活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

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アメリカSGI会員の忌憚ない意見

2017-12-29 21:37:35 | 体験談・雑記

アメリカSGIは、「Yelp」というウェブサービス上に公式アカウントを開設しており、決してレビュー数は多くないですが、現地のSGIメンバーや新入会員の方たちがどのようなことを考えているのか、その意見を垣間見ることができます。

Soka Gakkai International USA(ニューヨーク)

Soka Gakkai International of America(サンフランシスコ)

 

初めてSGI施設を訪問した際に、「施設が綺麗だった」「対応が丁寧・親切だった」という初訪問者の好意的な意見のほか、長年SGIに在籍されている方でしょうかね。日蓮仏法のことを学びたいなら是非来てくださいと呼び掛けているコメントなどが見受けられる一方で、SGIを冷静に捉え、否定的な意見を述べている方もいらっしゃいます(公式アカウント上において、否定的なレビューを書き込むことができ、しかもそれを他の一般ユーザーが閲覧できるというのは日本の創価学会では考えられないので、この点は凄いと思います)。

中には、当然否定的な意見を持っている人もいると思いますが、具体的にどのような点に疑問を感じているのか、ここでいくつかご紹介させて頂きたいと思います。

 

まず、1999年にSGIメンバーとなり、2010年10月に信心を再開したという方のお話。折伏をした友人と共に、グループ唱題会に参加した際、唱題のリズムが合わずに睨みつけられ、嫌な思いをしたという心情に続けて、次のように綴っています。

 

I was further shocked to learn that SGI shortened Gongyo by omitting nearly 20 pages of Lotus Sutra recitation, and had omitted the repetition of those chapters for the individual Silent Prayers.  It became clear to me, in my heart, that SGI does not practice Nichiren Daishonin's Buddhism as He intended it to be practiced. 

(私は、SGIが約20ページに及び法華経の暗唱を短縮することによって省略し、内徳信仰者のためにこれらの章を省略したことを知って、さらにショックを受けました。SGIには、日蓮大聖人の仏法を、日蓮大聖人の教えの通りに実践していないということがはっきりと分かりました。)

 

寿量品長行を省略し、方便品と寿量品の自我偈を読誦するという現在の簡易的な勤行へ変更されたことが、日蓮大聖人の教えに違背するのではないかという、教義部分での疑問を率直に述べられています(現在は、SGIを脱会し、日蓮正宗の信徒になられているようです)。

もちろん日本国内においても、この勤行方式の変更に対し、異論を唱える人もおりますが、大半の学会員は「時代とともに化儀は変わる」「五座三座の勤行は、現代の生活に合っていない」と自分たちを納得させています(多忙なのに、それ以外の学会活動が省略されないことは別に良いんですね…笑)。しかし、海を渡ったアメリカでも、普通に疑問を感じられている人はやはりいるようです。

 

続いて、話の内容からして3年ほどSGIに在籍されていた方でしょうか。開業医をされているSGIメンバーの自宅での座談会に参加した際、長年SGIに属する日本人グループが、国際問題上センシティブな発言(人種差別的な発言)をしたことに疑問を呈しており、さらに、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー(キング牧師の誕生日。1月の第三月曜日)に、キング牧師のことに全く言及しないことはおかしいと指摘したところ、日本のSGIメンバーより静かにするように注意されたと体験談を語られております。さらに続けます。

 

When I decided to leave SGI, I was followed on the train by SGI folks for several days. This had never happened before. I posted something on my social media channel about it, and it stopped.

(私がSGIを脱会することを決意したとき、SGIメンバーから電車の中で数日間追跡されました。これは以前なかったことです。私がそのことについて、自身のソーシャルメディアチャンネルに投稿したところ、それは止まりました。)

 

おいおい。そんなストーカー行為をアメリカでもやっているんですか。日本でやっている追跡・監視行動を輸出したわけですね。また、グループトークの内容に疑問を投げかけると、疑問を持つことの方がおかしいと逆批判を受ける点は全く同じですね。その時の様子が目に浮かびます。

 

次に、話の内容からして、友人から折伏された女性のお話。折伏をした友人のことを慮って会合に参加してみたところ、そこに集ったメンバーの姿に感動し、しばらく自宅で勤行唱題を実践してみたという体験を述べたあと、次のように綴られています。

 

BUT.... as time has gone on, my interests have moved on and I am still not Buddist.  I am Christian.  I believe in God.  However, the group is very relentless and regularly invites me to social Buddist meetings.  Its awkward to say no, so I keep saying I'm busy (true) or making other excuses.  Or I'm just direct and say I'm not interested.   They always follow up with more invitations.  Even seemingly social dates end up being Buddist discussions.  I like these people and would love to just be friends without having to turn down their encouragement for me to chant with them.  

(中略)

 I am of the opinion that I should be free to practice any religion (or none at all) without relentless interference or input from others.  I'm an adult woman and regret going to this meeting. 

