草深昌子選 (順不同)
兼題「大試験」

春寒や目青不動を覗き込み 奥山きよ子
目青不動というのは知りませんが語意からして、まさに春寒しを引き寄せます。青は何と言っても早春の感がします。目黒不動はよく行きましたが、不動尊には赤も黄も白もあるようですね、どんな不動尊なのかしらという心情も下五によく出ています。
目青不動というのは知りませんが語意からして、まさに春寒しを引き寄せます。青は何と言っても早春の感がします。目黒不動はよく行きましたが、不動尊には赤も黄も白もあるようですね、どんな不動尊なのかしらという心情も下五によく出ています。
大試験終へたる町の匂ひかな きよ子
大試験という概念を払って、今まさに大試験が終わったような気分を読者にも感じさせます。「匂ひ」がいいですね。肩の荷が下りたことで町の光景が鮮やかに見えるのでしょう。庶民的に何かしらの物のにおいであってもいいでしょう。
地下足袋の指くつきりと春の土 神﨑ひで子
農作業の地下足袋でしょう。地下足袋は跣足袋とも言いますが、その感じが指の跡を明らかに見せるということでよくわかります。なんだかなつかしい「春の土」の実感です。
大試験椅子も机も冷たくて 松井あき子
「冷たくて」は、もとよりこの時節の寒さですが、物理的な冷たさだけでなく心理的な冷たさが臨場感をもって伝わってきます。この冷静な感受なら合格間違いなしのようです。
ヒマラヤ杉見ゆる窓側大試験 あき子
ヒマラヤ杉を窓側の席に見たからには心身引き締まったことでしょう。こちらも合格間違いなさそうです。「窓側」は、表現としてはなめらかさに欠くようですが、実直に効いています。

なにやかやおしころしたる大試験 昌子
人々の立つてもの食ふ梅日和
笊吊つて梅にあきなふ平屋かな

令和7年3月・青草通信句会講評 草深昌子
令和7年3月の兼題は「大試験」
大試験今終りたる比叡かな 五十嵐播水
大試験山の如くに控へたり 高浜虚子
どちらも山がどっかとゆるぎなく象徴的に坐っていて、大試験ならではの開放感が前句、緊張感が後句にみなぎっている。
大試験は学年末の試験、あるいは卒業試験のことで、大きな試験、大事な試験という意味がこもっている。明治には、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったようだが、今は一般的ではなく、季題「入学試験」を立てて、その傍題に「受験生」「受験期」等を置く歳時記が多い。但し、虚子編歳時記では入学試験は「入学」の傍題として四月の項目にあがっている。
入学の吾子人前に押し出す 石川桂郎
人見知りの一人っ子が小学校に入学する頃、この句に出会った。入学に寄せる親の不安や期待がそのまま出ていて感激した。
そう言えば、外山滋比古著『省略の文学』に感銘したのもこの頃のことだと思い出した。そこで、一部を飛び飛びに抜粋。
――
言語表現では前のことばのイメージが次のことばにかぶさってゆく、さらにそのイメージが下のことばに干渉する、そのイメージは一過的現象で、視覚の残像と同じようなものがことばにも働いてくる、この言語イメージの残曳を、「修辞的残像」と呼ぶ。
切字こそ俳句における省略の詩学の指標で、切字によって俳句は平俗な言葉を自由に駆使しながらも、散文的空虚、平板に堕することを避けることができる。これ以上は省くことができないところまで捨てたのが俳句の詩法。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
「古池や」のあとの空間において古池の残像とそれと方向の違った「蛙飛び込む」という二つの表現が重なりあう。切字の前後の部分が心理的空間を距てて相対峙し、その断絶が統合されたときはじめて、俳句らしい屈折、もつれ、ねじれなどの感じが出る。
「発句は必ず切るべし」と教えたのは、一句の独立性を確保するだけでなく、詩情の複雑、充実のためにも有効ということになるのである。切るべし、とは、言語空間を作ることが短い詩型の文学の独立のために必須の条件であることを道破したものである。
令和7年3月の兼題は「大試験」
大試験今終りたる比叡かな 五十嵐播水
大試験山の如くに控へたり 高浜虚子
どちらも山がどっかとゆるぎなく象徴的に坐っていて、大試験ならではの開放感が前句、緊張感が後句にみなぎっている。
大試験は学年末の試験、あるいは卒業試験のことで、大きな試験、大事な試験という意味がこもっている。明治には、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったようだが、今は一般的ではなく、季題「入学試験」を立てて、その傍題に「受験生」「受験期」等を置く歳時記が多い。但し、虚子編歳時記では入学試験は「入学」の傍題として四月の項目にあがっている。
入学の吾子人前に押し出す 石川桂郎
人見知りの一人っ子が小学校に入学する頃、この句に出会った。入学に寄せる親の不安や期待がそのまま出ていて感激した。
そう言えば、外山滋比古著『省略の文学』に感銘したのもこの頃のことだと思い出した。そこで、一部を飛び飛びに抜粋。
――
言語表現では前のことばのイメージが次のことばにかぶさってゆく、さらにそのイメージが下のことばに干渉する、そのイメージは一過的現象で、視覚の残像と同じようなものがことばにも働いてくる、この言語イメージの残曳を、「修辞的残像」と呼ぶ。
切字こそ俳句における省略の詩学の指標で、切字によって俳句は平俗な言葉を自由に駆使しながらも、散文的空虚、平板に堕することを避けることができる。これ以上は省くことができないところまで捨てたのが俳句の詩法。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
「古池や」のあとの空間において古池の残像とそれと方向の違った「蛙飛び込む」という二つの表現が重なりあう。切字の前後の部分が心理的空間を距てて相対峙し、その断絶が統合されたときはじめて、俳句らしい屈折、もつれ、ねじれなどの感じが出る。
「発句は必ず切るべし」と教えたのは、一句の独立性を確保するだけでなく、詩情の複雑、充実のためにも有効ということになるのである。切るべし、とは、言語空間を作ることが短い詩型の文学の独立のために必須の条件であることを道破したものである。






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