!こそこそと夜目を盗んで書きやがって。出てこい!」と思っている。

 言わばこの落書き犯は、私に「議員としての職責を果たそうと努力しない元市職員の市会議員は、報酬の金が欲しいだけの、天下りのようなものだ」と記事を書かれて腹を立て、当電子情報誌に暗闇からコメントを投げつけてきたどこかの市会議員とやっていることは一緒だ。

 そこで、記事の続きです。

≪そこで提案したい。この落書きをあえて残し、自然や環境を考える“反面教材”に出来ないか。ジオパークの理念は、貴重な地質や生態系の保護と、それらを活用した地域振興の両立にある。規制を強めれば、見て、触れて、学ぶ、というジオ本来の教材価値が薄れる。自然保護の意識を喚起する仕掛けとして「落書き岩」に「語ってもらう」のも手ではないか。「負の遺産」を警告と教訓に替えていく“上書き”大作を考えたい。≫

 こう、結んでいる。

 失礼ながら、「若いなー」と思いました。

 「落書き岩」と命名してしまったこと。なぜ被害を受けた岩に名前をつけてはいけないのかというと、それを書いた犯人を喜ばせてしまうからだ。新聞を見て、「やったー、オレが書いた作品に名前が付いたぞ!」と、仲間とともに喜び、悪くするとその犯人の友達らも「おれもやってみようか。また新聞で紹介してくれるかもしれないから」と落書きを誘発することが予感できる。だから、名前などつけずに、ただ単に「落書きされた岩」とすべきだった。

 そして、「この落書きをあえて残し」と記者は言います。どうも若いと、物事のなんたるかが解っていないようだ。

 なぜ、これまで高知県内、多いのは断然、高知市だが、その高知市のトイレや空き店舗のシャッターなどにこんなストリート・アートにもならない落書きを書かれて行政関係者が苦心して落とすのか、高知新聞の記者氏は考えたことがあるのか。そこからまず考えてみることだ。落書きを書かれて落とすのは、町の景観を害することや行き交う人たちが嫌な気分に為るから落としているぐらいは理解できるのではないか。それが解っていれば、「そこで提案したい。この落書きをあえて残してはどうか」なんて記事、書けないはず。だから、書いたということは、この要点を理解していないということになる。

 それと、「規制を強めれば、見て、触れて、学ぶ、というジオ本来の教材価値が薄れる」とかいうが、では、「環境保全という規制をすれば室戸市における地質の価値が薄れる」ということなのか? 「規制を強めればジオ本来の教材価値が薄れるから、落書きぐらいしてもいいように、規制を緩めろ」なんてことを世界のユネスコが許すと思っておられるのか?

 失礼ながら、如何にも愚かな提案です。

 又、「“落書き岩”を負の遺産として位置づけ(観光客に向けて)“語ってもらい”、それを警告と教訓に替えていくのも手ではないか」とかいうが、こんなものは観光客が書くようなものではなくて確信犯の若い犯罪者が日頃目立てないから注目を集めようと考えて書くもの。観光客に向かって「こんなものを書いたらいかんぞ」と警告や教訓を与えてどうするの? どうも物事のなんたるかが解っていないようです。

 とにもかくにも、書いた奴をしょっ引いて落とさせることに尽きる。又は、行政がお金を使って落とした場合は、その犯人にその代金の全額を支払わせ、もしその若者にお金がなければ、親に払わせること。それでおしまい。

 言っておきたいが、犯人を擁護するような記事を書いてはならない。選挙で当選して一週間後に公職選挙法違反となる金を配って回った地方政治家の夫婦も、室戸岬の岩場に英文字を書いた犯人も同じだ。犯罪者をみんなで庇ってはならないのです。罪には罰を与えること。私のようにいつも厳しく対処して、重い罰を与えることが大事だ。そうしなければいつまでも犯罪はなくならないし、決して町も良くならない。

 この落書きは残すべきではない。高知新聞の記者氏が何と言おうと、何としてでもあの落書きは落としてしまうことだ。

 私が平成3年からこれまで、大金を掛けて室戸市の観光振興策として呼びかけてきた「青空地質博物館」をあんな下品な物を残してけがされたくはない。何としても、落としてほしい。そしてまた元のふつうの岩場に戻してほしい。それも環境保全への重要な取り組みとなる。 