(しかし…時間が経つにつれて、私の興味は変わりました。私はまだ仏教徒ではなく、クリスチャンです。神を信じています。しかし、SGIは非常に執拗であり、定期的に私を集会に誘ってきます。「いいえ」と断るのは抵抗があるので、「忙しい(本当です)」と言ったり、他の言い訳を続けたり、直接的に「興味がありません」と告げています。それでも、彼らはさらに誘ってきて畳みかけるのです。一見社交的な日々に見えて、仏教の議論に終始するのです。私は、SGIメンバーが好きですし、彼らの唱題参加への誘いを断ることなく、ただの友人になりたいです。

他者からの絶え間ない干渉やインプットを受けることなく、自由に宗教を実践すべき(あるいは全く実践しない)というのが私の意見です。私は大人の女性であり、この会合に参加したことを後悔しています。)

 

しつこく会員を誘うというのは世界共通なんですね。「興味がない」と意思表示をしているのに、執拗に会合参加を促すあたりは日本仕込みでしょうか。宗教を抜きにして、友人として付き合っていきたいという、この方の願望もよく分かります。日本の創価学会員も、創価学会を抜きにすれば、本当に良い人たちだとよく言われますが、アメリカSGIメンバーもそういう印象を持たれているのでしょうか。

 

続いて、25年間SGIメンバーだったという方の率直な意見。25年間信心に励んでいたとなれば相当熱心な信者だったんでしょう。他の方が被害に遭って欲しくないという願いを込めて、次のように綴られています。

 

This organization is for money power and political control and uses very covert manipulative tactics to make you into what they want you to be.It happened ever so slowly and stealtlhfully that you will not notice it and that is why it is dangerous.Be safe and do not get involved either in NY or any location.They are all the same franchise like mc Donalds.McDonalds food is not good for you physical health and this organization is toxic to your mental heath.

(この組織は、お金の力と政治的コントロールのために存在しており、非常に巧妙な操作戦術を駆使して、あなたを彼らの望む姿へと変貌させます。それは、あなたが、いかに危険であるかが分からないほどにゆっくりと秘密裏(stealtlhfullyとあるが、stealthfullyの間違いだと思われる)に起こっています。ニューヨークやその他の場所に近づかず、安全にしてください。彼らは、あなたの肉体的健康に害を及ぼすマクドナルドのようなフランチャイズと全く同じであり、この組織はあなたの精神的健康にも害を及ぼします。)

 

さすがに25年間SGIに在籍されていた方ですから、お金と政治のために活動しているということに見事に気付かれていますね。徐々にマインドコントロールが施されていく病理を、マクドナルドに例えられているのは、言い得て妙だなと思います。短期的に見れば美味しいように感じるかもしれないけど、長い目で見たときに、あなたにとって有害だよという訴えはまさにその通りだと思います。非常に鋭い洞察ですね。

 

最後に、このような否定的意見に対し、34年間SGIに在籍している方が反論されていたので、こちらも紹介します。

 

 I have seen it evolve, grow and improve. We are normal people, nothing special. We let pretty much anyone join, and we can't control people, obviously. Some people may have a bad experience interacting with other members, for instance, although we do have guidelines to try to minimize any negative situations. I can say from my long experience that SGI has a truly noble purpose of teaching the philosophy and practice of Nichiren Buddhism to help people to become happy and to promote a peaceful society. The vast majority of the people I have met through SGI are good-hearted and compassionate, doing their best to improve themselves and help others to do the same.

(私は、SGIメンバーが進化、成長し、改善されていくのを見てきました。我々は普通の人間であり、特別なものではありません。私たちは、かなりたくさんの人に参加して頂いたので、明らかに人々をコントールすることはできません。例えば、我々はネガティブな状況を最小限に抑えるためのガイドラインを持っていますが、一部の人は他のメンバーとの間で悪い経験をしたのかもしれません。私の長年の経験から、SGIが、人々が幸福となり、平和な社会を築くための手助けとして、日蓮仏法の哲学と実践を教授する真に貴い目的を持っていると言えます。私がSGIを通して出会った大半の人は、良心的かつ思慮的であり、自分自身を改善し、他の人が同じことを実践することを手助けしています。)

 

うん。分かります。創価学会で人間革命を遂げた人、功徳を得られた人もたくさんいるよ、という主張ですよね。皆、世界平和を真剣に祈っていて、尊い目的を持っているよ。批判する一部の人は、たまたま酷い経験をしただけで、もっと巨視的にSGIを見てよ。というわけですね。これも日本と同じです。「私たちは、世界平和を祈っていて、人々の幸福を心から願っているんだ。実際、この信心で変わることができた人もいるんだ。だから、この信心が正しいんだ」と。

否定はしないです。それを正しいと考え、この信仰に励んでいこうというなら、その人の自由です。ただ、その一方で、創価学会・SGIの方向性、振る舞い、政治的な力やお金の力に疑問を感じている人もいる。たぶん、これはどこまでいっても平行線です。最終的に創価学会・SGIに付き従うかどうか。そういう選択に迫られているのはアメリカSGIも同じなんじゃないかと思います。

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池田大作中心主義は大誤算だった。

2017-12-28 18:26:22 | 体験談・雑記

1980~90年代が最盛期だった創価学会は、その後衰退の一途を辿り、現在は非常に残念な状況となっています。私と同世代の20~30代の青年部の活動家は、どこの組織でも壊滅状態であり、創価学会は完全に次世代の後継者育成に失敗していると思います。

