青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

陶芸家・新田義治の、立派な人生

2018-07-29 | 人間のあり方
 高知県東部でも「いいまち」として知られている北川村ですが、なにも観光施設「モネの庭」があるからではありません。

 かつて、私がジャズ喫茶を経営していた時の昭和62年だったかに加藤登紀子魚梁瀬ダムコンサートが行われ、店でそのコンサート切符販売のお手伝いをしました。それ以来、村内の喫茶店「SAKAYA」に通い、村民の皆さんとも親しくなり、村とのご縁はおよそ三十年を超えます。

 その喫茶店経営は駐車場がなくなったため、四年間で店を閉め、平成2年9月からは高知県東部を中心にした情報を集めた地域雑誌『あおぞら』の発行を始めました。それも誰の助けも雇用もなしで、一人だけで制作から取材、版下は全て手書きと、日本では誰もやったことのない地域雑誌(タウン誌)を発行し始めました。

 そうして八年余り発行を続けましたが、赤字が膨大になったことから平成10年1月に廃刊としましたが、その間には全国版の地域雑誌表彰「NTT全国タウン誌フェスティバル」で二度、奨励賞を受賞。東京の帝国ホテルの旅費をいただいての表彰式に招かれ、妻と参加したものです。

 こんな私でもそういう時代があったことを今朝、ネットを検索していたら私が8年前に書いた次のような記事を見つけたので、思い出しました。

 2010年8月に掲載した北川村の新田義治さん(故人)の記事です。

 この世の中に自分の利得ばかりを企む悪い人はたくさんいますが、「人間とはこうあるべき」という良い例です。ご覧ください。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今朝の高知新聞に、小生がかつて地域雑誌を出版していた時期に大変お世話になったし、親しくさせても頂いていた方の死亡広告が掲載されていて驚きました。

 特に議員になってからは、近くまで行きながら自宅までお会いしに出掛けておらず、不義理してきたことが悔やまれます。

 そのお亡くなりになった方の名は、安芸郡北川村木積(こつも)の新田義治さん(満86歳、享年88歳)。

 新田さんには、私が平成2年9月から平成10年1月まで高知県東部の地域雑誌『あおぞら』を発行していた関係から、何度となくその誌面に登場していただいた。

     

 葬儀は、本日8月6日(金)の午前10時半から、安芸郡田野町にあるJA安芸田野葬祭会館において執り行われました。参列されたのは、200名あまり。80歳を超えた故人の葬儀にこれほど多くの方が弔問にご参列されるのは室戸でもあまり見かけたことがないので、斎場に入ってまず驚きました。

            

 これも、かつて新田さんが障害者用の食器を陶芸で制作していたことと、娘さんの新田文江さん(63歳)が女流陶芸家であることなどから、交流が北川村の村民にとどまらず、県内や県外の方にまで及んでいるからであろうと思った。

 参列者のお顔を見渡すと、行政には全く関係していなかった一人の老いた住民の葬儀に北川村長や教育長、村議が全員参加というのも室戸では全く例がないし、村民はもちろんのこと、雑誌記者だった私と同様にかつて取材した後に親しくさせていただいていた元高知新聞社のY記者の名代として奥さんと二人の子どもさんも参列されていた。出棺の時、その奥様と小学生の娘さんが目を泣き腫らし、涙を流して霊柩車をじっと見送っていたのが印象的でした。

 生前の新田氏の活動は障害者用食器の制作のほか、親しくなった方々には細やかな気配りで「絵手紙」と呼ばれるハガキをまめに描いて出していた。それがまた仲間内で人気を呼び、奈半利町郵便局をはじめとしてあちこちで何度かその「絵手紙」の展覧会を開催していたことを思い出します。

 陶芸家・新田義治さん(享年88歳)の遺し方を平成8年の取材記事から辿ってみたい。

 大正12年12月、安芸郡加領郷の漁師、谷村牛馬・熊恵夫婦の四男として生まれる。

 家は貧しく、昭和12年に小学校を卒業すると義姉の伯父である宮内庁の 御弓師・石津重貞氏(写真一枚目の左ページの弓を持つ人物)をたどって東京に出る。14歳の時だった。 