 
 次に、もう一つの、高知新聞自体の記事が激減して通販広告などのページが増加し、新聞としての品格が急落していることなどについて。

 これは経営上の問題だから一人の読者が言ってもムダなことでしょうが、高知新聞の首脳陣は参考までにお聞きいただきたい。「こんなふうにわが社の新聞を見ている県民もいるんだ」とお見知りおき下さい。

 新聞に不満な点は何点かある。

 まず一つは、これは何年も前からですが、「記事の活字が大きくなり、読みやすくなりました」と、何ページにもわたり活字が大きくなったこと。1ページ目から6ページ目ぐらいまでは大きくなった。その後ろのスポーツ欄は元々の大きさの活字で、この活字サイズは以前と同じで不満はない。しかし、そのあとの文芸欄や健康爛などはまた大きな活字になった。

 このように、今までの活字の大きさでよかったのに「読者のため」と言いながら新聞社のニュースソースの都合で活字が大きくなったことを考えるに、その経営的効果として、共同通信などからの配信記事が少なくでき、自社の記者が書く記事も当然少なくて済む。配信記事も一件いくらで料金を払っているだろうから、それに支払う料金は安くてすむ。又、自社の記者の記事も少なくできることから、記者も人員的に少なくでき、会社の人件費が安くすむ。・・と、この活字に関しては「経費削減」のための一策。そう解釈している。

 二つ目に、ここ数か月前から通信販売会社の一面広告がデカデカと毎日3ページから4ページ、全体で約32ページ前後の新聞の中に突如として掲載され始めたのには、驚いている。これまでにも自動車大手メーカーなどの一面広告や社告があっても全く違和感がなかったが、あの大きな活字をページ全体に暴れさせた通販の広告には毎日、毎日、新聞を開くたびにうんざりする。そうして、それを見るたびに「高知新聞も通販会社に頼らなくてはならなくなったとは、広告料収入が減少して経営状態が悪化し、よっぽど困っているんだな」と思う。

 ただ、読者としては必要以上の広告を買っているわけではないので、通販会社の宣伝はBSテレビを席巻していて見あきており、「ブルータス、お前もか」ではないが、「高知新聞さん、お前もか」の想いがある。こんな広告でも掲載しないと地元新聞社が倒産してしまうとなると、これを「やめろ」とは立場上、言えないが、「その3ページ、4ページに記事が掲載されていたら・・・」と考えると、みみっちい話かもしれないが、その通販広告に毎月の新聞代3000円のうちの1割以上を払っていると思うと腹立たしい気もする。

そこで、他の中央紙もチェックしてみました。昨日の日経新聞は一面広告が6ページ、朝日と読売が4、5ページだった。これを見て思いました、「国民が新聞を取らずにネットなどでニュースを見るという影響を受け、どこの新聞社の経営も苦しいんだな」と。だから、私がいうこの「最近、品の無い一面広告が多くなった」については、いたしかたないとも思っている。

 この件はそれとして、三点目に思うのは、かつては別に制作し発行していた『こども高知新聞』を約34ページ前後の『高知新聞』の中に折り込み、それも含めて『高知新聞』として販売していることについて。このように『高知新聞』の中に『こども高知新聞』を入れて販売し始めたのはいつごろか覚えていないが、そうなった時から疑わしく思っている。

 なぜこうし始めたのかは大体、想像できる。だからこれもあくまでも推察だが、『こども高知新聞』はこれまで長く『高知新聞』とは別建てで販売されていました。それが皆さんよくご存じのように、例えば室戸市の人口は毎年500人前後、5年目の国政調査のたびに2000人から2500人が減少していて、高知県にしても2010年10月に行われた国政調査では2005年の国勢調査に比べて4.0%、31836人が減少して、県人口は764456人となった。これは、1年間に高知県の人口は6367人減少していることになる。これを単純計算で世帯数を平均3人家族と考え割ってみると、2122世帯が消失している勘定になる。

 つまり、その全部の世帯が新聞を取っていて高知県内の新聞占有率70%を当てはめると、2122部×0.7=1485部となり、販売している高知新聞のうち、毎年、約1500部減少していることになる。これを金額に換算すると、朝刊と夕刊の二つを取っている世帯もあろうが単純に全て朝刊だけ取り月3000円の購読料と仮定し、これを12カ月
とると、36000円です。で、36000円×1500世帯とすると、高知新聞社は毎年5400万円の減収になるということだ。これを1000世帯としても36000円×1000世帯=年間3600万円の減収になる。これが10年間なら、それぞれ5億4000万円の減収となり、3億6000万円の減収となる。(これはあくまでも単純計算だが)このようにすごい金額になる。