現在の婦人部・壮年部の層に熱心な活動家が集中し、その次の世代にポッカリと穴が開いている原因はどこにあるのかと考えてみると、以前、この世代間の違いについて、時代背景やワークライフバランスの変化、宗創問題、インターネットの普及による高度情報化社会の到来など、様々な要因を挙げさせて頂きましたが、内的要因に限って言えば、池田大作中心主義に過度に傾倒したことが非常に大きいと思われます。

 

池田氏が尊敬を集めるのは、稀代の指導力と他に類を見ないカリスマ性を併せ持っているがゆえですが、どこにでもいるような病弱な青年が、戸田会長と出会い、信心に励んでいく過程において人間革命を果たし、権力から迫害されながらも創価学会を大発展させ、世界中に民衆の連帯を広げたという、絵に描いたようなサクセスストーリーを体現しているからです(創価学会によるプロパガンダも含まれていると思いますが、そこは置いておきます)。

つまり、創価学会にとって、池田氏以上に分かりやすい信心のモデルケースはありません。難しいことは分からないという人であっても、池田氏のヒストリーを聞けば、凄い人だと言うことが直感的に分かりますし、「この信心に励めば、池田先生のように人間革命を果たすことが出来るんだよ!」と折伏されれば、これに説得力を感じる人もいるでしょう。そうして、熱狂的な池田教信者になったのが、現在の婦人部・壮年部というわけです。

 

このように、「池田教」として、爆発的に信者を増やした創価学会は、池田大作を神格化すれば、いとも簡単に会員をマインドコントロールできるということに気がつき、その次の世代にも同じ手法を用いれば、創価学会の勢力を維持・拡大できると踏んだんでしょう。しかし、これは完全に誤算だったと思います。

 

1.2世・3世会員にとっての信心の模範

まずですね。2世・3世会員にとっての信心の模範とは、本や新聞の中に出てくるどこの誰だか分からないお爺ちゃんではありません。親です。親の姿を見て、色んなものを感じ取るのです。親のことを尊敬できるからこそ、その親が尊敬しているという池田大作のことも尊敬できるんです。

しかし、創価学会では、年がら年中、活動家を酷使しており、家庭はないがしろにされる傾向にあります(最近は緩和されていると聞きますが)。我が家でも、父親は育児を母親に任せて学会活動に奔走。夫婦間でのいざこざが絶えず、口を開けば喧嘩をしていた記憶があります。私がまだ赤ん坊だった頃、父親が抱っこをすると、私が泣き叫び、それにショックを受けた父親は、それ以降抱っこをしなくなったと聞きました。家庭内の空気は冷めきっていたと思います。そういった家庭がゴロゴロあります。

私は創価学園出身でしたが、同級生の中には、有名な幹部になった人や本部職員になった人もいます。しかし、その一方で、創価学会に反感を抱き、池田大作のことを嫌っている同級生もたくさんいました(その当時の私は、好きでも嫌いでもない…という感じでしたが)。まだ中学・高校生ぐらいの右も左も分からない子どもですから、いくら幹部の息子・娘とはいえ、「池田大作のことをよく知らない・分からない」と言うのなら分かりますが、明確に嫌悪感を抱いているんです。「嫌い」「気持ち悪い」と。そういう友人と話をしてみると、決まって親に対する根深い不信感を持っています。

言っておきますが、1人、2人というレベルではありません。私の感覚的には、そういう同級生が学年の半数近くを占めていたと思います。次代の創価学会を担う人材が集う創価学園ですら、そんな有様です。未来部全体を見渡せば、おそらく創価学会・池田大作のことを嫌っているメンバーはもっと多いでしょう。

つまり、池田大作がどうのこうのという前に、創価学会としては、親が子どもに対して信心の模範を示すような家庭を築かなければいけなかったのに、現勢力を保持したいがあまり、家庭環境を崩壊させてでも信心を優先させた点において、大きな誤ちだったといえます。池田大作中心主義の前提の理解からして、無茶苦茶だったと思います。

 

2.池田大作に対するシンパシー

そして、肝心の池田大作についても、今の若年層にとってシンパシーを感じる対象ではありません。話を聞いて、凄いことをした人なんだろうなぁーということまでは理解できたとしても、「この人を人生の師と定めよう」とまでは思えないのです。

その理由のひとつとして、池田大作が信心に励み、創価学会を大拡大させた時代と、今の時代とでは社会情勢が違い過ぎるという点が挙げられます。戦後の混乱期を経て、当時弱小勢力だった創価学会が、国家権力から虐げられつつも、民衆の連帯を拡大させていったという経緯を生で見ている親世代は、池田大作の偉大さを肌で感じているかもしれないですが、既に日本国内において大発展を遂げた後の巨大組織・創価学会しか知らない世代にとって、「国家権力に立ち向かった」「民衆の連帯を広げた」と言われてもピンとこない人の方が多いと思います。何故なら、創価学会・公明党はもはや「権力側」の組織であり、会員数にしても日本国内において頭打ちとなっているからです。つまり、自分たちの信心の向かうべき方向性を池田大作の足跡に投影できないのです

