草深昌子選

困りごとなにも無き日やぺんぺん草 山森小径
「困りごとなにも無き日」、一体そんな日があるのだろうかと思う間もなく「ぺんぺん草」がやってきて、それはそうだなといっぺんに共鳴する。
上12の思いがあってぺんぺん草が付いたのではなく、ぺんぺん草に見惚れているうちに、
平凡な日のささやかなありようをうべなわれたのではなかろうか。
ぺんぺん草は薺の花のこと、花はみな小さな実となって 三味線の撥(ばち)のような形をしていることからぺんぺん草の名が起こったと言われる。
その「ぺんぺん」が一句全体によく響いている。
まな板に菠薐草のもりあがる 小径
菠薐草といえば遠い昔のことながら、〈夫愛すはうれん草の紅愛す 岡本眸〉に心惹かれたことを思いだす。
今や愛や恋もなく、ひたすら老体の健康維持のために菠薐草をおいしくいただいている。
そんな身にとって、掲句の気勢のよさが嬉しい。
洗いあげた葉っぱの緑の鮮やかさ、その嵩高いありようはポパイの好きな菠薐草以外の何ものでもないのではなかろうか。
風車際立つ色となりにけり 大村清和
セルロイド、今どきそんなシロモノがあるのかないのか風車といえばセルロイドといういうことばの響きもろともになつかしい。
風を受けるとくるくる回る美しい仕掛けのおもちゃは、春の祭の神社や境内に風車売りが出ると、一気に春満載の雰囲気になったものである。
〈廻らねば魂ぬけし風車 高浜虚子〉の句の通り、春風あってこその風車。
掲句はいっときのよき風にいっせいに廻りだしたのであろう、
その一瞬の色彩を「際立つ色」として見事に捉えられたものである。
見事に、などど言ったが作者は何一つ力まずして、風車そのものから賜ったことばのようにごく自然に詠いあげている。
お互ひのまなざし知らぬ内裏雛 佐藤昌緒
雛は雛でも「内裏雛」であるところが決まっている。
天皇と皇后、男女一対のお姿。思えば先祖代々雛壇にあって女児の幸せを祈り続けてこられたまなざしである。
そういえば向き合われたことはなかったのであった。
何と言っても、この「まなざし」の措辞が気品高くもやさしく魅了される。
句歴が長くなると一読ふっとデジャビュを感じてしまうことが多々ある。
掲句もそうであった、それは即ち佳き句の証しのようなものかもしれない。
くすくすと木の芽の笑まふ南口 石野すみれ
「くすくすと木の芽の笑まふ」読むからに楽しい、釣られて笑いそうになる。
そこで「南口」とくると、うんそうだろうな、そうだよね、と納得する。
東口でも北口でも西口でもよさそうだが、南口がぴったり。
ただ作者の見届けた情景が南口であったというだけであろう、そのたまたまを迷わずに断定するのが俳句の直感である。
「困りごとなにも無き日」、一体そんな日があるのだろうかと思う間もなく「ぺんぺん草」がやってきて、それはそうだなといっぺんに共鳴する。
上12の思いがあってぺんぺん草が付いたのではなく、ぺんぺん草に見惚れているうちに、
平凡な日のささやかなありようをうべなわれたのではなかろうか。
ぺんぺん草は薺の花のこと、花はみな小さな実となって 三味線の撥(ばち)のような形をしていることからぺんぺん草の名が起こったと言われる。
その「ぺんぺん」が一句全体によく響いている。
まな板に菠薐草のもりあがる 小径
菠薐草といえば遠い昔のことながら、〈夫愛すはうれん草の紅愛す 岡本眸〉に心惹かれたことを思いだす。
今や愛や恋もなく、ひたすら老体の健康維持のために菠薐草をおいしくいただいている。
そんな身にとって、掲句の気勢のよさが嬉しい。
洗いあげた葉っぱの緑の鮮やかさ、その嵩高いありようはポパイの好きな菠薐草以外の何ものでもないのではなかろうか。
風車際立つ色となりにけり 大村清和