 だから、このように『高知新聞』の販売数が急激に減っていることから、かつて別売りで販売していた『こども高知新聞』も世帯の減少に伴い購読者数が減少し、結局、別建てで販売できなくなり、かといってこれを廃刊にしてしまえば購読者から「残して」と苦情が来ると考え、“親新聞”ともいえる『高知新聞』の中に差し込まなくてはならなくなった。

 これが実態だろう(とみる)。

 しかしです。しかし、『高知新聞』を毎日購読している読者はみんな『こども高知新聞』まで購読するなんてことは一言も承諾をしておらず、それがいつの間にか『高知新聞』に毎日1ページから4ページ入り継続されていて、その見ることもないページの代金まで払わされていることには、多分ですが、私だけではなくて読者の中には不満に思っている方もいるのではないか。(勿論、それも含めて理解し容認されている県民もいようが)

 読者は、新聞だから広告があっても何ら不満なんかはない。でも、これは私が変わり者だから思うのであって他の常識人は思わないかもしれませんが、ページをめくるたびにあまりにも“人騒がせ”な通販広告がでかでかと載っている新聞は見たくないし、購読するなんてことを言ってもいない子供向けの『こども高知新聞』もいらないと思っている。

 その理由は、結婚をした昭和42年からずっと『高知新聞』の基本形を見て45年間欠かさずに購読してきた新聞である。その基本形が会社の経営が悪いからと会社の都合だけでどんどん崩れていって、記事が少なくなり品の無い売らんかなの表現がきつい通販広告ばかりが目立つようになるのは、なんとも我慢できなくなった。

 45年前に私が購入しようと決めた『高知新聞』は、スポーツ欄ぐらいの元の小さな活字で、3ページも4ページもの通販広告など無い、存続できなくなったという自社の都合を読者におっかぶせたともいえる『こども高知新聞』のページもない新聞だった。その基本形が揺らいでくると、昭和61年の地域づくり活動を始めたころにいた室戸支局長の依光記者以降、平成16年の横田記者が本社に戻るまで長くお世話になってきた高知新聞ですし、県内ニュースを拾えないのも困るなとの想いもあるが、今、同紙の購読をやめて他の中央紙にしようかと揺れ動いている(私一人が購読しなくても動じる高知新聞ではなかろうから)。

 何度も言うが、以上のことは新聞社の経営に関わることで、存続が難しくなれば“背に腹は代えられない”で私たち読者には如何ともし難いことではあるが、『高知新聞』は県内シェア70%の新聞であり、新聞にも品格というものがなくてはならないと思いますので、ぜひともその点だけは“崩壊”させないよう、苦心していただきたいと思っている。

 唯、器物損壊事件で被害を受けた物を「落書き岩」と命名して写真まで掲載してしまい、更に「保存して」という記事などはとんでもない話。記者は環境保全についてもっと勉強し直した方がいい。

 できれば一度、拙宅へおいで下さい。小生、室戸では堅物のように思われていますが、妻に聞いていただきたいが、本当はサービス精神旺盛な、ユーモアにあふれた、ほんとうに面白い男。唯、不真面目な人間と法律を守らず改めもしない悪い政治家にだけは人の何倍も厳しいですよ。

 議会で一番議員らしく振る舞ってきたことから市長の一味の悪意ある運動によって落選させられたため、今は売れない画家として毎日、工房で絵ばかり描いていますが、自分のお金を使って「室戸の地質を観光に活かせ」と自身のお金を投資して広く長期間にわたって広報してきたのは、高知県内の誰でもなく、わたくし。

 拙著、地質写真集『青空地質博物館』の巻頭に提言として表明しているように、地質観光で飯を食うということは地質学だけではその目的を達成できないことは明らか。室戸市で地質を観光に活かそうという活動が始まった経緯は地域雑誌『あおぞら』で大特集を組み提言し続けてきた私しか知りませんので、ジオパークについての在り方や見方、考え方についてなどをお教えさせていただきます。

 来て損にはなりませんので、どうぞおいで下さい。


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議長ポスト

2012-04-17 | 政治家のあり方
 今日は、地方議会の「長」、「議長」についてみんなで考えてみましょう。

 議会においては、当選回数によって、「次の議長はオレの番だ」という発想が支配的である。でも思うが、なぜみんな議員になった時から議長や委員長になりたくなるんでしょうか。報酬が6万円ほど増えるからか、名誉に思うからなのか。議場の一番高い所に座れるからか。