そのような池田大作を「永遠の指導者」とし、「今の創価学会があるのは池田先生のおかげ」と言われても、「あ、そうw」と冷笑する2世・3世会員の方が多いのは頷けます。例えるならば、無理やり入学させられた学校の創立者のことを尊敬しろと言われているようなものです。「この学校で勉強できるのは、創立者のおかげだ」と言われても、今の学校運営とは関係のない過去の人であるうえに、そもそも望んで入学したわけでもありません。どう考えても尊敬できない方が自然でしょう。

 

3.池田大作を師と仰ぐ弟子たちの直情的な思考

しかも、池田大作を師と仰ぐ親世代は、基本的にあんまり深いことを考えていません。「学がない」とか「まともな教育を受けていない」とか、そんな差別的なことを言っているのではなく、世間的に見てもあまりに直情的な思考を持っているように思うのです。

例えば、あるとき、父親に「なぜ、それほどまでに日顕が憎いのか?」と聞いたことがありました。すると父親は、宗創問題で揺れていた時代に参加したある会合の席上、日顕が、深々と頭を下げる池田先生を無視したというエピソードを披露し、あの時の日顕の顔は悪魔のような相だったと言うのです。隣で聞いていた母親も、「あの瞬間、私もおかしいと思った」と同調します。だから日顕が許せないと言うわけですが、私からすると、池田大作を無視したという事実が、日顕上人を憎む根拠になる理由が分かりません。

その場にいないので、当時の状況は知りませんけど、そもそも、無視というより、日顕上人に対する不信感が増長されて、「自分たちが愛してやまない池田先生を無視した」という姿に歪んで見えたようにも聞こえますし、無視したという一事をもって批判するのはあまりに直情的に過ぎると言いますか、池田大作が絡むと、人が変わったように感情的になる姿を見ていると、逆に、「池田大作に感化された人は、こんな考えになってしまうのか?」と疑問すら感じます。

私は、そんな弟子たちを大量に生み出した池田大作に対して尊敬の念などありませんし、師と仰ぐこともありません。つまり、今の若い世代は、池田大作の弟子たちの振舞いに疑問を抱き、余計に池田大作に対する疑念・不信感を募らせるというサイクルになっているように感じます。

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非活になるための交渉術

2017-12-27 18:36:08 | 体験談・雑記

非活になりたいと思っても、組織との繋がりを断ち切ることができず、悩み苦しんでいる方も大勢いらっしゃると思います。「仕事が忙しくて…」「今子育てが大変で…」と、色々理由を考えて、それを伝えてみるものの、「人間革命するチャンスだよ!」「今、信心が試されている時だよ!」などと、全て信心に結び付けて指導された経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。正直に、「活動に疑問を感じています」と伝えれば、もっとややこしくなることは簡単に想像できますね。

本来、信仰は自由なのですから、活動をしたくないなら、その意思が尊重されて然るべきなのですが、残念ながら、創価脳に染まっている人に世間の常識(世法)は通用しません。つまり、正攻法でいっても奏功することはなく、むしろ逆効果になってしまうおそれもあります。

 

まず、創価脳に染まっている活動家がどういうことを考えているかと言いますと、彼らはノルマを達成することに必死で、自身の宿命転換・人間革命を懸けて、本流数、選挙のF・K、財務の金額、新聞啓蒙のポイントなどの数字と戦っています。上から課せられたノルマを達成することが、広宣流布に繋がり、引いては自身の人間革命にも繋がるという思考回路です。大抵の活動家は、池田先生のことが大好きであり、池田先生と呼吸を合わせて戦うことを信条とし、池田先生にお応えすることを最高の喜びとしています。

そのような活動の過程で、友人や非活の部員さんと接することになりますが、相手がどのような意見を持っていようと、創価学会・池田先生の正義を訴えていくことが使命だと考えており、「今は分からなくても、いずれ分かってくれる日がくる」と信じています。相手の幸福を祈ってることは間違いないと思いますが、最終的に行き着く先は、相手の思想を変えることです。池田先生は、キリスト教やイスラム教の指導者との対談を通じて、宗教や文化の多様性に寛容な世界宗教を志向されていますけど、現場の末端学会員の活動はそれとは真逆です。

また、なかなか結果が出ないと、「まだまだ祈りが足りない」「自身の弱い生命が出ている」と、自分を追い込んでいきます。祈りは全て叶うと信じているので、自分の願ったとおりに事の運ばない状況が許せず、「願ったとおりになった」「私は勝った」という満足感・達成感を欲しています。世間から見れば、単なる独善・エゴですが、創価脳に染まっている人は、それをエゴだとは思っていません。

彼らのコミュニティは非常に狭く、創価学会内部で流通している情報に極度に依存しています。加えて、創価学会・池田先生に対する外部の批判に全く聞く耳を持ちません。何故なら、世界中から賞賛されている池田先生に嫉妬した輩が、創価学会・池田先生を陥れるためにデマを流していると本気で思っているからです。さらに、日々の活動に疑念を抱くことは、信心が足りない証拠だと指導されているため、たとえ疑問を感じることがあっても、強大な組織の力によって、速やかに思想矯正されます。

 

