青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

北川村星神社の「お弓まつり」に合わせ、夫婦で初詣

2019-01-09 | プライベート
 北川村は、幕末の歴史を揺り動かした志士・中岡慎太郎が生まれ育った村である。

 京都の木村幸比古「霊山歴史館」副館長は、その著作『知識ゼロからの幕末維新入門』の中で、こう解説しています。

 ≪慎太郎は龍馬と違い、武力によって幕府を倒すことを狙っていたが、晩年は龍馬の説得を受けて考え方を和らげていた。
 どちらかといえば死後に有名になった龍馬と違い、中岡慎太郎は幕末当時から広く名を知られていたため、薩長同盟や大政奉還の一番の功労者は慎太郎であったという見方もある。≫


 ということは、江戸時代の末期、つまり幕末のころに政治関係者の評価が高かったのは土佐国北川村で生まれ育った中岡慎太郎で、それと比較すると高知生まれの坂本龍馬の評価は低く、龍馬の評価が上がってきたのは明治以降に創作が入った書物が発行されてからだと解ります。
 
 又、木村幸比古氏が「見方もある」と言葉を濁したのは、「薩長同盟や大政奉還の一番の功労者は慎太郎であった」と本当のことを書き切れば熱烈な龍馬ファンから批判を浴びることが分かっているからであるのは、明々白々。そこまで龍馬の歴史は創作され、それが固定してしまっているということになります。


 幕末に全国から集まった藩士が京都を中心に活動していた中で、明治になって土陽新聞(高知新聞の前身)の記者・ 坂崎 紫瀾が明治16年に書いた『汗血千里駒』(かんけつせんりがこま)や昭和の司馬遼太郎が書いた『竜馬がゆく』など創作を加えた書きものによって徐々に実像以上に高い能力と成果を与えられ有名になってきたのが坂本龍馬であるが、幕末のころ既にこの坂本龍馬よりも京都や長州などで名高かったのが中岡慎太郎だったことはその明治になってからも現在でも、歴史に詳しい人なら良く分かっていた。

 世渡りがうまかった龍馬に比べ、慎太郎はただ気真面目でその活躍ぶりに物語性が薄かったがためか、現在も先のNHKの大河ドラマ『西郷どん』の中でも登場したのは龍馬の使いっぱしりとして鹿児島の自宅に手紙を届ける程度など、ドラマなどでは龍馬の“刺身のつま”のような扱いを受けています。

 なぜもっと中岡慎太郎が物語にならないのかと、地域雑誌『あおぞら』を発行していた頃から、それが何ともくやしく思ってきました。

 その現在でも続いている、言わば“対象者の能力判断を誤った差別”の理由は、龍馬には脚色しやすいエピソードがあったからのようです。

 「日本で初めての新婚旅行したのは龍馬」の作り話には笑うしかない。 これは誰が考えても、「ウソで、放言」。そんな事実ではないことをさも事実であるかのように広範囲に語るのは、自分や自分が務める報道企業を売り込むための宣伝文句だと思っていただきたい。

 考えても見てください。龍馬が田舎の土佐の城下町から出ていったと同じ江戸期以前からも、商人(あきんど)の子息や武士の子息が結婚した時などには親から「結婚した記念にお前たちは二人してお伊勢さん参りをしてきなさい」とお金を渡され、若い夫婦が全国の大きな神社や仏閣に向けて旅をし、「無事添い遂げられますように」と願掛けに行ったことぐらい簡単に想像がつこうというものだ。

 この程度のことは誰だって簡単に思いつくと思うが、新聞やテレビや週刊誌の仕事をしている人の他、いろんな歴史解説の仕事をしている人たちはそういう当たり前の常識をどうも理解していないようだ。

 そういう報道機関の人たちや歴史がらみの仕事をする人たちはどこで学んできたのか、「日本で初めて新婚旅行をした人は坂本龍馬」だなんてことを言って、坂本龍馬は人並み外れてすごいことをした“前人未到の働きをした幕末の志士”として情報発信をしていますが、志士としての働きにしてもその他のことにしても歴史記録にあまりにも付け足しが多すぎて、逆に彼の宣伝をしなければならない土佐人である私までもが、「坂本龍馬は信用ならない幕末の志士」となってしまいました。龍馬が悪いんじゃないのに、だ。

 現在は大の大人までが「龍馬が日本初の新婚旅行をした」なんて信じていますが、はっきり言って、それは大きなウソです。そういう事実はない。

 その龍馬が結婚した時から更に何十年も前、何百年も前に若い二人が結婚したことを親など周辺の者たちが愛でて、「結婚したお祝いにあの神社や温泉に夫婦で行ってきなさい」と二人の背中を押した数は計り知れなくあり、これが歴史に関する事実情報です。

 ま、言わば、龍馬の新婚旅行は時代をさかのぼって最初から勘定すると、私の計算では、658,944回目か、687,783回目。これじゃニュースにもなりませんが、決して日本初の新婚旅行ではありませんので、あしからず。(私は室戸市で政治家をやってきましたが、何よりもウソつきが大嫌いで、この話も「ウソに対してはウソで対抗する」ってことでお許しを)