 最初は、お得意さんに弓を届ける書生に。そのうち「そこがいやになって」(新田さん談)、埼玉県大宮市の伯父・広末金一郎という人の所に移る。その人は友人の横浜市の貿易商・宮地氏(田野町出身)に頼んで新田少年を丁稚に雇った。が、義治少年はすぐに肺尖カタル(結核の初期症状)を患い、結局、体を壊して昭和14年に加領郷に帰ってくる。

 「学校に行くぞと思い東京に出て行きながら、それを果たせずノコノコと帰ってきたというのは、私にとって人生の大挫折でした」。

 帰ると父に叱られると思っていた義治は、父から「兄がしっかりしてないから、十五や十六のお前が失意で帰ってこんといかんなった。子どものお前に苦労をかけたなあ」とねぎらいの言葉を掛けてもらう。失敗だと思っていたのがその言葉で救われ、嬉しかったそうだ。父親は「急に船に乗せるのもかわいそうやなあ。高知の土佐簿記学校に行くか」。

 一年間の学校生活だったが、親が漁師をしながら行かしてくれた学校。「熱心にやりました」。

 昭和16年(18歳)で学校を卒業すると、地元、加領郷漁業共同組合に事務員として就職した。それは、16年12月8日の真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が勃発する直前だった。

 やがて、みんなと同じように陸軍の志願兵になろうと志願するも、肺結核の関係から不採用に。それでも16年末には徴用され、すぐ広島県呉の海軍工廠に入り、労務課に配属され三年間勤務する。

 新田さんはこの頃のことを、「こう聞いてもらってわかるように、私の人生には何一つ、完成したものがない。全部中途半端で挫折の繰り返し」。こう語り、「まあ、この時代、大抵の人がそうでしたがね」と笑っていた。

 そうして戦争は終わり、そのうち、北川村の新田家から「養子に来てくれんか」という縁談がくる。「金儲けのためにバリバリ働くなんてのはは好きじゃないから、あんな山の農村で、田畑を耕して暮らすもいいなあ」と思い、20年11月に結婚。満22歳になる一か月前だった。

 その結婚も、当時の新田家の新田義信さん(義父)が言うことには「うちには跡取りの数恵という東京美術学校(現・東京芸術大学)を出た姉がいて、それが終戦の時には中国の青島(チンタオ)で教師をしていたが、いまだ生死不明だ。だから、うちに養子に来て、農業や山仕事をしながらその数恵の帰りを待っちょってくれ。悪いようにはせんきん」と。

 新田家に養子に入るも、やがて妹の幸寿と結婚。そんな翌21年のこと、姉の数恵が中国から帰ってくる、やつれ果てて。

 義治さんは姉にこう話した。「私はこの家に来るに当たりこうこういう条件がありました。お姉さんがこうして帰ってきましたので、私たちは家を出ます。後のことはどうかお姉さんがお願いします」。

 姉は涙を流してこう言ったそうです。「どうぞ、そんなことを言わんとって下さい。私は帰ってきたばっかりで、そんな力ら、ありません。それよりも、義治さん、これまでこの新田家を守ってくれて本当にありがとうございました。私はこれから知人を頼って高知市へ出て、元の教師になって生計を立てます。こんな体では私にはとても畑仕事はできんし、お父さんやお母さんの面倒をみる力もない。この家のことはすべてあなたにお任せしますき、どうぞここにおって下さい。お願いします」。
 
 そして新田義治さんの義姉の数恵さんは家を出て高知市に移り住み、丸の内高校の教師になりました。

 義治さんはその後、22歳から40歳までの17年間は山師や農業で生計を立てて暮らした。そんな昭和41年のこと、農協の知り合いから誘われて置き薬のセールスマンに転職する。それから4年間は給料も上がって、大学に入った娘・文江さんへの学費の心配もなくなった。