中には疑問を感じながら活動をしている人もいると思いますし、皆が皆、上記のような創価脳に染まっているとは言いませんが、信心強盛なバリ活はそんな感じでしょう。そのような思考に陥っている人に対して、「仕事が忙しくて~」「育児が大変で~」というのは理由になっておらず、全部信心で乗り越えられると言われるのがオチです。彼らの中で、創価学会の信仰とは、「不可能を可能にする宗教」だからです。

以上を踏まえますと、このような創価脳に染まっている人と、学会活動のスタンスをめぐり、会話が噛み合うことの方が少ないと思われます。向こうは、信心で困難を乗り越えようと主張し、非活になりたい人は、その信心自体がもう嫌だと思っているのですから。そこで、私は、非活になるにあたって、組織の人との会話を「交渉」だと考えることにしました。すなわち、お互いの意見・利害が食い違っている状況において、妥協点を探るという作業です。以下、私が交渉の際に重要だと考えている点を書いてみます。

 

1.お互いの利害対立状況を把握する。

双方の利害が一致している場合、交渉は必要ありません。例えば、売り手が、ある商品を1万円で売りたいと考えているのに対し、買い手が、その商品を1万円で買いたいと考えていた場合、値段の点だけで言えば、すんなり売買が成立することに疑いはありません。

これに対し、買い手が、その商品を「7,000円だったら買っても良い」と考えている場合、交渉の余地が生まれます。お互いの利害が衝突しているからです。売り手の言い値である1万円で取引すると、「7,000円だったら買っても良い」と考えている買い手にとっては、3,000円分を余計に支払っているので、3,000円の損失ですし、逆に、買い手が希望している7,000円で取引すると、本来1万円で売れるはずだったのに、7,000円でしか売れなかったのですから、売り手にとっては3,000円の損失となります。かと言って、「取引をしない」という選択をすると、売り手は一銭も取得できず、買い手も商品を入手できないので、これまたお互いにとって損失となります。そこで、どこまでだったら値段を譲歩できるかという交渉を行い、売り手・買い手双方の利益が最大となる妥協点を探すことが求められます。

学会活動に置き換えますと、組織は、「信心を根本にして、学会活動に励んで欲しい」と考えている一方で、非活を望んでいる人は、「一切活動をしたくない」と考えています。もし、組織の言うとおりにしますと、一切活動をしたくないと考えている人にとって大きな損失ですし、非活を望んでいる人の言うとおりにしますと、学会活動に励んで欲しいと考えている組織にとって大きな損失となります。双方の利害が大きく対立していることが分かるかと思います。

通常、ここまで双方の利害が対立している場合、交渉の余地はありません。ビジネスだったら、「ご縁がなかった」ということで、その時点で交渉を打ち切ります。学会活動でも理屈は同じであり、本来であれば、「そんな条件飲めません」と断れば済む話なのですが、創価学会は、そんな簡単に交渉を打ち切らず、自分たちの条件で納得させようとしてきます(だからこそ、非常識だと言われるのですが)。

つまり、状況を整理しますと、①交渉の余地がないほどに双方の利害は大きく対立しており、②にもかかわらず、交渉の席から離れることが許されず、自分たちの条件で承諾させようとしてきている状況です。これが前提となります。

 

2.意思表示(結論)は明確且つ簡潔に行う。

交渉の場において、一番やってはいけないことは何だと思いますか?それは、自信がなく弱々しい小さな声で話すことです。こちらに自信がないと、「この交渉は有利に進められる」という印象を相手に与えてしまいます。逆に、交渉の場において、めちゃくちゃ自信ありげにハキハキ話す人は、「この人は手強そうだ」という印象を相手に与えます。不自然なほどの大声で、「今後、活動はしません!」と叫ぶ必要はないですが、少なくともこちらの意思が固いということが分かるぐらい、しっかりとした意思表示をすべきです。

また、自信がない人ほど、話が長くなる傾向にあります。不安だから色んな言葉を付け加えて、自分の主張を補強しようとするのですが、聞いている側からすると、ただ話が冗長なだけで、「結局何が言いたいの?」と思われてしまい、交渉が難航する原因になりかねません。余計なことを言う必要はなく、「仕事が多忙になってきたので、今後活動はお休みします」という一言だけでいいのです。意思表示(結論)は明確且つ簡潔に。これが交渉の基本です。

 

3.自分の方が有利な立場にあるということを意識づける。

上記のように意思表示をしたところで、もっと詳しい事情を聞いてきたり、「でもね…」と説得されることになると思います。

しかし、冷静に考えてみてください。本来交渉を破棄してもいいところなのに、わざわざ交渉に付き合っているのですから、こちらの方が圧倒的に有利な立場のはずです。ビジネスにおいても、あまり乗り気じゃない取引先に対し、営業提案をしている方が立場的に弱く、不利な条件を飲まされやすい状況にあります。

ところが、活動家は自分たちの方が交渉において弱い立場にあるということが分かっておらず、勘違いした状態のまま、強気なことをバシバシと言ってきます。そこで、「対等な立場ではない」「こちらの方が交渉において有利な立場にある」ということを、相手に気づかせることが必要になってきます。例えば、「もう私の結論はお伝えしましたので、これ以上話すことはありません」「〇〇さんの言い分は分かりましたが、私の結論が変わることはありません」と、一方的に話を切り上げることなどがこれに当たります。別にこちらとしてはこれ以上話をする必要がないからです。