セルロイド、今どきそんなシロモノがあるのかないのか風車といえばセルロイドといういうことばの響きもろともになつかしい。
風を受けるとくるくる回る美しい仕掛けのおもちゃは、春の祭の神社や境内に風車売りが出ると、一気に春満載の雰囲気になったものである。
〈廻らねば魂ぬけし風車 高浜虚子〉の句の通り、春風あってこその風車。
掲句はいっときのよき風にいっせいに廻りだしたのであろう、
その一瞬の色彩を「際立つ色」として見事に捉えられたものである。
見事に、などど言ったが作者は何一つ力まずして、風車そのものから賜ったことばのようにごく自然に詠いあげている。
お互ひのまなざし知らぬ内裏雛 佐藤昌緒
雛は雛でも「内裏雛」であるところが決まっている。
天皇と皇后、男女一対のお姿。思えば先祖代々雛壇にあって女児の幸せを祈り続けてこられたまなざしである。
そういえば向き合われたことはなかったのであった。
何と言っても、この「まなざし」の措辞が気品高くもやさしく魅了される。
句歴が長くなると一読ふっとデジャビュを感じてしまうことが多々ある。
掲句もそうであった、それは即ち佳き句の証しのようなものかもしれない。
くすくすと木の芽の笑まふ南口 石野すみれ
「くすくすと木の芽の笑まふ」読むからに楽しい、釣られて笑いそうになる。
そこで「南口」とくると、うんそうだろうな、そうだよね、と納得する。
東口でも北口でも西口でもよさそうだが、南口がぴったり。
ただ作者の見届けた情景が南口であったというだけであろう、そのたまたまを迷わずに断定するのが俳句の直感である。
金縷梅や暴れん坊のきかん坊 すみれ
金縷梅の花は他の花々に咲きがけて、先ず咲く、それが訛って「まんさく」になったと言われている。
余寒の中にあって、もじゃもじゃというか、ちりぢりというか、こぞって捩れた黄色の花を咲かせる。
そんな曰く言い難き花の印象を「暴れん坊のきかん坊」と親心のようなやさしさをもって言いとどめた。
描写でありながら、お気に入りの心情がよく出ている。
金縷梅の花は他の花々に咲きがけて、先ず咲く、それが訛って「まんさく」になったと言われている。
余寒の中にあって、もじゃもじゃというか、ちりぢりというか、こぞって捩れた黄色の花を咲かせる。
そんな曰く言い難き花の印象を「暴れん坊のきかん坊」と親心のようなやさしさをもって言いとどめた。
描写でありながら、お気に入りの心情がよく出ている。

野遊や池のあひるは柵を越え 松井あき子
うららかな野遊びのさなかに、あひるが柵を越えてやってきたとは驚きである。
キャーとかワーッとか言いながら、追っかけたり逃げたりしながら、いっそう楽しくなったのではないだろうか。
蛇足ながら昔、橿原神宮にて、七五三詣でをした折、ため池のあひるが我が一人娘に嚙みついて、晴着を着たまま大泣きをされた苦い思い出がある。
以来、あひるはちょっと怖いイメージではあるが、野遊びの頃なら繁殖期を思いやってもいいだろう、いずれにしても予期せぬ自然界の出会いである。
啓蟄の雨や地べたに染み入りて あき子
雨は地べたに染み入るものではありながら、「啓蟄の雨」という断定がゆるぎなき印象をもたらしている。
啓蟄は3月5日頃、地中の虫がみな動き、戸を啓(ひら)きて初めて出ることを言う。
「啓蟄や雨の地べたに染み入りて」とは違うのである。
「切れ」なくして俳句はあり得ないが、どこでどう切るかが、俳句表現の大いなる面白さである。
シクラメン南の窓に移しけり 高橋 麦
何てことない、地味な詠いぶりだが、これぞシクラメンだなと思わせる。
拙宅にもシクラメンの一鉢があって、年末から春も闌の頃になっても、茎をのばしてピンクの花をいっぱいつけている。
水加減を考え、日当たりを考え、それなりに手間を惜しまないのだがそのことがまた楽しい。