 やがて41年には北川村農協の理事に、44年には組合長になるが、積極的に体質改善を進めたために職員との関係が悪化、一年で辞職する。45年には高知市の住友銘木に入社。床材の製造技術が評価を得て、四年後の昭和49年に独立する。こうして新田義治さんは、ついに独立したのでした。

 好事魔多しという。独立して二年目、昭和51年のある雨が降る夜のことでした。高知市から北川村の自宅に帰る途中、安芸郡安田町唐の浜の国道55号線を走っていて、転落事故を起こす。

 脊椎損傷で約三年間の長い入院生活が続きました。口はきけるが、体は全く動かなかった。昭和53年に家に帰ってきたが、それからもリハビリが約二年半続いた。その後は、事故を起こす前に建設した娘の文江さんの工房で、リハビリの意味もあって土をこね、少しずつ陶芸を始めます。

 平成に入ると、新田さんは同じ障害を持つ人たちのために「らくらく食器」を考案する。
 
  

 その利便性が障害者への明るいニュースとして新聞や雑誌で取り上げられ注目されるようになると、注文が殺到。社会からのニーズは生きがいを感じたが、注文に間に合わせようと頑張ることの苦労も味わいました。

 又、この「らくらく食器」は安藤百福賞など、何度か表彰もされました。

 雑誌取材の最後に、私は新田さんに「新田さんはそう思ってないかもしれませんが、もう立派なプロの陶芸家です。陶芸には飾るだけの食器がありますが、これは使える食器。それもいろいろな苦しい目にあって体に障害を持った人たちのためを思い作った立派な食器です。『私の人生は挫折の人生』なんて言わんといて下さい」。「僭越ですが、人生には無駄というものはないと思います。良いことも悪いことも、全て積み重なるものです。それがあって、40代、50代、60代の人生があると思っています。ぜひ、これからもがんばって陶芸をやり続けて下さい。新田さんの人生は立派な人生です」。そうお願いしたことでした。

 ここで、平成8年の雑誌『あおぞら』の取材時に、かつて山仕事をしていた昭和30年代に新田さんが撮影した写真をお借りして掲載したものを紹介する。きっと、なかなかの腕を持ったそのカメラマンぶりに驚かれると思います。

  

  

  

  

 どうですか? この見開き3ページの子どもを撮影した写真なんか、いい写真だと思いませんか? 私は取材当時にこれらたくさんの写真を見て、なかなかの芸術的センスを持った人だなあと感心したものです。陶芸ができたことやこの写真テクニック等を見て思うに、新田さんにはもともと何かこれらに通じる芸術的センスがあったということでしょうね。

 親しくして頂いた新田さんが亡くなった今、思います。 戦前、戦後を生きてきた人はみんな、苦労して人生を送ってきたんだなあと。

 新田さんの人生は、いまの金と肩書にばかり卑しくて職責はまったく果たそうと努力しないどこかの田舎の政治家たちに比べれば、ずっとずっと立派な人生だったと思います。

 障害者食器を作り続けた陶芸家・新田義治氏にはご生前のご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈りします。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「立派な人生」とは、このような人生を言うのです!。

 自らが利得を得るために他人を蹴落とすというような企みはせず、他人のために尽力すだけで満足する。例えそうしたことに対して評価があろうがなかろうが、苦労に耐えながら続ける。それが「立派な人生」だと私は思っている。


 勿論、私はこれまでの人生をそう生きてきたし、これからも新田さんを見習い、「人のため」を思って生きてゆきたいと思っています。

 例え私が「人のため」に尽くしてきたことが歴史に残らなくても。

 なぜならば、それが【尽力】というものだからです。



電子情報誌「青空エクスプレス」のアクセス数は、7月29日のGooブログランキング(2834249ブログ)中、2054位でした。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 室戸市の議会報『青空新聞』... | トップ | 恩人のお母さんからの激励の... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

人間のあり方」カテゴリの最新記事