しかし、活動家としては、相手の非活宣言を認めたということになりかねないため、そこで話を切り上げられたら非常に困ります。それゆえ、交渉を続けるためには態度を軟化せざるを得なくなります

 

4.相手の勝利であるということを印象づけて最小限の譲歩をする。

「一切活動をしません。これが私の結論であり、何を言われたとしても、私の結論は変わりません」と告げ、相手がそれに納得したら、(本来勝ち負けではないけれど)交渉はあなたの勝ちです。そこで交渉は終了します。しかし、それでも執拗に説得してくる場合、あくまでも自分の意見は曲げないという方針でも良いですが、相手の勝利であるということを印象づけて最小限の譲歩をするという方法もあります。

例えば、「分かりました。〇〇さんがそこまでおっしゃるのでしたら、座談会と本幹同中への参加はお約束します。ただ、それ以外の活動は一切しません。それでいかがですか?」と、こちらの態度を軟化させ、最小限の譲歩をするのです。実のところ、これはほぼ非活と変わりないのですが、この条件を飲む可能性が高いです(現に、私はこういう交渉をしていました)。何故なら、上述のとおり、この交渉はこちらの方が圧倒的に有利であり、相手はこれを拒否する余地がないからです。また、「完全非活宣言」をしていた者に「最小限の活動」を譲歩させたという点で、相手の部分的勝利ですので、この結果に満足する場合が多いと考えられます。最悪のケースは避けられたという安心感もあるでしょう。

これは、交渉のテクニックでもよく使われるのですが、「あなたの根性には負けたよ」「この議論はあなたの勝ちだ」と、相手が敗北宣言をすると、その時点で、「自分が勝った」と錯覚してしまう心理を利用しています。実は、その後に提示される条件は決してフェアじゃなかったりするのですが、相手が敗北宣言をしたことに満足してしまい、無意識のうちに条件を飲むハードルが下がったりします。「目的のすり替え」と言ったりもします。

 

5.さいごに

こういう交渉術を考えることは邪道だと言えば邪道です。本来、学会活動に疑問を感じているなら、そのことをちゃんと真正面から伝えるべきだと思います。しかし、真正面からぶつかったところで話が通じないことも事実であり、学会活動に忙殺されて、倒れてしまう前に、自己防衛のために、ある程度策を巡らせることもやむを得ないと思っています。

非活になるにあたって、どうしても組織の人が納得してくれない、理解が得られないという場合は、真正面からぶつかるだけでなく、少し視点を変えてみてはどうでしょうか?というお話でした。

コメント (8)

閉鎖的環境下におけるマインドコントロール(+補足)

2017-12-23 02:14:09 | 体験談・雑記

1.最近の記事について

最近の記事についてですが、「~である」調の文体にするなど、非常に読みにくかったと思います。また、テーマとしましても、なんだかよく分からないものが多かったかもしれません。失礼しました。

自分としては、意識的にやっている部分でもあるのですが、アンチとなってから、法律、政治、経営、ファイナンスなどの色んな観点から創価学会を分析し、「創価学会と一般社会との共通点・相違点」などを自分の中で確かめている最中です。何と言いますか、池田氏の指導や御書を引用して、論理を構成しますと、結局、創価学会の思想の域を出ないですし、「外部から見た創価学会」というものを、3世会員である私自身の中でちゃんと築いておくためにも、ああいった記事を書くこともあります。文体につきましては、自分の考えを整理する際、「~である」調の方が書きやすかったりするので、ご容赦ください。。

そのため、学会内部でしか通じない専門用語はなるべく使わないようにしたり、創価系のブログでよく見られるような御書を引用するということもしません(別に仏法の正邪を論じているわけではないので)。当ブログでは、同じような悩み・疑問を抱える2世・3世会員の方を念頭に置き、そのような方たちが、自分の頭で冷静に考えられる契機となることを目的としていますが、もう一つのテーマとしましては、「自分の中での創価学会の再構築」でしょうか。これらについて、よく分からない内容でしたら申し訳ないです。

(この点について、ご指摘頂きありがとうございました!)

 

2.閉鎖的環境下におけるマインドコントロールについて

話は変わりまして、むかーし、「ヴィレッジ」というアメリカの映画を観たことがあり、閉鎖的環境におけるマインドコントロールについて、興味深い題材だと思うので、少し紹介します(ネタばれを含みます)。

この映画は、外界とは隔離された深い森の中にある小さな村が舞台となっており、この小さな村にはある掟がありました。それは、「森の中に入ってはいけない」というものです。森の中には得体の知れない怪物が潜んでおり、村人は森の中に潜む怪物に恐れを抱いていました。その後、村にいろいろと異変が起こるのですが……すみません、途中の内容は忘れました(笑)。

で、結局どういうオチだったかと言いますと、森の外に広がっていた世界は、ただの現代社会。森の外に辿り着いた盲目の村人が、パトロール中の警官に発見されるところで映画は終わったような気がします。要するに、村の大人たちが、現代社会から隔離された平穏な生活を確保するために、「村の外に出るな」「森の中には恐ろしい怪物がいる」と、嘘をついて作り上げた虚構の村だった…というお話です。近代文明から隔離された生活を送っているという点はアーミッシュにも通じるところがありますね。

