青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

「吾亦紅」と重なる、母の思い出

2018-12-01 | プライベート
 (平成20年3月の記事)

 今日、3月20日は彼岸の中日。この世が「此岸(しがん)」で、あの世は「彼岸」。現世の苦しみを修行によって克服した悟りの境地を、向こう岸「彼岸」というそうです。(すべて週刊誌の受け売りですが)

 そこで、昼から父と母の墓参りに行ってきました。


 昨年の9月頃だったか、夜8時過ぎに事務所に入り、何気なくテレビのチャンネルをNHKに回すと歌番組をやっていました。髭面のおじさんがギターを手に哀愁をおびた歌を歌ってます。「あなたの、あなたの見せない傷がー」。初めて聞く歌に聞き惚れ、やがて亡くなった自分の母を思い出して、涙が止まりませんでした。

 後で、女房にもこの歌のすばらしさを伝え、インターネットでCDを注文して、やがて送られてきたCDをかけて歌詞を覚えた。

 聞きながら、覚えながらこの歌に泣かされた。女房も「ほんまに亡くなったお母さんのことを歌ったような歌やね」と、聞く度に一緒になって泣いていました。

 歌のタイトルは、皆さんご存知の『吾亦紅(われもこう)』。「亦」は、「また」という字です。歌っているのは、作曲家の「すぎもとまさと」(杉本眞人)さん。

 そこで、なぜ私たち夫婦が泣くのかを、ちょっとお話し致します。暇だったら、聞いて下さい。

 私の母、谷口まさは、1914年(大正3年)三重県伊賀上野市友生町蓮池の生まれ。戦前の1937年(昭和12年)に神戸の人と結婚するも、半年で出征。夫はあの盧溝橋ですぐに病魔に侵され、戦地で死亡します。母はそうして未亡人となり、大阪にいた弟の家に厄介になりながら遺族洋裁学校に通い始める。そして、知人の世話で1944年(昭和19年)にこの室戸で製材所を営む父、谷口義貴と再婚します。自分の故郷から遠い田舎町にやってきての、お互いに相手を亡くしての再婚でした。だから、私の姉以下の4人は“後妻の子”です。

 厳しい商売人の家です。母も、私たち子どもたちも、そんなに甘やかしてはくれませんでした。(それが今の“肥やし”になっているんですが)

 父は、学校が無い時には朝から晩まで、夕方帰って来た後でも「おーい、そーいちー」と呼んでいました。「工場の掃除をしちゃれ」、「テーブルの前取りをしちゃれ」と。「あそこであれを買って来い」、「あの大工さんの所へ行って集金して来い」と。

 母にしても、父が何かと小言が多いから、何度か別れて伊賀に帰ろうとしました。私が小学校2、3年ごろ、朝、学校に行こうとすると、母に「そういち、一緒に伊賀へ帰ろ」と止められました。父と母がケンカした時のことだから私も子どもながら事情はうすうす読み取っていて、「イヤー、学校へ行かないかんきん」と、その度に同調しませんでした。それが母の帰ろうとする意欲をそいだのは間違いありません。二度、三度とそんな別れる場面がありましたが、伊賀上野の蓮池に親戚の法事で里帰りしたのは、後にも先にも私が小学校6年生の夏休みの時、一回だけでした。

 母はそれ以後もたくさんの辛い思いをしていましたが、父が昭和42年になくなった後は、トラックに乗っていた21歳の私が「車で連れて行っちゃるきん、伊賀上野に里帰りせんかね」と気遣っても、「いや、伊賀へ帰っても、もう誰ちゃあおらんきん、あては帰らん」と、一度も帰ろうとしませんでした。

 それから約三十年は、好きなサツキの花を愛でたり、八十八カ所巡りをしたりと、余生を送っていました。兄弟が編集長、製材店の社長、商船の船長だからと、「うちの子はみんな“長”が付いちょう」と、褒めてくれていた。兄弟の男三人の中では私が最低の“長”なのに。

 そうして、私が地域雑誌の仕事が行き詰まり廃刊を決める半年前の1997年(平成9年)の4月、82歳で亡くなった。その時の私は、出版の仕事をやめる前で良かったと思いました。また惨めな自分を見せて、母にまた悲しい想いをさせ、心配をさせなくてすんだと。