 その理由の大半は、議員報酬が増えるから。

 例えば、これまで室戸市議会においての議長ポストは、過去に例外もあったが、大抵、三期目以上の議員がまるで順番があるように順送りで就任してきた。でも、それは本当に正しい議長の決め方なのだろうか。

 これまで議長になった議員を観察してみると、一般質問に出るのは四年間で多くて5、6回程度、少ない議員では2、3回ぐらいしか登壇しない不熱心な議員なのに議長になった者もいる。

 だから、そんな議員は議会前に調査活動や資料収集をして行政課題について分析したことも無い。だから、良い政策を提言する能力も無いから、深い行政調査のいらない、「現状をこうしてはどうか」の質問ばかりになる。そのくせ、任期を重ねてきているから先輩風を吹かせ、威張る。

 でも、任期を重ねているのに、左程、他の議員間の連携に尽くしたことも無い。ただ〝議員慣れ〟しているだけで議会に参加している。そんな議員が本当に議長に相応しいのだろうか、品格も議員としての調査活動などもしないし政治家としての度量も無い議員が議長に相応しいと言えるだろうか、などと8年間ずっと思っていた。

 一般質問も、一期4年間に数回の実の無い質問でお茶を濁し、職責の調査活動等をしないから、議員としての行政チェックの機能も発揮できないまま、行政組織に内在する改善すべき点をを改善しようとせず、議会で議事運営を弄ぶ数名の議員の醜態に対し疑問を持ち改めさせるように努めるわけでもなく、年長議員としてそれらについて対策を講じる苦心をするでもなしに組織の健全化に逆行してきた態度などを考えると、どの議長もとても議長としての立派な見識を持ち合わせていると思えなかった。

 「議会改革を行うべきです」と進言すると、「議会改革」とは何のことを言っているのか理解できず、黙り込んでしまう。又、「議会改革」されたら執行部との持ちつ持たれつの関係が解体されることをよく解っているから、改革派の議員が議運委などに議会改革の要望書を出すとそれを妨害し廃棄してやめさせるよう動く、改革・改善が嫌いなそんな悪質な議長もいた。

 総合して思うが、日頃、議員としての基本について勉強しない議員や議員としてなすべき活動をしない議員、組織改革の意思を持たず市長とのこれまでの利害を温存しようとする議員は、議長になってはならない。

 その程度の認識しかない議員が議長になっては、他に議会改革の意思を持つ議員が議会に何人いても、議会全体が良い方向に動くものではない。

 とかく、市の行政業務に関心がない議員(住民は「まさか、そんな議員はいないだろう」と思っているだろうが、これが、いないようでいるんですね)であっても、長い間、議員をやっているからと他の議員から議長に押され(いや、大半は自分から「頼む」「頼む」と押してもらい)がちだが、それは決して議会や行政にとって効果的なことではない。

 本来、議長を決めるのは、それまで議員として立派な議員活動を続けてきた議員を推してこそである。それが当たり前だ。

 それを尺度にすべきだと市民はみんな知っているし、小学生でも生徒会長を決めるときには勉強の成績も良くてみんなから「あいつは何をやっても抜きんでている」と信頼されている生徒を選ぶものだとよく解かって選んでいる。それを、大人社会の町の議長を選ぶ時は、議員たちがそんなことは関係ないとばかりに決めている、恥も外聞もなく。

 さて、そのように議会の議長を選ぶ時にはどう考えたらいいのかを議員らは無視して決めてしまっているので、ここで議長を選ぶ時の尺度を挙げてみる。是非とも守ってほしい。

一、新人議員の時から、休まずに調査・取材活動を行い、毎議会質問に立ったか、質疑にも立ったのか。それに関する熱意はあったか。

二、議員の職責である行政事業を厳しくチェック(点検)して、それを基にして質問内容を構成して執行機関が行おうとしている不正を追及し、改善を求め、それは改革改善されたか。

