日々是好舌

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無刀取り 新陰流の 極意なり

2012年07月19日 11時29分56秒 | 日記
息子が小学生の頃だったからもう二〇年近くも前のことになる。家族三人で奈良見物に出かけたのだが、折りしも行楽シーズンの真っ最中で宿の手配がつかず、仕方なし柳生の民宿へ二泊したことがある。

柳生というのは奈良市の北東部、大和高原の北部に位置する旧柳生村、大柳生村の区域で、山間の小盆地は水田耕作や茶栽培が盛んな農村である。

旧柳生村は、江戸時代に徳川将軍家の剣術指南役だった柳生氏一万石の領地だったところで、今でも陣屋跡や家老小山田氏の屋敷などが残っている。

私たちも柳生氏菩提寺の芳徳寺や正木坂道場などを見物したが、中でも印象的だったのは農道を登り詰めた杉林の中にあった「一刀石」と呼ばれる巨石である。

新陰流の流祖、柳生石舟斎宗厳が修行中、天狗と試合をし一刀のもとに切り捨てたのだが、あとに残っていたのは真っ二つに割れた巨石だったという逸話のある約七メートル四方の花崗岩の巨石である。

宗厳は大和柳生の小柳生城に生まれた。祖父は重永、父を家厳という。父とともに、三好長慶、および松永弾正久秀に属して、しばしば軍功があった。その後、織田信長に招かれて仕えたが、病気と称して退身し、剃髪して柳生の庄に閑居した。

宗厳は、はじめ、神取新十郎に新当流を学んだとも、あるいは戸田一刀斎について、一刀流の奥義まで鍛錬したとも言う。神陰流の上泉伊勢守信綱に入門したのは永禄六年の夏であり、約三年後の永禄八年四月に神陰流皆伝印可状を受けている。一国唯授一人の奥伝を得たのは元亀二年であった。

文禄三年五月、石舟斎宗厳は徳川家康に招かれて、京都鷹が峰の御小屋に伺候した。家康自ら技を試みようと、木刀を構えて立ち向かったが、宗厳は、これを無刀取りの術で破った。

家康は、その場で二〇〇石を与えて、師範役を命じ、自らすすんで入門誓紙を入れた。石舟斎宗厳このとき六十八歳。老年の故をもって辞し、同行していた五男の又右衛門宗矩を自分の代わりに御側に薦めた。宗矩はこのとき二十四歳であった。

柳生家は石舟斎以来、徳川家の間諜役として活躍してきた。関ヶ原合戦以前から、柳生家は徳川家に通牒して上方諸大名を監視する張耳飛目であった。但馬守宗矩が惣目付の役に挙げられたのもこうした高等警察としての手腕を見込まれてのことである。
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