活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

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「友好週間」は「友好」ではない件

2018-04-27 19:00:00 | 体験談・雑記

今週末からGWに突入しますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

GWといえば、創価学会では「友好週間」だと思いますが、わざわざ創価学会が指定しなくても、世間一般的に、普段会えない友人や遠方に住んでいる友人と会えるのは、GWとか、お盆とか、年末年始などの長期休暇に決まっています。長期休暇以外にも、「出張でたまたま近くまで来たから、久しぶりに飲もう」といった誘いはあると思いますが。

また、社会人になって、家庭を持つようになると、長期休暇を家族とゆっくり過ごす時間に充てる人が多くなってくると思います。間違っても、長年連絡をとっていなかった顔もほとんど覚えていない学生時代の同級生と会おうと思う人なんてほぼ居ません。今更会って何の話をすればいいか分からないし、創価学会の話でもされた日には、「そうかそうか。今後、公明党のお願いとか色々頼むと思うけど宜しくってことか。ふざけんな。貴重な休みの時間を返せ」って感じでしょう。

 

私は、学会活動ありきの友好なんて友好ではないと思っています。

どれだけ友好を深めたと本人が思っていても、傍から見ていれば、新規顧客を開拓しようと営業をかけているようにしか見えないし、実際そうとしか思われていません。その場ではどれだけ親睦を深めることができたとしても、後日、選挙や新聞をお願いしたときにどんな反応をするか想像に容易いはずです。

実際のビジネスにおいて、本当に信頼のできる営業さんであれば、仕事の枠を超えて仲良くしようと思えますけど、そんな人はほんの一握りで、大半はビジネスライクの付き合いです。学会員もその域を出ていません。

しかも、創価学会は、学会員の友人関係なんて心底どうでもいいと思っています。営業活動をやらせて、どれだけ罵倒されようが、無視されようが、嫌われようが、「宿業を一つ消すことができたね」「聞法下種であっても功徳は同じだよ」などと都合の良いことを言って、学会員の人間関係を犠牲にさせています。そういえば、「信心の強さは、友人から縁を切られた数に比例する」とか、馬鹿なことを言っていた幹部もいましたね。一般の人が聞いたらドン引きですよ。

こういう様子を見ていて、腹立たしさしかないと言いますか、「友好週間」などという、いかにも「民衆の連帯を広げています」的な見せかけの標語なんてさっさと捨てて、率直に「外回り営業週間」と表現した方が分かりやすい。「友好を深めてこい」ではなく、「お前ら、創価学会の営業マンなんだから、お得意さんになってくれそうな潜在顧客に当たってこい」と言った方がむしろ親切です。本人にそのつもりがなかったとしても実際そうなんだから。

 

もし、学会活動を抜きにした本当に純粋な意味での友好と言うなら、創価学会に「友好週間」などと指定される筋合いはないし、「友好を深めてこい」などと命令される筋合いもないし、学会員の個人的な人間関係に口出しをする創価学会とは一体何様なのだろうと思う。お金も時間も友人関係もむしり取らなければ気が済まないのだろうか。この組織は。

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あなたは、なぜ不幸なんですか?

2018-04-24 19:42:42 | 体験談・雑記

シニフィエさんのブログ記事を読ませていただいたのですが、「幸せですか?」という問いかけは、私自身が学会員に対して最も聞いてみたい質問のひとつであり、自分のブログでもこの点について、少し書いてみようと思います。

活動から遠ざかっている方や、既に退会済みの方であれば、ほぼ例外なく、「信心をやっていても幸せではなかった」と答えると思います。また、決して強がりではなく、本当に心の底から「幸せです」と答えるバリ活の方もいらっしゃると思います。

この2種類の方たちについては、特に異論はありません。何故なら、自分の気持ちに正直に行動しているからです。幸せではないと思っているからこそ創価学会から遠ざかり、幸せだと思っているからこそ創価学会の活動に打ち込んでいる。別に普通のことです。

 

問題なのは、「幸せじゃない」「不幸だ」と思いつつ、学会活動をやめられない方です(「幸せだ」と思いつつ、学会活動をやらない人もおかしいんですけど、ここでは取り上げません)。こういう方たちが、「途中で信心をやめればこれまで積み重ねてきたものが無駄になって無間地獄に堕ちる」とか、「まだ長い仏道修行の途中であり人生の最後で勝てばいい」とか、色々な思いを抱えているのは理解できます。かつての自分もそうでしたから。

私は、このタイプの学会員さんに対して、敢えてシニフィエさんとは違う質問を投げかけてみたいと思います。「あなたは、なぜ不幸なんですか?」と。

 

