海外旅行

海外旅行の記録

私の見たLAOS

2005-07-21 22:35:32 | Weblog
7月30日から8月7日まで、ラオスとタイへ行ってきました。
  LAOS 【VIENTIANE、LUANG PRABANG】 2002年

0 私の旅行先がラオスだとすぐ言えたのは、行く直前です。
それほど私にはラオスはなじみのない国でした。

  LAOSは次のような国です。
  国土は日本の本州。国境を5カ国に接し、インドシナの中心に位置。
  人口485万人(首都ビエンチャンに10%)
  高度により住む人の違いがあり、70%はメコン川流域のLAO人。
  時差ー2時間、熱帯モーンスーン気候(雨季、乾季)平均28℃。

  LAOの歴史はランサン王国です。シャムの属国、フランスの植民地、
  日本の占領後独立、ベトナム戦争時第2次大戦以上の爆撃を受け、
  1975年王国廃止、ラオス人民共和国となり現在に至っています。

1 LAOはノップ(挨拶の時、胸の前で手を合わす)に象徴された国。
  服装は地味ですが、温和ですれていない。最後に残された桃源郷?
  日本の大正時代の写真から抜け出てきたような顔と心を感じました。
  ノップ
2 森の緑とメコン川の流れるLAOは物乞いどころか道路に人気がない
  のです。
  (インドのようにうろうろしている子供や手を出す人がいない)
  森の緑は人々を飢えさせないようです。
  
3 メコン川は両岸の大地を溶かして赤く濁っていました。自然破壊?
  豊かな川の恵みをもたらしていないように思えました。
メコン川

4 雨季というのは雨が降る季節という程度の意味なのでしょうか。
  私は常に雨が降り、道路が川のようになるイメージでした。
  赤っぽい道路は埃もたたず、乾季より過ごし易い
  (マスクがいらない)

5 LAOの女の人はシン(巻きスカート)です。サンダルをはき
  オートバイの二人のりが通勤スタイルです。(自転車は少ない)

6 バザールには野菜と果物がいっぱいでした。肉はなく魚もわずかです。
  味付けはやさしく日本人好みです。
  
7 ランサン王国の王都LUANG PRABANG(世界遺産に指定)はさしずめ
  日本の京都です。違いは金ぴかのお寺と少年修行僧です。
  街を歩くのは外国人観光客と少年修行僧だけです。
  寺の集団生活で若者の教育がなされているのでしょうか。

8 朝5時半、各寺々から少年修行僧の托鉢の一列行進が始まります。
  ところどころで跪いた街の人から、お布施を受けます
  (僧は丸いボールを持ち、受け取るものは食べ物)。
  どのような人たちが毎日これだけの僧に寄進するのでしょうか。
托鉢行進

9 緑が多く、雨も降り蚊に最適なはずなのに蚊がいない。なぜ?
(蚊取り線香いっぱい持ってきたのに無駄でした)

10 お金はKipですが$もB(タイバーツ)もどこでも使えます。
 $の両替の必要がないのです。これは何を意味するのか?
 1$=10000Kipで麺3000Kipほど。硬貨なしです。
 単位が大きくて少し使いづらいです。
 
 TV局はLAO局1つ、タイ局5つ、NHKも見れます。
 タイの影響が大きいのでしょう。Eメールも可能です。

9日目

2005-07-17 16:30:55 | Weblog
4月20日(水)9日目  カサブランカ~パリ~成田着

朝3時半起床。エアーフランスは荷物の重量チェックが厳しいという
ことでしたがホテルに体重計があったのでそれで確認することが
出来ました。ホテルからの朝食を持って4時15分空港へ向いました。
出国手続きも順調にすみ、少し余裕がありました。
パリでの待ち時間も少なく、予定どうりに翌朝成田に8時到着しました。

パリ~成田間 9730Km
飛行機の高度 11255メートル、11277メートル
気温       -50℃   (成田では15℃)
飛行機の速さ 820~930Km/h

* 帰りは行きのときより高度が300~500Km低い。
  (距離は往復で同じなので飛行コースは同じように思いました)
* 行きより帰りのほうが1時間早いのは偏西風の影響だと思います。
 
カサブランカ(モロッコ)⇒東京
カサブランカ      パリ       東京
16:15   19:20 20:30  8:00 日本時間
 7:15   12:20 13:30  8:00 現地時間
    (3時間)       (11時間半)   所要時間
 
*カサブランカ時差9時間、パリ7時間の時差。

パリ空港での機内持ち込み荷物のチェックで私の持っていた玉子型
の鉱石が、たぶん爆弾にでも見えたのかリックサックを開けさせられ、
航空券までチェックされてしまいました。


8日目

2005-07-17 16:28:15 | Weblog
4月19日(火)8日目 カサ・ブランカ

マラケシュから車で4時間かけて出発地点のカサブランカへ
戻ってきました。

カサ・ブランカはモロッコ最大の都会。
モロッコ産業の半分の建物・工場はカサ・ブランカにある。
近代的な銀行・商社・運輸企業などの建物があり経済の中心。
大型客船・貨物船が出入りするアフリカで最大の貿易港。
モロッコ経済を支えるリン鉱石の輸出港としても重要。
ポルトガル人がこの地をカサ・ブランカ(白い家)と名付けた。
100年前、人口1万人の町を現在の姿に変えたのはフランス人。
第2次大戦時アメリカに亡命するヨーロッパ人のビザ取得と中継地。
ナチスに抵抗するフランスのレジスタンス活動の本拠地もあった。

ハッサン2世大モスク
 「アメリカの「自由の女神」のごとく、北アフリカの象徴とする」
  と国王が宣言し、1986に建設し、13年後の1993.8完成
  モロッコ最大のモスクで、高さは200mで世界一。
  礼拝堂は2万5000人の信者を収容、広場には8万人集まれる。
  図書館、博物館、5千人収容の女性用礼拝室が隣接。



国連広場:1920年に造られた。現在は官庁街。


ノートルダム・ド・ルールド教会
  モロッコでは珍しいキリスト教教会。1950年代半ば。
  800のステンドグラスは、名匠ガブリエル・ロワールの作品。
  教会前にいた102歳のおじいさん。



7日目

2005-07-17 16:21:20 | Weblog
4月18日(月)7日目 マラケシュ

標高450mの高原にあるオアシスとして発展してきたモロッコ第3の都会。
2番目に古い町。サハラ砂漠を旅する隊商が黄金や象牙をもたらし、
物資の集積地、商業都市として栄え、工業都市としても発達している。
モロッコの44%のオリーブオイルがここで生産される。
カサ・ブランカを白い町と呼んだのに対して、赤い日干し煉瓦の建物
が特徴のマラケシュは、赤い町と呼ばれる。
現在ではヨーロッパ人の避寒地として、フェズやラバトを凌ぐ繁栄を
保っている。ホテルのプールで泳いだり日光浴をしているヨーロッパ人
が多数いました。パリから3時間ですから気軽に来れるのでしょう。



クトゥビア・モスク(本屋のモスクの意味)
  大学、図書館、コーラン学校が兼ねられ、モスクの周りに本屋がある。
クトゥビア塔 サハラ砂漠に向かって建つ見張りを伴う。高さ77m、


サアード王朝大廟墓群サアード王朝の御廟所。16世紀


エル・バヒヤ宮殿(輝く宮殿)
19C末アラウィー朝の大宰相ムーレイ・ハッサンの片腕バ・アフメドの邸宅
スペイン・アンダルシア出身の建築家とフェズの工人1000人が7年
かけて完成させた。庭にはオレンジ、ジャスミン、ゼラニウムが。
壁面に彩釉タイル、天井に彩色細密画を描いた愛妾用個室。
大理石を敷きゼッリージュを張り、水盤を配した大広場。
4人の妃と24人の側女のための中庭。


フランスの保護領時代、初代総督リヨテ将軍がここに住んだ。


「お祭り広場」ジャマ・エル・フナ広場
 アラビア語で「死人の集会」見せしめのために公開で処刑した場所。
 南モロッコの農民と商人が集まるマラケシュの中心。
 日中は大道芸人を、夕方からは屋台を目当てに大勢の人が集まる。
 蛇使い、曲芸師、講釈師、歌い手、占い師など。
 


6日目

2005-07-17 16:13:19 | Weblog
4月17日(日)6日目 ワルザザート発   
  
【世界遺産】アイト・ベン・ハッドゥーの集落   
 日干しレンガの城壁 外は32度ですが、中は25度でした。
 先住民ベルベル人がアラブ人からの支配を逃れ移り住んだ
 カスバ化した村
 アラビアのロレンス、シェルタリング・スカイのロケ地です。




マラケシュまでの街道沿いの丘の斜面に一体化したかのように
日干しレンガで造られた家、家が並んでいました。


赤茶色の山肌が続きます。鉄分のせいでしょうか。街道沿いには
化石よりも色々な鉱物を多数置いてある店が並んでいました。
鉱物が産出されるのだと思います。
店に並んでいるものには着色したり、人工的に作った物もあるので
注意が必要です。私も石にだまされたのは初めてです。


マラケシュ着
郊外の大きなレストランでChez Ali で
モロッコ料理を食べた後、『ファンタジア』ショウを楽しむ。
ベルベルダンス、馬に乗ってのアクロバットなど