 創作ばかりで史実は半分ぐらいしかなかったあの大河ドラマ『龍馬伝』を見てもお分かりのように、坂本龍馬についての史実には多くの創作部分を加えて小説やテレビドラマを書くことができたということです。

 一方、気まじめに動き回り歴史的評価も高い中岡慎太郎を明治以降、たくさんの作家がその行動を小説にしようと試みたようだが、九州の霧島温泉に新婚旅行に行かなかったこともあってか(笑)、その足跡を想像力たくましく書こうとしてもなかなか物語にならない。

 だから、北川村の住民の皆さんは、その慎太郎が取り残されている感が強いため、それを憂えてこれまでも中岡慎太郎を売り出そうとたくさんの活動を行ってきた。何とか慎太郎を世に出したいと、たくさんの村民がそれに取り組んできました。

 もちろん、私が発行していた地域雑誌『あおぞら』も情報を発信して、その一役を買った。村民は慎太郎の映画作りもやった。しかし残念ながら、それも創作半分の『龍馬伝』と違って史実をなぞるだけでは、全国的には注目もされませんでした。

 中岡慎太郎も、幕末の映画では“全国区で立候補”しているからその名は知られてはいますが、いまだに全国区で“当選”出来ないでいます。

 幕末期から成果も多くて有名だった慎太郎が、その功績とは裏腹に、昭和以降は龍馬の“刺身のつま”のような扱いを受けている。

 その一例がこれ。

 京都の「京都霊山護国神社」の龍馬と慎太郎の墓の前に建立されている二人の銅像について。あれはもともと1934年に建立されたが、戦時中の金属供出により撤去され、1962年に高知県人会により再建されと聞く。また一説には龍馬ファンのバス会社の社長が設置したとも聞くが、その二人の銅像を見てもお分かりだろう。

 明治からの『竜馬がゆく』の本などの龍馬に関する創作小説に心を打たれて建立したのが、あの龍馬が立ち、慎太郎はその左側にまるで龍馬の下僕のように座らされ、付き従っている姿なのである。同じ土佐人で、ともに幕末を戦って活躍したとされる二人なのに、バス会社の社長は“慎太郎を蔑む龍馬中心”のとんでもない理不尽な物を作ってしまったことから、土佐の中岡慎太郎の故郷である北川村の人たちは今も、あの京都の墓地に建てられている銅像のことを快く思っていません。「事実無根だ!」と。


 「龍馬を引き立たせるために、慎太郎を座らせた男」。歴史も知らないままに、その史実を捻じ曲げ、困惑する中岡慎太郎の関係者を巻き込んで、自分の利己的な思いだけで勝手気ままに新しい史実を創作した人物。つまり、その二人の銅像が京都にある間は、そのバス会社の社長の「罪」は消えないということになる。

 室戸市の小松前市長の悪事を思い出します。地方自治法違反の事業案を議会に提出し、議員の大半はそれに賛成して通してしまった事件があった。又、小松市長はそれ以降の議会でもその違法の事実を認めず、その事実をねじ曲げ、困惑する市職員を巻き込みながら、自分の利己的な考えだけで勝手気ままに市政を推し進めてきたことは、事実。だから、被害者となっている住民の前市長への批判の声は今も根強いものがある。

 ま、そういうことで、幕末の活躍ぶりは龍馬よりも格段の差で慎太郎の方が勝るが、どうも芝居の脚本にならない。だから慎太郎を題材にしての物語ができない、・・・ということである。
 
 しかし、土佐の男の中では中岡慎太郎こそが、維新の立役者!

 以上、中岡慎太郎は私が地域雑誌を出版している時から取材などで慣れ親しんできた北川村の出身とあって、それゆえに慎太郎に肩入れしているという話が、今日のさわりです。


 中岡慎太郎は、天保四年(1838年)に土佐の国は安芸郡北川郷柏木村の大庄屋の息子として生まれ、勉学に励み、また村民のために奔走します。その後、文久二年(1862年)、二十四歳の時に村を出て志士として活躍を始めますが、それまでは総鎮守である木積(こつも)で行われる星神社のお弓祭りにも射手の一人として弓を引いたといいます。

 昨日、年末に退職してフリーとなった妻と二人でその「お弓まつり」に行って参りました。私は地域雑誌の出版を始めた40歳代に地域雑誌の取材を始めたころから何度も取材と見物に行ってるんですが、夫婦で参拝するのは初めてのことで、うれしい気分でした。

  

 土佐には五穀豊穣などを願い百手祭事を行っている神社は多いが、「土佐三大弓神事」といわれている祭りは、今日取材した北川村木積・星神社の「お弓祭り」と、香美市夜須町・西山八幡宮の百手祭、大豊町桃原・熊野十二所神社の百手祭の、三神事。

 中でも一番儀式らしく、祭事らしく、そして住民の盛り上がりやその人気で賑々しいのは、この北川村星神社のお弓祭り。

 まずは、星神社前の鳥居の前に鎮座する狛犬(左側に座る吽形の狛犬)と立派な門松の、ワン・ショットを。

      