もちろん、学会活動に励むぐらいですから、何かしら人生の悩みや困難を抱えてらっしゃるんだと思います。仕事のこと、お金のこと、病気のこと、人間関係のこと、家族のこと。それは分かります。仏法の観点からいうと、私たちはそういう宿業を背負って生まれてきてしまったんですよね。

また、信心の功徳とは「六根清浄の果報」をいうので、信心をする前の私たちの生命は薄汚れていると説かれていますよね。信心に励んでいくことによって、そういった汚れをひとつひとつ落としていくんだよ、綺麗にしていくんだよと、活動家時代によく指導されたものです。

色々な悩みがあると思いますので、それを簡単に「不幸ではない」とは言いませんし、言えません。ただですね。私はこう思います。なんで、創価学会では、「宿業」とか「六根清浄」とか、人間は罪深くて、汚らわしい存在であるところからスタートするんだろう?と。不幸であることが前提みたいな。

 

百歩譲って、仏法の考え方については受け入れたとしましょう。宿業論とか、今でも「なるほど」と思わなくもないです。だけど、宿業らしく見えるものであっても、それが信心でしか解決できないとは到底思えません。

非活となった今、もちろん悩みもあります。一生付き合っていかないといけない問題もあります。その一方で、信心をやめてから驚くほど簡単に解決できた問題もあります。「宿業」という意識がなくなった結果として、自分のことを「信心に取り組まないと変わることができない人間」と思うこともないし、以前よりも自分のことを認められるようになったといいますか、なかなか解決できない悩みを前にして、「自分の業は深い」「信心以外にない」と思っていた活動家時代に比べて、切羽詰まった気持ちは綺麗さっぱり消え去りました。もちろん生活は充実していますし、比べものにならないほど幸せです。

要するにですね。もし、自分のことを「不幸だ」と思いながら、それでもなお学会活動をやめられない方がいるとすれば、その不幸の原因は、信心でしか解決することのできない「宿業」を抱えていると信じ込んでいる点にあるんじゃない?と、私は思うのです。信心があなたの首を絞めていると言い換えてもいいです。自信をもって言えます。あの頃感じていた息苦しさや不幸の原因はそこにあった、と。

 

もし、学会活動をやりながらも幸福感を感じられない方は、信心でしか解決することのできない罪深い業を抱えているとか、自分の六根は薄汚れているとか、自分を否定するところから入るんじゃなくて、信心に頼らなくたって自分は立派に生きていける強い人間だと、自分を認めるところからスタートした方が良いです。直ぐにでも。

あとね。「困難を困難と思わない境涯」でしたっけ。創価学会がよく言ってるやつ。それって、別に信心をしてなくても到達できますよ。常に挑戦しながら生きてる人って、皆そういう精神力持ってます。「どうやって乗り越えてやろうか」って、ワクワクしながら生きてる。そういう境涯を功徳というなら、はっきり言います。別に信心で得る必要がないですよ。

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本部職員に対して抱く羨望と不憫の念

2018-04-19 20:00:00 | 体験談・雑記

私の知人、親戚の中には、本部職員さんが何名かいらっしゃって、そういう方は、ほぼ例外なく、幼少の頃から創価エリートの道を歩んでこられた方。つまり、小学校から大学まで創価一貫教育を受けて育ち、運命に引き寄せられるかのように新卒で本部職員になったような人です。

 

私は、そういう幼少の頃から創価エリートの道をまっすぐ歩んできた人に対し、ある種、とてつもない羨望の念をもって見ることがあります。

私もかつては創価中学、高校に通っていましたが、大学まで創価教育を受けようとは思えませんでした。創価学園自体が好きではなかったし、池田氏を心から崇拝していたわけでもないし、何より当時の私は、大人たちが用意した創価のレールに漫然と従うことに対するぼんやりとした不安のようなものを感じていました。

親に人生を決めつけられることに対する反抗心というか、自分の人生は自分でデザインしたいという自我というか、思春期の年頃の子どもだったら、少なからずそういう気持ちってあるじゃないですか。実際、私の周りには、創価学園を途中で退学しちゃったり、違う学校に転校する同級生もいたわけですよ。「こんな学校でやっていけねーよ」となってしまって。

また、仮に創価一貫教育までは受け入れられたとして、創価学会に就職しようという発想には到底行き着かない。本部職員になった方たちも、本部職員になるにあたって、さまざまな葛藤や悩みがあったと思いますが、バリ活時代の私がそういうチャンスに巡りあったとしても、たぶん葛藤や悩みを抱くことすらなく、本部職員になるルートを速やかに除外したと思います。