三、議会のあり方に絶えず疑問を持ち、その改革の先頭に立って取り組み、議会改革に貢献したか。議会はその議員の活動によって改革されたか。

四、議員間の連携に絶えず気を配り、議会と議会の間の二ヶ月間において議員同士の自由討議の場を持とうとしたか。 

五、過去の任期中に首長とつながり、深い利害関係を持って悪しき口利きや働きかけを行ってこなかったか。


 少なくてもこの五点を実践したか、してこなかったかが、議長に値する議員かどうかの評価基準だろう。

 議員になれば、せめて議会改革の知識や必要性ぐらいは理解できるようになるまで「議員は何をすべきか」をよく学び、議長になったら自らが先頭に立ち、進んで議会改革をやろうとする。そのぐらいの認識を持っている人物が議長になるべきで、そんな意識を持たない議員は決して議長なんぞの組織の長になってはならない。

 とにかく議長には、議員として有能で優秀な人物が就くべきだ。

 また、それを市民も望んでいる(としたものだが、室戸ではそう思っていない節もある)。

 だから、議員の任期なんかは、何の尺度にもならない。
 新人議員でも高い能力がある議員なら議長にすべきだし、5期20年、10期40年議員をしてきた長老の地方議員であっても裏でこそこそと首長とつるんで悪しきことばかりしてきた議員は議長にふさわしくなく、そういう者は絶対に議長にしてはならない。
 それは、誰にでもわかることである。


 例外として、いくら当選回数が多い議員であっても、見識のある議員は「自分は議長の器ではないので」と周囲からの推薦を辞退することがある。そんな、身の程をわきまえ品格のある立派な人物がこの地方にもいてほしいし、そういう議員こそ議長にふさわしいと言え、議長になって頂くことだ。
 地方自治の発展のためにも、私は心からそう願っている。


 最後にもう一つ書き加えておきたいことがある。

「正義を駆逐し、悪を温存する。そういう政治を行う町に明日はない」。


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地方議員研修講座(10) 日頃の心掛け

2012-04-16 | 政治家のあり方
 地方自治体と地方議会は二元代表制の関係にあるが、この地方議会を単に「議会」と呼ぶからには、議会は首長等執行機関と「議論をする会議」の場であるべきだし、その議会を構成している者たちを「議員」と呼ぶからには「議論をする委員」であるべきです。しかし、理路整然とした論議を交わす能力のない市長と課長、そして議員が如何に多いことか。

 住民を代表して首長に質問し、その自治体の政策のあるべき姿を討論することが議員の最も重要な役割である。それができないし、執行部はただただ逃げる。残念ながら、それが地方議会の現状である。

 議員についてだけ言っても、議会で議論するというその職務を怠り職務責任を回避する議員は、議員とはいえない。

 では、これについてはこれまでも何度も言ってきたことだが、地方議員は本当に報酬に値するだけの仕事をしているか、についてです。

 室戸市議で例えると、毎月27万円(昨年6月に議員年金制度が廃止されて共済掛金が無くなり、手取りはそれまでの約21万5千円から約26万円に増加した)分の仕事をしているのか。

 もし、年四回開かれる本議会に出てきて、その議会と議会の間の期間に、左程、室戸市を良くするための勉強をしたり、市内各地を取材して市民の声を聴取したり、県庁や他の市町村に調査研修に行ったり、ネット検索で全国の先進自治体の調査を行ったりなどせず、毎議会質問にも立たず質疑にも立たず真っ当な議員活動をしていなかったら、18年の市長選で小松候補が室戸市岩戸地区で街頭演説しようとした時に一人のおじさんが前に出てきて任期の4年間全く仕事をしなかった議員数名に向けて浴びせ掛けた叱責、
「おんしら市会議員は報酬を半分にせえ」の怒りの声は、事実を踏まえた妥当な批判だったと言える。

 その時、私は内心「そうよ、もっと言ってやれ!」と思ったものです。

 そんな仕事をしない、いわゆる“腰掛け”の気持で議員になった人に仕事をさせるにはどうすればいいのかです。怠け者を働かせるぐらい難しいものはないが、一応、考えてみた。

 市議時代の私は、「議員としての認識を持っていない議員がいたら、認識を持ってもらえるような制度を作ればいいのではないか」。そう、考えた。

 室戸市だけではなく、どこの市町村議会も議会改革を行うこと。この方法でしか議会運営は変わらない。これを実行して、議員として為すべき仕事や規制を増やせば、否が応でも議員が市民から付託されている「説明責任」は果たせるようになるだろうし、議会内も活性化する。

