【いざ!美しき尼僧・貞心尼の足跡へ】
すっかり旅のブログになり、きょうは番神堂と日蓮を予定していた。でも、まわりに咲いている山野草は、ツワブキ(石蕗)ばかりである。
ふと気がつくと、花ではないが柏崎には華があることを思い出した。美しい尼僧の貞心尼で、柏崎が最も誇れる華に相応しい。
昔ほど良寛の史跡を訪ねる人は少なくなったが、それでも清貧の生涯を通した良寛の人気は続いている。
その晩年を彩ったのが、貞心尼との出会いである。柏崎にきて初めて美しい尼僧がブログに登場する(でも良い画像がない)。
また、河井継之助愛用の茶碗は、蓮月尼の作であるが、貞心尼は京都の蓮月尼と加賀の千代女とともに、幕末の三大女流歌人といわれる。
17歳で小出島(現魚沼市)の医師・関長温と結婚するが、6年ほどで離婚した。小出島を去った理由には諸説がある(またブログの友人の出身地の小出島が登場した)。
やがてマスは知人のいる柏崎に移り、23歳のとき閻王寺にて剃髪し貞心と称した。28歳で福島村(現長岡市)の北にある閻魔堂に移り、良寛のうわさを聞き思慕の念を深めることになる。
文政9年(1826年)に貞心には、和島の島崎の木村家の庵居に移住していた良寛を訪れた。貞心尼30歳、良寛さん70歳の時であった。
長岡から信濃川を渡り、塩入峠の難所を越えて、やっと木村家に着くが良寛は不在だった。貞心尼は手づくりの手毬に手紙を添えて帰ることになった。
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ (貞心尼)
(子どもと手毬をついてあそんでいると聞きますが、それは仏への精進の道に思われます。私にも弟子にして一緒につかせて下さい)
良寛は返歌として次の詩を残した。
つきて見よ ひふみよいむなここのとを 十とおさめて また始まるを (良寛)
(手毬をついて無心になるのを求めるならば、一緒について下さい) 良寛の死まで5年間、相聞詩の交換と訪問は続いてが、天保2年(1831年)に良寛は貞心尼に見取られながらか亡くなった。
君にかく あいむることのうれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞ思う (貞心尼)
洞雲寺の貞心尼の墓は、弟子の尼僧が建立したもので、「孝室貞心此丘尼墳」の法名と辞世の句が刻まれている。
くるに似て かえるににたりおきつなみ 立居は風のふくにまかせて (貞心尼)
洞雲寺の本堂の前の歌碑には、生前を忍ばせるように、【恋は学問を妨ぐ】の二人の詩が並んでいる。
いかにせむ まなびの道も 恋ぐさの しげりていまは ふみ見るもうし (貞心尼)
いかにせん うしにあせすと おもひしも 恋のおもにを 今はつみけり (良寛)
すっかり旅のブログになり、きょうは番神堂と日蓮を予定していた。でも、まわりに咲いている山野草は、ツワブキ(石蕗)ばかりである。
ふと気がつくと、花ではないが柏崎には華があることを思い出した。美しい尼僧の貞心尼で、柏崎が最も誇れる華に相応しい。
昔ほど良寛の史跡を訪ねる人は少なくなったが、それでも清貧の生涯を通した良寛の人気は続いている。
その晩年を彩ったのが、貞心尼との出会いである。柏崎にきて初めて美しい尼僧がブログに登場する(でも良い画像がない)。
また、河井継之助愛用の茶碗は、蓮月尼の作であるが、貞心尼は京都の蓮月尼と加賀の千代女とともに、幕末の三大女流歌人といわれる。
17歳で小出島(現魚沼市)の医師・関長温と結婚するが、6年ほどで離婚した。小出島を去った理由には諸説がある(またブログの友人の出身地の小出島が登場した)。
やがてマスは知人のいる柏崎に移り、23歳のとき閻王寺にて剃髪し貞心と称した。28歳で福島村(現長岡市)の北にある閻魔堂に移り、良寛のうわさを聞き思慕の念を深めることになる。
文政9年(1826年)に貞心には、和島の島崎の木村家の庵居に移住していた良寛を訪れた。貞心尼30歳、良寛さん70歳の時であった。
長岡から信濃川を渡り、塩入峠の難所を越えて、やっと木村家に着くが良寛は不在だった。貞心尼は手づくりの手毬に手紙を添えて帰ることになった。
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ (貞心尼)
(子どもと手毬をついてあそんでいると聞きますが、それは仏への精進の道に思われます。私にも弟子にして一緒につかせて下さい)
良寛は返歌として次の詩を残した。
つきて見よ ひふみよいむなここのとを 十とおさめて また始まるを (良寛)
(手毬をついて無心になるのを求めるならば、一緒について下さい) 良寛の死まで5年間、相聞詩の交換と訪問は続いてが、天保2年(1831年)に良寛は貞心尼に見取られながらか亡くなった。
君にかく あいむることのうれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞ思う (貞心尼)
二人の合作では
くるに似て かえるに似たり おきつ波 (貞心尼)
あきらかりける 君の言の葉 (良寛)
良寛の時世の詩は
散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛)
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ (良寛)
形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉 (良寛)
良寛の没後しばらく閻魔堂にとどまっていたが、44歳のとき柏崎の洞雲寺住職から得度を受け、柏崎の釈迦堂の庵主となった。54歳まで釈迦堂に住んだが柏崎大火で火災に遭い、人々の寄進で不求庵を建て、二人の弟子とそこに住んだ。
遺稿に「もしほぐさ」や「蓮(はちす)の露(つゆ)などがある。
洞雲寺の貞心尼の墓は、弟子の尼僧が建立したもので、「孝室貞心此丘尼墳」の法名と辞世の句が刻まれている。
くるに似て かえるににたりおきつなみ 立居は風のふくにまかせて (貞心尼)
洞雲寺の本堂の前の歌碑には、生前を忍ばせるように、【恋は学問を妨ぐ】の二人の詩が並んでいる。
いかにせむ まなびの道も 恋ぐさの しげりていまは ふみ見るもうし (貞心尼)
いかにせん うしにあせすと おもひしも 恋のおもにを 今はつみけり (良寛)
朝からあいにく雨です。それにしても朝食から戻ったら、もうコメントがありました。
綺麗な華の貞心尼には反応が速いこと。
でも小出島の碑は立派で、寅太には一番に見えましたよ。
ここには代表的な詩しかあげませんでした。
でも二人の詩は
幕末の三大女流歌人との交流が、清貧といわれた良寛の最後を面白いものにしています。
これがないと単なる子供と手毬をついて遊ぶ坊さんに過ぎません。
ところで、都立神代植物園ではコフクザクラとジュウガツザクラが咲いています。
神代情報ありがとうございます。
きょうはいろいろなことが重なり、夜も遅くなりそうです。
良寛さんの句、知っていましたか。