2世・3世会員として、どれだけ創価色の濃い人生を歩んできても、どこかで創価と距離を取りたいとか、レールを脱線したいという思いに駆られてもいいはずなのに(実際、そういう人はたくさんいるのに)、彼らは、そのレールを脱線することなく、最後の就職先まで創価一本で貫いた。何と言いますか、その純粋さはどこから来るのかと驚嘆します。私が羨望の気持ちを抱くのは、その恐ろしいまでの純粋さに対してです。

 

その一方で、私は、幼少の頃から創価エリートの道をまっすぐ歩んできた人に対し、ある種、とてつもない不憫の念をもって見ることがあります。

これから先もずーっと上述のような純粋さをもって、創価学会のこと、池田氏のことを信じ、本部職員としての職務を全うしようとする気持ちが薄れないのであれば、本人にとって幸せなことだと思います。生活に困ることもないでしょう。

しかし、全員が全員そうとは限らない。件の元職員3名のように、現執行部をおかしいと感じ、批判の声をあげ、組織に従わなかったために終には懲戒解雇処分になった職員さんもいる。過去を振り返れば、創価学会のおかしさに直面して、目が覚めてしまった本部職員も他にもいたでしょう(中には、自ら問題を起こして表舞台から消えてしまった自業自得のような人もいますが)。

そのように組織の現実に直面し、創価学会を見限ったとして、私のように、何のしがらみもない普通の学会員であれば、非活になるとか、脱会するとか、いくらでも逃げ道はあります。その後、創価と無縁の人生を歩むことも可能です。ところが、本部職員となればそうはいかないはずです。自身の正義を貫いて創価学会と敵対するか、自身の心情に反して創価学会に付き従うか。そのどちらかを選択するしかなく、どちらの道を進むにしても多大な苦労が付きまとうことは容易に想像できます。

また、仮に、波風を立たせないように穏便に自主退職できたとしても(そんなことが出来るのか分かりませんが)、創価エリートとして生きてきた過去は消せないし、今更創価と無縁の人生を歩もうと思ってもたくさんの困難がつきまとうと思います。私が不憫の念を抱くのは、たとえ創価学会に対して疑問を抱いたとしても、創価の呪縛から逃れることができない人生の残酷さに対してです。

 

そして、どちらかと言うと不憫の念の方が強いです。

創価学会の欺瞞に気付かず、「創価学会は正しい」「信心は正しい」と信じ切ったまま、人生を終える方が幸せな人もいると思いますが、私にとって、本部職員さんも信じ切ったまま人生を終えるのが幸せな人たちのように思えます。創価学会から搾取されてきたと感じている学会員さんは、そのような状況を決して許さないと思いますし、創価学会の内部事情は嫌でも耳に入ってくると思いますが。。

私は、創価のレールを人生の途中で脱線することなく、本部職員になる道を選んだ人というのは、この世に生を受けたその日から、抗うことのできない運命を課せられていたようにも思うのです。普段、「運命」というオカルトチックなものはあまり信じませんけど、これについては、そうだったのかなぁ…と。こちらの一方的な思いで申し訳ありませんが、だからこそ余計に不憫に思うのでしょうか。

 

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創価学会による世界拡大について

2018-04-10 19:33:10 | 体験談・雑記

創価学会は、声高に「世界への拡大」を口にしていますが、現在、人々の信仰心の希薄化等に直面し、信者数の減少に頭を悩ませている宗教団体は非常に多いです。

 

まず、日本国内に目を向けると、文化庁の宗教年鑑を参照する限り、全体的な信者数は年々減少しています。新興宗教で言えば、1990年代に約180万人だった天理教は、2017年に約110万人にまで落ち込んでいますし、同期間において約630万人の信者数を誇った立正佼成会は、2017年に約270万人にまで信者数を減らしています。半減どころではありません。

次に世界に目を向けますと、キリスト教の凋落が顕著です。ヨーロッパでは信徒減少に歯止めがかからず、教会閉鎖が相次いでいますし、アメリカでは無宗教者の割合が増加。1990年代に一ケタ台だった無宗教者の割合は、2014年には21%にまで増加し、米国のプロテスタント最大教派である南部バプテスト連盟もまた、教会員や受洗者数の減少に直面していると言います(ただし、アメリカでは、教会に通う人の数は未だに非常に多いそうです)。