 この「説明責任」には、議員全員が議会が終わるたびに市内各地にわかれて議会報告会を開催することであったり、議員全員がそれぞれ独自に議会新聞を作成して自分なりの主張を加えながら市政情報を広報すること、また街頭に立ち市民に向かって市政報告をする活動など、色んな方法があろう。これを行うことだ。しかし、市議選の時に街頭演説すらできないのだから、これらすべてについてやる勇気など無いとみている。 

 では、議員としての認識を持つためにはどうすればいいのか。

 私が、新人議員になった19年から4年間の任期中に「行政運営はどのようにして行うのか」、そして、「議員は議会でどのように取り組めばいいのか」を思いまどった時に学んだのは、毎議会、自分の所属する委員会以外の議案には全て質疑に立つ良い手本となった議員がいたこと。この先輩議員がいなければ、特に質疑の方法は二期目も解からないままだったと思っている。

 地方議員が議会運営について学ぼうとすれば、いくらでも学ぶ材料は議会の中に捨てられている。だが、それも学ぶべき先輩議員が議会にいてこそで、もしそういう議員がいなければ地方議会の在り方を書いた参考書を買ってきて学ぶしかない。しかし、議会に学ぶべき先輩議員がいないという地方議会も情けないものである。

 要は、議会に出てきてボケーッとし、グーグーと熟睡などしていては、何期議員をやっても何も進歩は無いということだ。中には、二日酔いとかで議会中に議場からこそこそと抜け出して議員控室で寝ていた不届き者もいた。真面目一本で市民のために働いてきた改革派議員が落選し、そんな男が選挙で当選していまも議員として市民から報酬を貰っているのである。これが地方議会の現状だ。町が、そして村が良くなるわけがない。

 意思の無い者に明日はないし、意思のない議会にも明日はない。

 議員にも仕事に対するそれぞれの思いはあるだろうが、求めるのは、2期目以上の議員には、これまでの議会が如何に旧態依然とした議会が続いてきたかの認識を持ち、それに対する改革の必要性を悟り、改革に働く行動力を持つことを求める。そして、新人議員は議員の中でも一番、市民の新鮮な感覚を持っていると思うが、これまで議会運営がどのように行われたのかを知らないだろうし、議員としてどう働いたらいいのかの知識も薄いだろうから、行政知識を得るために自らが個人的な努力をすることに尽きる。

 そのそれぞれの過程において、他の議員が行った“良い質問”や“良い質疑”から議会のあり方を学ぶこと、その反対に他の議員が行った“下手な質問”や“下手な質疑”から議会のあり方を学ぶこと、又、議長による悪意ある発言の打ち切りなどから「議会はこれでいいのか」と議会の在り方を考え学ぶことが重要。そう努めれば、自分の地方政治家としての資質を高めてくれることになる。

 そして、議会と議会の間の二ヶ月間に他の議員と議員としての議論を交わし、議員としての理論を確立する努力を重ねることも大事だ。

 議員の能力強化について、議員が自らの手足を強化するためには、情報調査の活動を充実させることに尽きる。執行機関をチェックして批判する職責を担っている議員が、執行機関から入手するだけの不十分な情報資料では、監視できないことは言うまでも無い。それに甘んじて「執行部が満足な資料を出さない」と言っているだけでは、情けない。

 現在、議員に求められているのは、市内を歩いて見て回り、市民や関係者から意見や要望を聞き取り、それを本会議や委員会で市の政策に反映させていくことであり、執行部の情報を数多く入手することだけでは議員が活動していることが住民から見えてこない。

 繰り返しになるが、議員がなすべきことは、市政の現状、問題点、対応策を行政部門別に集めた情報等をまとめ、それを学識経験者やその事業に関係する専門家等にも見て頂いて助言を受け、それを参考にして質問、質疑、政策の提言を行うなら、必ず自らの議員の能力も徐々にランクアップしてゆく。そして、自らの足で歩き、底辺の情報から政策を構築する発想を基本にすべきです。住民の声は現場からの告発、執行機関の説明や現状認識と異なる点がいくつも見つかり、それを基にした提言には、真実味がある。

 その提言を行う一般質問を毎議会行うという心構えをいつも持っていれば、一つの議会が終わったら次の議会までの約二ヶ月間、地道な地域内取材を怠ることは無くなる。

 そう考えず、当選した時の選挙で市民と約束した職責を忘れてしまったかのような、任期四年の間にわずか1回か2回しか一般質問に立たないなんて考えでは、議員としての認識を持っているとはいえず、議員の雇用主である住民からの「あいつら市会議員は仕事もまともにしやせんのに、高い報酬を貰いながら4年間、遊んでいる」の批判は当然だ。彼らは甘んじてその批判を受けなければならない。