 

この映画に出てくる村人たちがマインドコントロールを受けていることは一目瞭然なのですが、「彼らは不幸か?」と言われると、はっきり「YES」とは言えない自分がいます。以前、誘拐監禁された少年少女を例に挙げましたが、それと理屈は同じで、他人から見ると、自由を奪われ、監禁者に服従させられている不幸な状況に見えるものの、そのような状況に対して、本人が満足している場合もあるからです。監禁者に服従している限り、自らの生活は保証されていますし、上記の映画で言えば、村の掟を守っている限り、村の平穏は保たれます。つまり、そのような閉鎖的環境に満足している者にとって、自由を奪われることや掟に縛られることは不幸ではありません。

しかし、誘拐監禁されている少年少女や、大人たちから嘘をつかれて閉鎖的な村に閉じ込められている村人たちを「幸福」だとも思えません。外部から見れば、たとえ本人たちがそのような環境に満足していたとしても、それが正常な判断だとは思えないからです。もし、一般人と同じように普通に暮らしていて、色んな情報に接し、色んなことを学び、色んな人と会って、自分自身の人格を発展させていたのであれば、「誘拐犯のもとで監禁生活を送りたい」「外界から隔離された閉鎖的な村で暮らしたい」という生き方を選ぶ人はほとんどいないでしょう。だからこそ、私は、彼らにとって一番の不幸とは、「自由を奪われていること」や「一方的な掟に服従させられていること」ではなく、「自らの生き方を選択するための情報や判断材料が(極端に)偏向していること」だと思っています。

 

何が幸福なのか、何がその人にとっての最良の人生か、それは最終的に本人が決めることです。なので、色んな情報に接し、色んな経験を経て、最終的に、自らの意思で「監禁生活を送りたい」「閉鎖的な村で暮らしたい」と判断するのであれば、「どうぞお好きに」と心置きなく言えます。創価学会に最初に入会した1世会員の方はまさにそのような状況だったのでしょう。しかし、2世・3世会員は、「ヴィレッジ」に登場する村人のごとく、「村の常識」「村の掟」の中で自らの人格を形成・発展させており、自分たちの思想こそ至高だと本気で信じています。外界のことを知らない人たちがあーだこーだと言ったところで、外界の人が相手をするわけがないですね。

「村の掟に疑問を持っているなら、村の外に一度出てみればいい」。これが私の結論です。そのうえで、また村に戻りたいなら戻ればいいし、村の中に閉じ込められることを馬鹿馬鹿しいと思うなら、そのまま村を離れればいい。マインドコントロールを解くためには、結局のところ、「怪物がいる」と脅されている森の中に足を踏み入れるしかないと思います。

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それは正当な説得ですか?断れない人が悪いのですか?

2017-12-20 19:30:00 | 体験談・雑記

学会活動を通して、財務や聖教新聞の多部数購読等を「強要された」と被害を訴える方があとを絶たない。それが原因で非活になったり、場合によっては退会する人もいると思う。これに対し、創価学会を擁護する活動家の方は、「強制している事実はない」としつつ、次のような論理を展開されることが多いように思う。すなわち、「創価学会も組織としての動きがあり、会員を説得することはある。強制しているわけではないのだから、嫌ならはっきりと断れば良い」と。そして、「良い歳をした大人が、その場で拒否することができず、後になって、強制されただの、嫌な思いをしただの、マインドコントロールを受けていただの、愚痴をこぼすのは幼稚だ」と非難をしたりする。

私は、この非難について、どうしても「説得」という言葉を巧妙に使って、自分たちを都合の良いように正当化している印象を受けてしまう。私がなぜそう思うのか、以下理由を述べる。

 

まず、創価学会の会則第74条によれば、「会員は、活動の基本として、この会の教義を遵守し、「三代会長」の指導・精神に則り、この会の指導に従い、この会の目的達成のため信行学を実践する。」と規定されている(教義に関しては第2条、会の目的については第4条に定められている)。ここでいう「信行学」というのが何を指すのか、会則だけでは明確ではないが、少なくとも新入会員については、①勤行・唱題を実践している、②聖教新聞を3ヶ月以上購読している、③定例の座談会に2回以上を参加している、という「3項目の実践」が前提条件となっており(創価学会公式サイトより)、既存の会員についても、これらの3項目は当然実践すべき項目ということになるんだろう。

それ以外の実践項目としては、私が知る限り、御書の研鑽、友人への仏法対話・折伏、本幹同中への参加ぐらいだろうか。他にも、役職につけば、部員さんへの会合連絡などもあるし、人材グループに入っていれば、各種人材グループの会合などもあると思う(ただし、これらも創価学会員として取り組んでいくべき項目ではあるが、「会員の義務」という話は聞いたことがない)。他方、財務、公明党支援等については、はっきりと会員の任意であると明言されている。もし、これらを会員の義務と定める規定や指導が存在するのであれば教えて頂きたい。

 

以上を踏まえ、実践項目を実践しない会員に対する説得であれば、理屈としては分かる。例えば、勤行・唱題をしない会員に対し、朝晩の勤行・唱題を促すことなどがこれに当たる。会員として実践すべき項目を履践していないのだから、説得すること自体は特におかしいことではない(ただし、実践項目だからと言って、相手の事情も考えずに、強引に説得することが無条件で許されるということにはならない)。