 続いて、そのいかにも山村の鎮守の杜といった風情のある星神社で行われた百手祭の歴史について、紹介したい。

  

 安芸郡北川村木積の星神社は古来、北川郷五ヵ村の総鎮守で、それまでの「三社の妙見(権現)」が明治二年に星神社と改められた。

 古い記録には、「北川村高法寺山境の内、妙見三社之牛王(ごおう)祭祀三ヵ年に一度、百手謝礼、北川郷永山、西谷、木積、宗の上、五ヵ村之産土神子十二人、弓張箭(や)千八筋」(祭祀記)、「延喜十二年 弓を始める 役作」とある。だから、このお弓祭りは平安時代の延喜十二年(912年)に始まったというから、これまで1107年が経つ長い歴史ある行事ということになる。

 お祭りの中の行事を少し解説しますと、弓を引く十二人の射手は薬師如来の十二神を象徴し、弓を射るその姿は馬に乗って弓を射ている「騎射」の姿勢で、「小笠原流弓術」に則って行われています。

         

 又、昔は三地区の社寺がそれぞれ三年に一回、行っていたが、戦後、村の若者たちが減少してきたことから、現在では木積の星神社で二年に一回、正月八日に行われるだけである。

 祭りは早朝の神事から始まる。朝暗い内から奈半利川に裸で入り、身を清める。そうして身を清めた射手は、まだ静まり返った境内に入り、着替えの呪文を唱えながら浅黄色の裃姿に正装し、脇差を差す。

 そして、ツルカケの式が始まる。これは江戸時代の神仏混淆の信仰の名残りから、神官と僧侶が六張りずつの弓(合計十二張)を持ち、神前に進み、その一張り毎に弓弦を弾きながら、弓に神仏の降臨加護を願う儀式。つまり、「神仏よ、この世に姿を現して下さい」との儀式です。

 この後、9時頃だったか、神官と僧侶を先頭に射手らは列となり社殿を出て射場に向かい、儀式を行う。

 さあ、ここからがお弓祭りの見所、ハイライトです。

 六人ずつ二組に別れた十二人の射手が儀礼に従って一日中、弓を引き、矢を放つ。この後も儀礼的な決めごとがありますが、省略します。写真をご覧頂いて、その雰囲気をご堪能下さい。
 

 若衆は射場に立ち、威儀を正し、粛々と矢を番え、射る。

  

 射場は一瞬、静まり返り、またどっと沸く。

 上の「三度弓」の儀式の後は、「神頭の矢」の儀式、「雁股の矢」の儀式と続きます。「雁股の矢」からがまた面白い。「初的」を皮切りにして、延々と「千八筋」の矢を放ち続けるのである。
  
 見物人は射手の“一矢”に派手に一喜一憂する。

 的に当たれば、村人や村外から見物に来た観客がドッと沸く。ヤンヤ、ヤンヤの大喝采だ。

 そうして、的を射ると、祭事の世話人たちが射手の家族を射場に引っ張り出して、練って練られて、また練って、祝福するのです。その光景は昨日、写真に撮れませんでしたので、私がかつて出版していた地域雑誌『あおぞら』の第53号(1995年3月号)に掲載したページを参考にしていただきたい。(1995年1月8日のお弓祭り)

        

  

 (上は、4枚の写真を見開きに掲載)

 読者の皆さん、どうですか。少々手荒くてまるで喧嘩をしているようにも見えますが、お互いの家族を祝福し合っている光景ですので、念のため。

  

 上の写真は、この祭事の射手の家族や親戚筋が集まってここに座り、神社の傍にある食道で作った寿司等のごちそうをこの場に持ち込み、射手や世話人たちにごちそうをする、そういう場。(名称はちょっと忘れました)

 どうでしたか? 写真は少しでしたが、雰囲気だけでも感じていただけたでしょうか。

 土佐という国は漁師が多いためか何事においても口が汚くポンポンぽんぽんと物を言い、その見た目の荒っぽさで嫌になる県外の人はたくさんいます。でも、それほど恐れることはありません。思いきってその相手の胸の中に飛び込んでやれば、何も言えなくなってしまうのが常。それは所謂、田舎の人の“空威張り”だから、恐るるに足らず。

 北川村星神社のお弓祭りの「千八筋」は弓の風雅、男の美学。「練り」は、祝福の歴史、歓喜の美学。

 観客は週の中でのお祭りゆえ、観光客として見物に来られた方々は少なく、統一地方選の県議選に立候補する現職県議と参院選に立候補する現職議員が集まった人たちの中を挨拶して回る風景があるし、ご高齢のカメラマンとNHKや民放のカメラマンがいつものようにお集まりでした。

 そういう風景の中、“次いでのモチに粉はいらん”とばかりに、これから私と共にフリーに生きる妻のスナップ写真を、パチリと一枚。

    

 こうして、この鎮守の杜は終日、大いに賑わっていました。


電子情報誌「青空エクスプレス」のアクセス数は、1月9日のGooブログランキング(2851824ブログ)中、1211位でした。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 「町づくり」と「まちづくり... | トップ | アイデアマンと、そのアイデ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

プライベート」カテゴリの最新記事