
大特集 句に刻まれた師系を語る
自句自解~句に刻まれた「師系」
ダイナミック 草深昌子(「青草」主宰・「晨」)
大峯あきら先生は、大学生の時に「自分が本当に感じたことを正直に言うのがいい俳句です」と高濱虚子に教えられた。
以来、思考し続けて、この言葉は詩の生まれる不易の源泉を教えてくれていたのだと確信した。
大峯先生の言う「計らいをなくす」、これも同じ詩の原点である。
花散るや何遍見ても蔵王堂 昌子
吉野で初めてお会いした時の句。ただ一人、先生が採って、
「何遍見ても」という一見稚拙な表現が、花散る中に立つ巨塔の姿を生き生きと捉えたと鑑賞された。
すると、はっとしたように誰もが認めてくださった。
選者の凄みを目の当たりにしたことで忘れられない。
はたはたや峠に住みてものしづか 昌子
「はたはた」が一句のテーマをよく受け止めていると評された。
俳句の要は季題との本当の出会いだろうか。
季題はテーマであり、詩情であり、何より宇宙であった。
奥津城のほかは春田でありにけり 昌子
どこの田舎であったか、一日中歩き回って、何の手応えもなかった。
去り際にもう一度振り返った、その一瞬。
師の言う「句作りは修羅場、その修羅場の中に時として自分を忘れた不思議な瞬間が訪れる」、それであった。
石蕗の花さかまく波をよそに咲く 昌子
「この句は神韻をまとっていますね」と言われたとき、句座の皆がどっと冷やかした。
先生は笑って、「いや石蕗の花のことですよ」と言い直された。
私の心には師の〈日本に帰りて石蕗の日向あり〉があった。
師の句は総じて静謐である。
我々は季節の自然の中にある存在、自分の所有物でない大きな命によって生かされている。
無限大の宇宙に抱かれていることをやすらかに肯定している俳句は、読後に幸せをもたらすものであった。
雲去れば雲来る望の夜なりけり 昌子
「望月の従来の情趣は一句から一掃され、代わりに満月をつぎつぎに追いかけるダイナミックな雲の運動をいきいきとつかんでいる」
(「晨」平成30年1月号)
師の俳句は何より、絶え間なき季節の推移にあって、その移りゆくものを言葉にとどめるものであった。
「永遠の今」である。
大峯あきらの師系に繋がっていることを自覚できるのは唯一この句であろうか。
師にいただいた最後の選評であった。
読み書きのいよよ楽しやけふ子規忌 昌子
芭蕉、子規、虚子を尊敬し、俳句の伝統を重んじられた。
哲学に、宗教に、金城鉄壁の詩人でありながら、深刻なものではなかった。
その平明にして深いところがなかなか分からない。
分かろうとして日々俳句に打ち込んでいるとき、ふと面白さが実感された。奇しくも子規忌のことであった。
俳句に向き合う喜びこそは師から賜った最大の宝ものである。
師と邂逅し、生き方を教えていただいた密度の濃い二十年間は、一閃の光芒であった。
師の言葉が胸を打つのは、他者に惑わされない信念の勁さであろうか。
その教えはそのまま、老いの身の支えになっている。
自句自解~句に刻まれた「師系」
ダイナミック 草深昌子(「青草」主宰・「晨」)
大峯あきら先生は、大学生の時に「自分が本当に感じたことを正直に言うのがいい俳句です」と高濱虚子に教えられた。
以来、思考し続けて、この言葉は詩の生まれる不易の源泉を教えてくれていたのだと確信した。
大峯先生の言う「計らいをなくす」、これも同じ詩の原点である。
花散るや何遍見ても蔵王堂 昌子
吉野で初めてお会いした時の句。ただ一人、先生が採って、
「何遍見ても」という一見稚拙な表現が、花散る中に立つ巨塔の姿を生き生きと捉えたと鑑賞された。
すると、はっとしたように誰もが認めてくださった。
選者の凄みを目の当たりにしたことで忘れられない。
はたはたや峠に住みてものしづか 昌子
「はたはた」が一句のテーマをよく受け止めていると評された。
俳句の要は季題との本当の出会いだろうか。
季題はテーマであり、詩情であり、何より宇宙であった。
奥津城のほかは春田でありにけり 昌子
どこの田舎であったか、一日中歩き回って、何の手応えもなかった。
去り際にもう一度振り返った、その一瞬。
師の言う「句作りは修羅場、その修羅場の中に時として自分を忘れた不思議な瞬間が訪れる」、それであった。
石蕗の花さかまく波をよそに咲く 昌子
「この句は神韻をまとっていますね」と言われたとき、句座の皆がどっと冷やかした。
先生は笑って、「いや石蕗の花のことですよ」と言い直された。
私の心には師の〈日本に帰りて石蕗の日向あり〉があった。
師の句は総じて静謐である。
我々は季節の自然の中にある存在、自分の所有物でない大きな命によって生かされている。
無限大の宇宙に抱かれていることをやすらかに肯定している俳句は、読後に幸せをもたらすものであった。
雲去れば雲来る望の夜なりけり 昌子
「望月の従来の情趣は一句から一掃され、代わりに満月をつぎつぎに追いかけるダイナミックな雲の運動をいきいきとつかんでいる」
(「晨」平成30年1月号)
師の俳句は何より、絶え間なき季節の推移にあって、その移りゆくものを言葉にとどめるものであった。
「永遠の今」である。
大峯あきらの師系に繋がっていることを自覚できるのは唯一この句であろうか。
師にいただいた最後の選評であった。
読み書きのいよよ楽しやけふ子規忌 昌子
芭蕉、子規、虚子を尊敬し、俳句の伝統を重んじられた。
哲学に、宗教に、金城鉄壁の詩人でありながら、深刻なものではなかった。
その平明にして深いところがなかなか分からない。
分かろうとして日々俳句に打ち込んでいるとき、ふと面白さが実感された。奇しくも子規忌のことであった。
俳句に向き合う喜びこそは師から賜った最大の宝ものである。
師と邂逅し、生き方を教えていただいた密度の濃い二十年間は、一閃の光芒であった。
師の言葉が胸を打つのは、他者に惑わされない信念の勁さであろうか。
その教えはそのまま、老いの身の支えになっている。






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