しかし、会員の任意とされている財務、公明党支援等を、組織的に説得することについては訳が違う。やるかやらないかは会員の自由なのだから、当然これを拒否することができるし、拒否したからといって、もちろん会員資格を失うわけでもない。にもかかわらず、当然実践すべき項目であるかのように打ち出しがあり、これに難色を示したり、応じない会員がいた場合に、組織的に説得すること自体がそもそもおかしい。明らかに、最初から原則と例外を逆転させている。本来「ご協力・ご賛同頂ける場合は、担当幹部までお申し出ください」と打ち出すだけで良いはずだ。なぜこれに応じたくない人が後から申し出ないといけない仕組みになっているのか。逆だろう。

「組織の動きとして、説得することもある」と主張する方は、この点についてはどうお考えなのだろうか。会員の任意とされている項目について、なぜ希望者・志願者を募るという方法をとらないのか、なぜ組織的・個別的に説得を行うのか、その理由を明確にご説明頂きたい。

 

私は、以上のように、会員の義務ではない項目を、組織的に説得すること自体におかしさを感じており、組織的に説得するのであれば、最初から会員の義務として定めればいいじゃないかと思っているが、百歩譲って、説得行為に及ぶことを是認するとしても、「嫌なら断ればいい」「その意思表示をせずに後から文句ばかり言っているのは幼稚」という言い分は、自分たちの非を棚に上げて、相手方を一方的に非難する卑怯な言説だと思う。

「嫌なら断ればいい」という理屈は、親しい友人間の話であれば分かる。力関係・パワーバランスが対等なケースが多く、明確に嫌悪感や拒絶意思を示しやすいからだ。しかし、社会に出れば事情は異なる。学校なら先輩と後輩、会社なら上司と部下といった社会生活上の上下関係や力関係の優劣が存在する。昨今、このような力関係の格差から生じる「イジメ」や「パワハラ」が社会問題となっており、力関係的に下の立場にある者が、不当な扱いを受けないように、国をあげてセクハラやパワハラの規制に乗り出し、労働者によるセクハラ・パワハラの主張を認容する裁判例も多数出されている。現代のコンプライアンス意識は一昔前と比較しても明らかに変容している。

もちろん、創価学会は学校でも会社でもないし、無償で学会活動に従事している会員は労働者でもない。しかし、創価学会という限定されたコミュニティの中において、現に役職等による上下関係はあるし、事あるごとに幹部が「指導」と称して会員の信仰に口出しをしている体制から見ても、むしろ、一般社会よりも創価学会の方が、組織内部における力関係の優劣が如実に現れているとさえ思える。つまり、創価学会にとって、世間で騒がれているパワハラの問題は決して対岸の火事・他山の石ではなく、自らも当事者として直面している問題である。このような状況において、「嫌なら断ればいい」と論難する人は、自らの行為が「パワハラ」に当たるかもしれないという認識がなく、コンプライアンス意識が絶望的に欠如しているんじゃないかと思う。

学会内部で行われている説得行為の全てがパワハラだとか、そんな極端なことは言わない。中には、ちゃんと誠心誠意をもって、会員を説得しているケースもあるだろう。ただ、その一方で、幹部から強く迫られて委縮してしまったり、組織内での人間関係に支障が及ぶことを恐れ、波風を立たせないように、嫌々ながらも説得に応じた会員さんもいたはずだ。そういう会員さんが事後的に「強要された」「嫌な思いをした」と言うことに対して、「その場で拒絶の意思表示をしないのが悪い」「了承しておいて、後から愚痴をこぼすのは幼稚」と批判するのはあまりにも一方的な言い分ではないか。自分たちの説得行為は、社会倫理的に非難されるものではなく、全面的に肯定されるとでも思っているのだろうか。役職や組織内での立場を利用した説得になっていなかったか。強引な言い方や有無を言わせない説得になっていなかったか。人間関係に支障が及ぶことを恐れる会員さんへの配慮は欠けていなかったか。そういった考慮を全てすっ飛ばし、「ただ説得しているだけ」と自分を正当化する方が幼稚だ。

 

もう一つ。「ネット上で愚痴を吐くことは単なる自己満足」「批判することが目的化している」と主張する人もいるが、それを言うんだったら、汚い言葉で日蓮正宗や造反者たちを批判しているのも創価学会の自己満足であるし、批判それ自体が目的化していると思うのだけれど(日顕宗撲滅など言いつつ、一向に撲滅出来ていないし)、それについてはどう思うのだろう?自分たちも組織をあげて他者の批判を行っているけれど、それとこれとは違うと言うのだろうか?違うというなら、どこがどう違うのか?自分たちだけは特別とでも言うのか?

 

最後に、ノルマ至上主義に侵されている上の幹部になればなるほど、相手の事情や気持ちを無視した強引な説得に及びやすく、誠意ある説得などほとんどなかったと言ってもいい(そういう幹部を目にしてきたからこそ、今回の記事を書いたわけだが)。この点については、自身の体験談を踏まえて、また別の機会に書かせて頂きたいと思う。

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