 先に、私の「元行政職員であっても毎議会、質問に立ち質疑に立つ議員は除き、4年の任期中ずっと議席で座っているだけの議員は天下りみたいなものだ」と書いた記事を見て元市職員の市会議員から「行政職員が議員になっても、それは民意だ」というコメントをもらった。だが、私から「民意とは、報酬を与えている4年間の任期中、休みなく市議会議員としての職責を果たしてこその民意だ。住民は『4年間議席に座っていて下さい』という民意は与えていない」と叱責を受け、あまりの正論に反論することができなくなり、どこかに隠れて消えてしまったことがある。

 報酬を毎月貰いながら仕事をしない彼らに苛立ち一人の室戸市民が浴びせ掛けた叱責、
「おんしら市会議員は報酬を半分にせえ」の怒りの声
を地方議員は忘れてはならない。


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「室戸岬(歯車岩)」の制作も完成真近

2012-04-13 | 私の絵画制作活動
 30歳代後半まで描き続けていた油絵作品の制作でしたが独立して商売を始めるため36歳できっぱりとそれをやめ、それから30年間は、ペン画は描いても絵の具を使う絵は描いていませんでした。そんな昨年4月、市民の皆さんが長年町づくり活動に頑張ってきた私に少しはゆとりの時間を上げようと努めて下さったことから、同年6月からはアクリル画を描き始めました。

 そして、昨年7月には1作目が完成、その後は順次、一月に1作の計算で作品は仕上がり、今年3月30日から下描きを始めた9作目に当たる「室戸岬(歯車岩)」は完成まであと少しになります。

 テーマは、室戸半島の海岸でみられる室戸ジオパークの地質を一冊にまとめた自著『青空地質博物館』の中でも紹介している室戸岬の岩、「モダンタイムス」です。

  

 あのチャップリンの映画「モダンタイムス」の中でチャップリンが時計台に上りその歯車に乗ったシーンがあって、この岩を見てそれを思い出し、名付けたもの。但し、作品名には「モダンタイムス」では展覧会に出品した時に鑑賞者には意味が解らないだろうから、単に「歯車岩」とした。

  

 そして、現在の作品の仕上がり状況です。

  

 曰く、先の高知県展入選作を見た県展無監査作家の先生から、小生の絵は「独特の描き方をしている」とお話をお聞きした。「独特」とは、きっと全部の作品が線描を主として仕上げていく点にあるんだろうなと推測した。その指摘は批判的には聞こえなかったが、戦後の印象派の絵のような線のない、色を置いていく描き方ではないことは確かで、そういう絵を描いている方からみればやはり違和感があるんだろうなと思ったものでした。

 唯、言えることは、昔から絵を描いた時代に違和感を持たれた作品のすべてが評価できないとは言えないのも確か。技術や経験も浅い私なんぞと比べては大変失礼にあたるが、今評価が高まっている江戸中期の京都画壇で活躍した絵師・伊藤若冲しかり、ゴッホしかり、生前に評価が低かった画家で死後何十年もたって評価が高まった画家ははいて捨てるほどいる。 

 だから、絵は自分の描きたいように描き続けることが一番大事だと思っている。

 ●自分の個性を出し個性的な表現で描くこと。●しっかりと細部まで描き込むこと。●「こう描きたいんだ」という強い気持ちを持って画面に叩きつけること。

 こんな市会議員をやっていた時と同じ真面目な気持ちで、コツコツと絵の具を塗り重ね、線で画面を整理した後、また塗り重ね、また線で整理し、塗り重ねて、半透明なアクリル画のグラジェーション効果を上げるように苦心しながら描いている。

 あと数日して「歯車岩」が仕上がれば、また室戸岬の岩を、今度は室戸岬灯台の方向を向いて10作目を描き始める予定。

 小生の描く絵はすべて100号ですが、1作100万円として9作目が終わるから、これで合計900万円か。いや、昨年11月に描いた七福神の絵は販売価格500万円いうことにしてあるから、1300万円か。(笑)イッツ・ア・冗談、マイケル・ジョーダン。

 因みに、その500万円の「七福神乗合宝船」の絵も最後に紹介させて下さい。

  


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