 そんな想いを抱いていた頃の、昨年の「吾亦紅」の歌。「小さな町に嫁いで生きて」から、「あなたは家族も遠く、気強く寂しさを堪えた」、「あなたの見せない傷が」、そして極め付けが「後で恥じない自分を生きろ」。母が生きている時には、雑誌出版という元々儲けになるとは思っていない仕事だったもので、何もしてやれないだらしない長男でした。それが情けなくて、母にはいつも申し訳無いと思っていた。でも、何もしてやれなかった。この歌はそんな気持ちを自分に替わって歌ってくれています。

 杉本眞人の母を思う歌「吾亦紅」 ←(クリック) 

 この歌は、そんな団塊世代のだらしなさと、戦後生まれで昭和40年代、50年代の日本の一番よい時代を自分たちが形づくってきたんだという自負とが入り混じっている、私たちいろんな辛い仕事をして頑張ってきた人たちの心情を唄った歌。そう思っている。

 母が亡くなってからの後日談ですが、生前に母の生まれ故郷である伊賀上野に連れて行ってやれなかった申し訳ない気持ちから、亡くなって二ヵ月後の6月末に母の位牌と遺影をカバンに納め、女房と二人で車に乗って母に里帰りをさせてやりました。母にすれば昭和34年8月以来、三十八年ぶりになります。私にしても小学校六年生の時に母と一緒に来て以来ですので、何か初めて来たところのようでした。

 母の生まれた家には母の兄のご子息、つまり母にすれば甥、私のいとこに当たる方が立派なお家で生活をしていました。事情を話し仏壇の前に母の位牌と写真を置かせて頂いて、「おかあちゃん、里へ帰ってきたぜ」と声を掛けてやりました。

 そして、近くの蓮池寺にある母の父と母、私からすると祖父と祖母の墓前に立ち、「あなたの娘が帰って来ましたよ」と声を掛けました。私も女房も感極まり涙を流しました。十年前、二十年前からの念願が叶った、責任が果たせた、でも出来たら生前に連れて来てやりたかった、そう思った。


 「吾亦紅」の歌詞です。

 1、マッチを擦れば おろしが吹いて  線香がやけに つき難(にく)い  さらさら揺れる 吾亦紅  ふと あなたの 吐息のようで・・・  盆の休みに 帰れなかった  俺の杜撰(ずさん)さ 嘆いているか  あなたに あなたに 謝りたくて  仕事に名を借りた ご無沙汰  あなたに あなたに 謝りたくて  山裾の秋 ひとり会いにきた  ただ あなたに 謝りたくて・・・ 

 2、小さな町に 嫁いで生きて  ここしか知らない 人だった・・・  それでも母を 生ききった  俺, あなたが 羨ましいよ・・・  今はいとこが 住んでる家に昔みたいに 灯がともる  あなたは あなたは 家族も遠く  気強く寂しさを 堪(こら)えた  あなたの あなたの 見せない疵(きず)が  身にしみていく やっと手が届く  ばか野郎と なじってくれよ

  親のことなど気遣う暇に  後で恥じない 自分を生きろ  あなたの あなたの 形見の言葉  守れた試しさえ ないけど  あなたに あなたに  見ていて欲しい  頭に白髪が 混じり始めても  俺、 死ぬまで あなたの子供・・・。


 この歌詞にあるように、「後で恥じない自分を生きる」には、如何に生きれば後で恥じない自分になれるのか、これが私の大きな課題です。

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」。

 夏目漱石の「草枕」の書き出しの言葉ですが、議員としての職責を果たそうと努力すれば、もうそれで先を走ることになり、角が立つし、浮いてしまう。

 でも、杉本眞人さんが歌う「後で恥じない」とは、「今の自分の働きぶりが間違っていなければ、きっと将来、後世の人が評価してくれる」、そういうことだと私は思っています。

 議員として、住民のために今、何をしなくてはならないのかを絶えず自分に問い続けることだと思う。

 
(この記事を書いて10年が経った今、考えること)

 所詮は、後で恥じないようにと懸命にそして真面目にウソ偽りなく働いても、選挙で落とされた男です。「とかくこの世は住みにくい」と思っているのは確かだ。

 真面目に生きてゆくということは、何と難しいことなのか。
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