もっとも、このような信徒減少傾向は、全ての宗教に当てはまるわけではなく、正当派ユダヤ教は比較的安定していますし、イスラム教は逆に信者数を増やしており、2030年までに欧州全土において5800万人にまで達するとの予想もあります(参照:「大量に売りに出される欧州の教会―信者の減少で」THE WALL STREET JOURNAL)。

 

このような世界的傾向に鑑みて、創価学会に限って全世界で信者数を増やしているわけがないだろう…と言いたいわけではありません。というか、増えているかどうかなんて正確な統計データ等が存在しないので分かりません。

そうではなく、日本国内で信者数の伸びが頭打ちとなり、後続の青年部層にポッカリと穴が空いている組織の現状を見ますと、世界拡大に舵を切った点は、組織マネジメントとして正解だと思えます。無宗教となる人が増えているということは、創価学会にとって、創価学会に改宗させるチャンスが増えたということですから。…まあ、ヨーロッパに限って言えば、主な改宗先となっているのはイスラム教ですけど(「なぜ増える?イスラム教への改宗」浅川芳裕、BLOGOS)。

いや、と言いますか、創価学会はもはやそれしか選択肢がないと思います。先日、開催された世界青年部総会(でしたっけ)についても、海外のSGIメンバーに広布のバトンを託す儀式だったようにも感じます。

 

あと、最後に1点だけ。もし仮に、世界拡大に奏功したとしましょう(私は懐疑的ですが)。すると、いずれどこかの国のSGIが、日本国内の会員数を抜くタイミングが来ると思います。そうなったとき、かつての日蓮正宗と創価学会のような関係になるんじゃないですかね。

つまり、総本山よりも大きな勢力となったとすると、「広宣流布に貢献しているのは、むしろ私たちじゃない?」「なんで弱小勢力である日本の創価学会本部に支配されないといけないんだ?」という思いが芽生え、「日本の創価学会本部から独立しよう」「自分たちで新たな組織を構築しよう」という分裂が起こるんじゃないかと。どうでしょうかね。

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退会した人は「裏切者」でも「恩知らず」でもない。

2018-04-05 19:00:00 | 体験談・雑記

私が、創価脳に染まっている人の言動として理解出来ないことの一つに、退会した人を「先生や同志を裏切った恩知らず」などと罵って、これを批判することにあります。

他の学会員に迷惑をかけるなどして、除名等の処分を受けた学会員に向けられるのでしたらまだ分かります。しかし、創価学会の教えや方向性に疑問を感じ、自主的に創価学会を退会した人に対しても同じように批判の目を向けるのは如何なものでしょうか。少なくとも私は違和感を覚えます。

 

そもそも「恩」ってなんですかね。創価学会では、「四恩に報いることが仏法だ」などと教えていますが、両親や友人に対する恩は分かりますよ。だけど、同志に対する恩とか、師に対する恩ってなんぞ?池田氏のことを「師」と思っていない人からすれば、「師匠の恩に報いろ」などと言われても、

 

「一体なんの恩だ…?」


って感じでしょう。恩着せがましいとはこのことです。しかも、疑問を感じながら創価学会に残り続けることが「恩返し」なんですか?もし、それを恩返しと言うなら、結局、創価の教えに従わせたいだけじゃないですか。

日本人は律儀な人種なので、「恩」と言われたら、何だかこれを無碍にしてはいけないという発想になりがちですが、そもそも恩なんてないし、あったとしても押し付けられたものですよ。個人的にお世話になった方などもいらっしゃるでしょうし、そういう方に対して感謝の気持ちを持つことは大切だと思いますが、創価学会を退会するという判断とは何の関係もありません。

 

また、自発的に創価学会に入会したわけではなく、生まれたときから強制的に入会させられた2世、3世、4世会員はどうなんでしょうね。そういう生き方を一方的に強制しておいて、そういう人がいざ退会したら、途端に「裏切者」「恩知らず」って、そりゃないでしょう。

例えるならば、どのクラブに入るか全く考えていないのに、同級生が、「お前の名前で勝手に野球部に入部届を出しといたから!一緒に野球やろうな!」と、無理やり野球部に入部させるようなもの。「やってみれば野球の面白さが分かるから!」と言われ、部活に取り組んでみたものの、野球の良さが分からずに退部すると、「裏切者!」「恩知らず!」と罵られるのと同じです。これ、無茶苦茶じゃないですか?

2世、3世、4世会員からすれば、「無理やり押し付けといて、どの口が言ってんねん」って感じです。「裏切者」とか「恩知らず」などと罵っている方へ。あなたは本当にそんな偉そうに罵倒できる立場ですか?罵倒している対象は、本当にそのような批判が適切な相手なのでしょうか?ちょっと考えてみてください。

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