草深昌子選 (順不同)
兼題「石鹸玉」

しやぼん玉城のお堀を渡りけり 奥山 きよ子
よきところを渡ってゆきました。場所のイメージからゆうゆうと、長閑な感じが漂います。
よきところを渡ってゆきました。場所のイメージからゆうゆうと、長閑な感じが漂います。
大楠の幹に吸はるる石鹸玉 二村結季
楠の太々とした幹のあたりを上っては失せる石鹸玉でしょうか。「吸はるる」には石鹸玉の幽けき感じがよく出ています。
石鹼玉括れて大き一つなり 日下しょう子
ここまでよく観察されますと石鹸玉も喜んでいることでしよう。ちょっと歪になってもすぐに立ち直るのはこういうことだったのですね。いろいろの飛び方が本当に楽しいと気付かされます。
相模より安房に棚引く霞かな 中原初雪
相模は神奈川県、安房は千葉県の南部のこと、旧国名が古来から詠われ続けてきた「霞」を文字通り趣をもってぼんやりと棚引かせます。
相模から安房の方面へということでしょうね、〈相模より安房へ棚引く〉
豆苗に蔓の出でたる四月かな 日下しょう子
豆苗はつぎつぎ葉っぱが出ますが、ついには蔓になって伸びていくのでしょう、それは四月のことなのですね。ほおっとばかり一句に教えていただきました。俳句の楽しさはこんなところにもあります。
表現が的確です。

しやぼん玉飛ばさんD51たかだかと 昌子
蛇出づる屋敷のここに屋敷神
浜風の吹き来る春の涼しさよ

令和7年4月・青草通信句会講評 草深昌子
令和7年4月の兼題は「石鹸玉」
石鹸玉はいつの季節でもいいですが、やはり春らしい遊びです。
流れつつ色を変へけり石鹸玉 松本たかし
飛んでゆく石鹸玉の美しさや愛らしさが目に見えるようで、何回読んでも本当にそうだなと感嘆します。何気ない表出ですが、大気の日の光や風の具合までをも描写しているのです。
赤松の幹をのぼるや石鹸玉 大峯あきら
赤松の樹皮は赤みがかっています。黒松は雄松、赤松は雌松、その幹の優美さを石鹸玉はするすると上昇してゆきます。
「青草」誌において、これまで「大峯あきらのコスモロジー」を連載してきましたのは、青草の皆さまに大峯あきら俳句を理解していただく手立てになればという思いがあったからでした。
こつこつと13回続きましたところで『大峯あきら全句集』が刊行されました。これを機に、全句集を紐解きながら、併せて草深昌子拙稿「大峯あきらのコスモロジー」をじっくり読み直していただきたいと願っています。大峯あきら俳句を前よりも、もっと親しく感じていただけるものと期待しています。
大峯あきら俳句は宇宙性のある俳句と評されていますが、「宇宙はあそこではなく、ここである。宇宙の中以外に自分が生きている場所はない」というのが先生の宇宙です。科学者のような目をもって天体を眺めるものでなく、作者自身が日や風や雨を宇宙の中に感じとっていることが分かってくるでしょう。
大峯先生から、「自分が本当に感じたことを言葉で巧みに飾り立てないで、正直に述べたのがいい俳句です」という虚子の言葉を繰り返し教えられました。「自分が本当に感じる」というときの「自分」とは、人間の意識的な自我のことばではなく、そんな自己意識を忘れた自分のことです。われわれが物を本当に感じるときには自我というものはないのです。自我意識が破綻して、その破れ目から物がわれわれに出現して、もの自身の言葉を語ってくれるというのです。
従って、大峯あきら俳句のすべては平明、かつ鮮やかにストレートです。何より精神の若々しさが桁違いであったと今さらに気づかされます。思えば『群生海』発刊が82歳、『短夜』発刊が86歳、その意気軒昂は驚くばかりです。最期まで、花鳥と共に永遠の今を言葉にとどめられたのでした。
忘れては思ひ出しては春の行く あきら
玄関に蝶一つ来て夏に入る







