俳句時評
俳句を貫く身体性の輝き 五島 高資
朝日新聞08/9/22より転載
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ここ十年来、日本語ブームが続いている。近刊の『文芸春秋SPECIAL』季
刊秋号「素晴らしき日本語の世界」では、斎藤孝氏と書道家の武田双雲氏の対談
「身体的日本語論」に注目した。
筆勢などに言葉の記号性を超えた個人の身体性を顕現しうることにおいて肉筆は活
字に勝ると言ってよい。
しかし、例外もある。活字であってもそれらを□ずさむときに体感される音律によ
って詩歌の言葉はまさにその身体性を発揮する。
寄稿者の多くが日本の伝統的詩歌に触れるなど様々な形で言葉の音楽性について言
及していたゆえんでもある。
さて、この『文芸春秋』誌では俳人としてただひとり黒田杏子氏が「手紙を書い
てみよう」という特集に「その日、生きた証しとして」という文章を寄せている。
「もんペスーツ」で「四国八十八ヵ所遍路吟行」など、行動派俳人としてすでにそ
の作風は身体性に裏打ちされている。
近著の随筆集『俳句の玉手箱』(飯塚書店)では、ドナルドキーンや瀬戸内寂聴
をはじめ、その幅広い交流を通して黒田氏の日本文化に寄せる並々ならぬ思いが伝
わってくる。
それにしても、こうした氏の情熱はどこからやって来るのか。
秋声を聴く辺地をゆき辺地をきて 杏子
あとがきに「〈観察〉は森羅万象あらゆる存在との出合いの原点」とあるが、俳句
を通した山川草木との対話は、心身と物と言葉が一体となる究極へと我々を誘う。
身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな〉
(『花下草上』)では主客一如によって「観察」を超えた観音」、あるいは「観自
在を体現する。
小島ゆかり氏が「黒田杏子は季語を生きる人」と評したことをなるほどと思いつ
つ、例えば次の句などに、「の」やN音のリフレインによって花びらの渦に立ち現
れる生々流転を巡る命の輝きを感じてやまないのである。
花びらの渦のこの世にかぎりなし
(俳人)
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(注) 段落など多少変えてあります(日向 勝)
俳句を貫く身体性の輝き 五島 高資
朝日新聞08/9/22より転載
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ここ十年来、日本語ブームが続いている。近刊の『文芸春秋SPECIAL』季
刊秋号「素晴らしき日本語の世界」では、斎藤孝氏と書道家の武田双雲氏の対談
「身体的日本語論」に注目した。
筆勢などに言葉の記号性を超えた個人の身体性を顕現しうることにおいて肉筆は活
字に勝ると言ってよい。
しかし、例外もある。活字であってもそれらを□ずさむときに体感される音律によ
って詩歌の言葉はまさにその身体性を発揮する。
寄稿者の多くが日本の伝統的詩歌に触れるなど様々な形で言葉の音楽性について言
及していたゆえんでもある。
さて、この『文芸春秋』誌では俳人としてただひとり黒田杏子氏が「手紙を書い
てみよう」という特集に「その日、生きた証しとして」という文章を寄せている。
「もんペスーツ」で「四国八十八ヵ所遍路吟行」など、行動派俳人としてすでにそ
の作風は身体性に裏打ちされている。
近著の随筆集『俳句の玉手箱』(飯塚書店)では、ドナルドキーンや瀬戸内寂聴
をはじめ、その幅広い交流を通して黒田氏の日本文化に寄せる並々ならぬ思いが伝
わってくる。
それにしても、こうした氏の情熱はどこからやって来るのか。
秋声を聴く辺地をゆき辺地をきて 杏子
あとがきに「〈観察〉は森羅万象あらゆる存在との出合いの原点」とあるが、俳句
を通した山川草木との対話は、心身と物と言葉が一体となる究極へと我々を誘う。
身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな〉
(『花下草上』)では主客一如によって「観察」を超えた観音」、あるいは「観自
在を体現する。
小島ゆかり氏が「黒田杏子は季語を生きる人」と評したことをなるほどと思いつ
つ、例えば次の句などに、「の」やN音のリフレインによって花びらの渦に立ち現
れる生々流転を巡る命の輝きを感じてやまないのである。
花びらの渦のこの世にかぎりなし
(俳人)
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(注) 段落など多少変えてあります(日向 勝)