その心をこめた喜びが「南の窓に移しけり」に十全に言い表されている。
送水会白装束に導かれ 村岡穂高
送水会(そうすいえ)は「若狭のお水送り」のこと。
福井市小浜市の神宮寺境内から汲み上げられた水を鵜の瀬から奈良へ送る神事だという。
奈良東大寺で行われる「お水取」の水の水源である。
神事であるからには松明があり護摩があり様々の手順がおごそかに行われたであろうことは想像に難くない。
実際に見るとあれもこれも言いたくなる。
だが、作者は「白装束に導かれ」のひと言に言い切られた。
この清々しさに、まこと尊きお水が思わるばかりである。
母をらぬ春分の日や麩まんぢゆう 小宮からす
「春分の日」は彼岸の中日、二十四節気の一つである。
「母をらぬ」は、この春分の日にたまたまお出かけなのかもしれないが、
下五にポツンと置かれた「麩まんぢゆう」の味わいからは永遠のお留守を思わせていただいた。
つやつやの笹の葉の包を開くと見るからに柔らかそうな麩まんぢゆうがあらわれる。
しっとりとした香りに、もちもちのおいしさをかみしめながら、
まぎれなく母と共にあるよきひとときを過ごされているのであろう。
春昼やニッキの匂ふ祖母の部屋 からす
こちらは母ならぬ思い出の祖母の部屋である。
もとより俳句としては現実に生きてある祖母の匂い、その匂いのままにある祖母の部屋を詠いあげていると解した方が新鮮だろう。
ニッキは肉桂のことで、その独特の芳香を祖母の匂いとして一句に染みわたらせているのは、
ほかならぬ「春の昼」がもたらす芳潤の趣にほかならない。
花きぶし遠く列車の響きけり 奥山きよ子
売り渡す母の底地や沈丁花 きよ子
送水会(そうすいえ)は「若狭のお水送り」のこと。
福井市小浜市の神宮寺境内から汲み上げられた水を鵜の瀬から奈良へ送る神事だという。
奈良東大寺で行われる「お水取」の水の水源である。
神事であるからには松明があり護摩があり様々の手順がおごそかに行われたであろうことは想像に難くない。
実際に見るとあれもこれも言いたくなる。
だが、作者は「白装束に導かれ」のひと言に言い切られた。
この清々しさに、まこと尊きお水が思わるばかりである。
母をらぬ春分の日や麩まんぢゆう 小宮からす
「春分の日」は彼岸の中日、二十四節気の一つである。
「母をらぬ」は、この春分の日にたまたまお出かけなのかもしれないが、
下五にポツンと置かれた「麩まんぢゆう」の味わいからは永遠のお留守を思わせていただいた。
つやつやの笹の葉の包を開くと見るからに柔らかそうな麩まんぢゆうがあらわれる。
しっとりとした香りに、もちもちのおいしさをかみしめながら、
まぎれなく母と共にあるよきひとときを過ごされているのであろう。
春昼やニッキの匂ふ祖母の部屋 からす
こちらは母ならぬ思い出の祖母の部屋である。
もとより俳句としては現実に生きてある祖母の匂い、その匂いのままにある祖母の部屋を詠いあげていると解した方が新鮮だろう。
ニッキは肉桂のことで、その独特の芳香を祖母の匂いとして一句に染みわたらせているのは、
ほかならぬ「春の昼」がもたらす芳潤の趣にほかならない。
花きぶし遠く列車の響きけり 奥山きよ子
売り渡す母の底地や沈丁花 きよ子

踏青や紙の袋にりんごジャム 石井久美
大き木の梅や夕日の庭のうち 葉山 蛍
叱られて伏せの犬の目鼓草 日下しょう子
杖白くすれ違ひたる梅林 中原初雪
タンカーの沖を動かぬ霞かな 岩城泰成
春服を買ふ気もなしにららぽーと 滝澤さくら
田の神の祠のあとの仏の座 河野きなこ
席取りの花は蕾の上野かな 柴田博祥






※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます