今日はまた、暖か…いや、暑いですね(*´∀`)ノ
こんばんは。
寒いよりは暑いのが好き。
鯱地方の鹿好きおばちゃんです。
さてと。
昨日ありました、やべっちFCのクラブヒストリー。
とうとう、鹿島アントラーズ編でしたよ!
と、その前に…忌々しい試合のお復習。
大宮アルディージャ戦です。
15本もシュート打ったのに…
惜しいシュートもあったのに…
決定的な場面もあったのに…
ゴールにならずに0-0で試合終了です…
うが~スッキリしないっ!!
一応…順位は変わらず。
でも、狙ってるのはてっぺんだけですからね。
次はしっかり、決めきってくれよ!
はい、本題、クラブヒストリーです。
時は1991年9月7日に遡ります。
この日、『世界のジーコ』がJSL2部にデビューしたのです。
そんなジーコをじっと見つめるこちらの少年、見覚えありませんか?
私はこの辺りで気づきました(^_^;)
後半はもっとフリーキックが見たい、と語る、こちらの少年。
そう、この人ですね。
我らが守護神、そがちゃん!
同期の中田C.R.O、爆笑!(こらっ!・笑)
いやいや、私も腹抱えて笑っちゃいましたけどね(酷い鹿好き)
そして、そがちゃんは生き証人として(?)語るのです。
『アントラーズがなかったら、ここまでの町としての発展もなかった。』と。
これは、鹿島アントラーズというチームと、地元で生きる人たちの歴史です。
まずは鹿島アントラーズの前身、住友金属のサッカーチーム。
発祥は大阪だったんですねぇ…
そして、1974年にJSL2部に昇格します。
その後、生産拠点として最大である鹿島にチームの拠点も移転。
これが、チームの転機となります。
1990年に、Jリーグ加盟を立候補。
この頃、鹿島町(当時)は過疎化が深刻な問題でした。
そこで、当時の町長は、サッカーで町の活性化を狙ったのです。
それがまた、町の生産力を上げることにも繋がります。
そのために、地域は一体となって取り組みました。
鹿島町と住友金属だけではなく…
そして、茨城県は日本初の屋根付きの専用スタジアム作りに乗り出すのです。
この流れを汲み、とうとうJリーグ加盟を認められたのです。
えぇ、かの有名な、『99.9999%不可能』をひっくり返した話ですね。(この話は割愛されてましたが)
しかし、この時点で実は、スタジアムの建設は全くの手付かずだったそうです。
開幕まで、2年しかない時期でした。
それは、建設予定地を保有する数多くの地権者からの用地買収が進まないためでした。
200人とはまた…多いですね…
でも、それはその土地で生きてきた皆さんの、当然の主張です。
何代もずっと守ってきた土地を快く手離すには、それなりの理由が必要ですよね。
当時の鹿島町プロサッカー推進室の小岩井氏は、とにかく『サッカーを核に町づくりをしたい』ということを説明して、理解してもらうしかなかったと話します。
ようやく全ての地権者からの買収が終わったのは、Jリーグ開幕の1年前でした。
スタジアムの規模は、当時としては異例の15000人収容です。
当然ながら、1年で建設するのは容易ではない。
でも、土地を譲ってもらった地権者のためにも、Jリーグ加盟のためにチームを支えてくれた県や企業、地元住民のためにも、最大限の努力をしなければならない、というのが、鹿島町プロサッカー推進室の考え方でした。
でなければ、全てが水の泡になってしまう。
そこで取り入れられた工法が、プレキャスト工法です。
要するに、建設現場ではユニットを組み立てるだけ。
何ヵ所かの工場で一気にユニットを組み立てることで、工期を短縮するのです。
そして、人員も投入。
周辺の道路は、開幕の前夜まで整備していたと言います。
こうして、カシマスタジアムが完成。
それはまさに、執念でした。
一方で、チーム強化も同時進行です。
そう、『世界のジーコ』の入団。
これは、Jリーグ加盟にも影響を与えたと言われる大きな移籍です。
当時はすでに一度引退していたジーコですが、鹿島への入団はかなりの覚悟をもってのことだったようです。
鹿島が大都市でもなく、アントラーズがこれからのチームであることも、心の準備をしてきたことだった、と。
ジーコの入団には、鹿島町民も盛り上がります。
そして、チームへ期待を寄せます。
その通りなんですよね。
何もない地方が、サッカーで町づくりをするのなら、強くなければ意味がないんです。
しかし、様々な問題が立ちはだかります。
まずは、環境面。
練習の着替えはどこでするのか?とのジーコの質問に…
ジーコは冗談だと思って笑ってますよね。
しかし、本気で言ってます。
この回答に、笑顔が曇る、ジーコ。
そして、芝生も酷い。
ロッカーは狭い。
ジーコはもちろん、選手としての契約ですが、その枠を越えてチームの改善をします。
ここで懐かしい顔が…
長谷さん!若い!!
そうして、アマチュアの域を越えていなかったチームをプロチームへと変えていったのです。
そんな鹿島の、常勝チームとしての転機。
それは、Jリーグ開幕直前の強化合宿。
イタリア遠征です。
いやいやいや…考えられないですよ。
すごいチームと当たってます。
代表チームですよ!
練習試合で。
しかし、この試合、ぼろ負けします。
この時のことを語るのは、この人です。
石井さんですね。
石井さん曰く、『力に差があるのはもちろんで、負けてしまうのは仕方ない、しかし…』
そう、悔しくないのか!?ってやつです。
そしてもう一人。
満さんまで出てきましたよ~!
当時はコーチだったんですね。
その時、ジーコは『こんなんじゃJリーグで絶対勝てない。変わっていかなきゃいけない。』と言って…
そう、ジーコ自ら指揮をして、練習も守備を意識したものに変えてみっちり。
そしてイタリア遠征の最終日。
当たったのはまさかのこのチーム。
全て、ジーコのコネだそうです。
インテルと練習試合組めるコネ持ってる選手て…!
そしてその試合、なんと、引き分けます。
時代ですよね、新聞記事ではインテルを英語読みして『インター』と書いてあります。
この時のことを振り返って、石井さんは『練習試合だけど、自信になった。』といいます。
そして、これがアントラーズの戦い方の基本となった、と。
そしてそれは、今もロッカーに掛けられる、あの言葉にも繋がります。
そう、『ジーコ・スピリット』。
ジーコは『22年間、勝つことだけを考えてきた』といいます。
そして…
と言ったのです。
こうして迎えた、Jリーグ開幕戦。
この試合は皆さんご存じの通り、ジーコの直接FKなどが炸裂して、5-0の勝利です。
そこには、かつての鹿島町からは想像のつかない光景が広がっていました。
そして、現在。
ゴール裏の若いサポーターたちは、Jリーグ初期からチームを支えたサポーターの子どもが多いといいます。
親子参戦されるサポさんも、いっぱい。
そしてこれは、鯱地方からのぼっち応援を続ける私には羨ましいこと。
これこそ、チームの理想ですよね。
そして、それは町の誇りになっていくのです。
もちろん、まだまだ発展中ですよね。
海外チームから見れば、たかだか25年しか経ってないチームですから。
鹿島の昨年度の決算は赤字です。
決してまだ成功例ではないんです。
でも、理想はここなのです。
チームにおんぶにだっこではなく、応援する側も支えていかなければいけないですよね。
まだまだ、ここから紡がなくてはいけない。
それが、鹿島のクラブヒストリー、ですよね。
めっちゃ長いなぁ…すみません。
画像多目です。
それもまた、すみません(´・ω・`;)
ただ思うのは、鹿島アントラーズはすでに、地元だけのチームではないということ。
ここまで全国各地にサポさんが多いチームも珍しいですよね。
その事がまた、鹿島へと人を集める1つの要因になっているわけで。
そのためには、やはり鹿島は勝たなきゃいけない。
また次の試合から、頑張りましょう。
FORZA!ANTLERS!
…おまけ…
こんな人がゴールしたようですよ。
この、ヘディングしてる人。
そうです、岩政先生です。
試合は引き分けたようですが、こんなヘディングゴールが鹿島でも見たいなぁ~…( ´Д`)=3
ではでは、今日はこの辺で~m(_ _)m
こんばんは。
寒いよりは暑いのが好き。
鯱地方の鹿好きおばちゃんです。
さてと。
昨日ありました、やべっちFCのクラブヒストリー。
とうとう、鹿島アントラーズ編でしたよ!
と、その前に…忌々しい試合のお復習。
大宮アルディージャ戦です。
15本もシュート打ったのに…
惜しいシュートもあったのに…
決定的な場面もあったのに…
ゴールにならずに0-0で試合終了です…
うが~スッキリしないっ!!
一応…順位は変わらず。
でも、狙ってるのはてっぺんだけですからね。
次はしっかり、決めきってくれよ!
はい、本題、クラブヒストリーです。
時は1991年9月7日に遡ります。
この日、『世界のジーコ』がJSL2部にデビューしたのです。
そんなジーコをじっと見つめるこちらの少年、見覚えありませんか?
私はこの辺りで気づきました(^_^;)
後半はもっとフリーキックが見たい、と語る、こちらの少年。
そう、この人ですね。
我らが守護神、そがちゃん!
同期の中田C.R.O、爆笑!(こらっ!・笑)
いやいや、私も腹抱えて笑っちゃいましたけどね(酷い鹿好き)
そして、そがちゃんは生き証人として(?)語るのです。
『アントラーズがなかったら、ここまでの町としての発展もなかった。』と。
これは、鹿島アントラーズというチームと、地元で生きる人たちの歴史です。
まずは鹿島アントラーズの前身、住友金属のサッカーチーム。
発祥は大阪だったんですねぇ…
そして、1974年にJSL2部に昇格します。
その後、生産拠点として最大である鹿島にチームの拠点も移転。
これが、チームの転機となります。
1990年に、Jリーグ加盟を立候補。
この頃、鹿島町(当時)は過疎化が深刻な問題でした。
そこで、当時の町長は、サッカーで町の活性化を狙ったのです。
それがまた、町の生産力を上げることにも繋がります。
そのために、地域は一体となって取り組みました。
鹿島町と住友金属だけではなく…
そして、茨城県は日本初の屋根付きの専用スタジアム作りに乗り出すのです。
この流れを汲み、とうとうJリーグ加盟を認められたのです。
えぇ、かの有名な、『99.9999%不可能』をひっくり返した話ですね。(この話は割愛されてましたが)
しかし、この時点で実は、スタジアムの建設は全くの手付かずだったそうです。
開幕まで、2年しかない時期でした。
それは、建設予定地を保有する数多くの地権者からの用地買収が進まないためでした。
200人とはまた…多いですね…
でも、それはその土地で生きてきた皆さんの、当然の主張です。
何代もずっと守ってきた土地を快く手離すには、それなりの理由が必要ですよね。
当時の鹿島町プロサッカー推進室の小岩井氏は、とにかく『サッカーを核に町づくりをしたい』ということを説明して、理解してもらうしかなかったと話します。
ようやく全ての地権者からの買収が終わったのは、Jリーグ開幕の1年前でした。
スタジアムの規模は、当時としては異例の15000人収容です。
当然ながら、1年で建設するのは容易ではない。
でも、土地を譲ってもらった地権者のためにも、Jリーグ加盟のためにチームを支えてくれた県や企業、地元住民のためにも、最大限の努力をしなければならない、というのが、鹿島町プロサッカー推進室の考え方でした。
でなければ、全てが水の泡になってしまう。
そこで取り入れられた工法が、プレキャスト工法です。
要するに、建設現場ではユニットを組み立てるだけ。
何ヵ所かの工場で一気にユニットを組み立てることで、工期を短縮するのです。
そして、人員も投入。
周辺の道路は、開幕の前夜まで整備していたと言います。
こうして、カシマスタジアムが完成。
それはまさに、執念でした。
一方で、チーム強化も同時進行です。
そう、『世界のジーコ』の入団。
これは、Jリーグ加盟にも影響を与えたと言われる大きな移籍です。
当時はすでに一度引退していたジーコですが、鹿島への入団はかなりの覚悟をもってのことだったようです。
鹿島が大都市でもなく、アントラーズがこれからのチームであることも、心の準備をしてきたことだった、と。
ジーコの入団には、鹿島町民も盛り上がります。
そして、チームへ期待を寄せます。
その通りなんですよね。
何もない地方が、サッカーで町づくりをするのなら、強くなければ意味がないんです。
しかし、様々な問題が立ちはだかります。
まずは、環境面。
練習の着替えはどこでするのか?とのジーコの質問に…
ジーコは冗談だと思って笑ってますよね。
しかし、本気で言ってます。
この回答に、笑顔が曇る、ジーコ。
そして、芝生も酷い。
ロッカーは狭い。
ジーコはもちろん、選手としての契約ですが、その枠を越えてチームの改善をします。
ここで懐かしい顔が…
長谷さん!若い!!
そうして、アマチュアの域を越えていなかったチームをプロチームへと変えていったのです。
そんな鹿島の、常勝チームとしての転機。
それは、Jリーグ開幕直前の強化合宿。
イタリア遠征です。
いやいやいや…考えられないですよ。
すごいチームと当たってます。
代表チームですよ!
練習試合で。
しかし、この試合、ぼろ負けします。
この時のことを語るのは、この人です。
石井さんですね。
石井さん曰く、『力に差があるのはもちろんで、負けてしまうのは仕方ない、しかし…』
そう、悔しくないのか!?ってやつです。
そしてもう一人。
満さんまで出てきましたよ~!
当時はコーチだったんですね。
その時、ジーコは『こんなんじゃJリーグで絶対勝てない。変わっていかなきゃいけない。』と言って…
そう、ジーコ自ら指揮をして、練習も守備を意識したものに変えてみっちり。
そしてイタリア遠征の最終日。
当たったのはまさかのこのチーム。
全て、ジーコのコネだそうです。
インテルと練習試合組めるコネ持ってる選手て…!
そしてその試合、なんと、引き分けます。
時代ですよね、新聞記事ではインテルを英語読みして『インター』と書いてあります。
この時のことを振り返って、石井さんは『練習試合だけど、自信になった。』といいます。
そして、これがアントラーズの戦い方の基本となった、と。
そしてそれは、今もロッカーに掛けられる、あの言葉にも繋がります。
そう、『ジーコ・スピリット』。
ジーコは『22年間、勝つことだけを考えてきた』といいます。
そして…
と言ったのです。
こうして迎えた、Jリーグ開幕戦。
この試合は皆さんご存じの通り、ジーコの直接FKなどが炸裂して、5-0の勝利です。
そこには、かつての鹿島町からは想像のつかない光景が広がっていました。
そして、現在。
ゴール裏の若いサポーターたちは、Jリーグ初期からチームを支えたサポーターの子どもが多いといいます。
親子参戦されるサポさんも、いっぱい。
そしてこれは、鯱地方からのぼっち応援を続ける私には羨ましいこと。
これこそ、チームの理想ですよね。
そして、それは町の誇りになっていくのです。
もちろん、まだまだ発展中ですよね。
海外チームから見れば、たかだか25年しか経ってないチームですから。
鹿島の昨年度の決算は赤字です。
決してまだ成功例ではないんです。
でも、理想はここなのです。
チームにおんぶにだっこではなく、応援する側も支えていかなければいけないですよね。
まだまだ、ここから紡がなくてはいけない。
それが、鹿島のクラブヒストリー、ですよね。
めっちゃ長いなぁ…すみません。
画像多目です。
それもまた、すみません(´・ω・`;)
ただ思うのは、鹿島アントラーズはすでに、地元だけのチームではないということ。
ここまで全国各地にサポさんが多いチームも珍しいですよね。
その事がまた、鹿島へと人を集める1つの要因になっているわけで。
そのためには、やはり鹿島は勝たなきゃいけない。
また次の試合から、頑張りましょう。
FORZA!ANTLERS!
…おまけ…
こんな人がゴールしたようですよ。
この、ヘディングしてる人。
そうです、岩政先生です。
試合は引き分けたようですが、こんなヘディングゴールが鹿島でも見たいなぁ~…( ´Д`)=3
ではでは、今日はこの辺で~m(_ _)m