活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

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財務について思うこと

2017-11-30 19:33:56 | 体験談・雑記

私は、バリ活時代ですら、大した財務をしたことがない。最小ロット1万円を2、3回したことがあるだけで、疑問を感じ始めてからは、財務を完全に拒否した。「選挙支援をすれば功徳がある」という理屈と同じで、「財務をすれば功徳がある」というのも、全くもって意味不明だったからだ。

財務を完全に拒否するようになってから、事あるごとに母親が食って掛かってくる。「財務をしても功徳なんてないし、真心がないのでやらない」と言うと、「財務をすると、それが2倍、3倍になって返ってくる」とか「〇〇さんは、三桁の財務をした翌年に家が建った」とか、現世利益をやたらと説いてくるが、「そんなものが欲しくてこの信仰をやっているのか?」とツッコミを入れたくなる。しかも、その理屈でいうなら、お金持ちは多くの恩恵に与ることができるが、財務をする経済的余裕のない人はその恩恵に与れないことになる。信仰面でも経済格差が生まれるわけだ。へぇー、そんな宗教だったのか。

極めつけは、「あんたの名義で、私が振込んでおく」と言う。なんでそこまでして、財務にこだわるのか意味が分からず、狂気すら感じるが、もはやそんなもの「真心」でもなんでもない。本人に全くその気がないのに、本人の名義を使って、お金を振込めば、それは「真心の財務」で、本人にも功徳があると本気で思っているのだろうか。おそらく、そう思っているからこそ、私に対し、「感謝しなさい」と言ったのだろう。創価脳の人と相容れることができない部分はそういうところだ。

 

ちょっと言いたいのだが、「功徳」を餌にして、学会員さんに財務をさせるのはもうやめないか?財務の額で、信心の強さが決まるという風潮も。単純に、「創価学会は、学会員さんの財務によって成り立っており、創価学会という組織を維持・拡大し、広宣流布を進めていくためには、一定の資金が必要となります。もし、ご協力頂けるのであれば、可能な範囲で寄付をお願いします」という説明だけでよくないか?功徳がどうのこうのと言い出すから、話がややこしくなっていると思う。資金が必要なのは間違いないし、私自身、会館に設置されている給茶機やコピー機を無償で使用させてもらっていたし、そういう経費を会員に一部負担させるという考え方が分からないでもない(学会活動は無報酬だけどね)。

ただし、その場合でも、事業年度ごとの事業計画や予算を示し、最終的に収支報告を出すことが前提だ。創価学会の財務状況が明らかとなれば、学会員さんとしても、「うん、内部留保が十分にあるね。今年度の収支と来年度の予算を見ても、預貯金だけで十分足りているから、何口も財務をする必要ないな」といった判断が可能となる。また、無駄な支出や削減できる経費なども明らかとなり、健全な会計を実現・確保できるようになる(外部機関による会計監査を実施するなどして、財務諸表等の正確性が担保されていることが前提だが)、実際、財務状況を公開している宗教法人もある。そのような開示をしていないのに、毎年のように、財務を要求するのは、過剰に年貢を取り立てる悪代官と同じではないか?何もやましいことがないなら、それが出来ると思うのだけど?

 

そういう判断材料を与えたうえで、学会員さんが本当に任意で財務をするなら、別にしたい人はすればいいと思う。そこに対して、功徳があると思うのも自由だし、他人が否定することでもない。功徳という見返りが欲しくて財務をやっているわけではないという人にとっても、より親切じゃなかろうか。まあ、絶対に学会は財務状況の開示なんてしないだろうが。

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「人材拡大」をアピールし続ける砂上の楼閣

2017-11-27 19:38:05 | 体験談・雑記

前置きが長くなるが、個人的にも凄く印象的な出来事だったので、少し詳細に書く。

学生部のバリ活時代、新しく学生部にあがってきた部員さんがいるということで、家庭訪問をしたときの出来事。インターホン越しに父親が応答されたのだが、「こんにちは。学生部の〇〇です」とのこちらの挨拶に対し、「は?なに?学生部??」という鈍い反応が返ってきた。片親が未入信というケースもあるので、別にこのような反応は珍しいことではない。そういう場合は、「創価学会の学生部の者です」などと言い直すと、大抵の場合は、「ああ、創価学会ね…」と納得された様子になる。

しかし、このときは、「創価学会?え?なに?だれ?」と、なお戸惑われた様子だった。住所も表札の名前も間違っておらず、すぐに「これはおかしい」と察したものの、どうしていいのか分からない。お互いが戸惑っているという状況だ。いや、こちらの状況はさておくとして、訪問された相手のことを考えれば、かなり異常な状態であることは間違いない。いきなり「創価学会学生部」を名乗る見知らぬ人物が家を訪ねてきて、しかも自分の息子のことを知っているのだから。

しばらくすると、怒りの表情を浮かべた父親が、玄関の外まで出てこられ、「息子に聞いたが、創価学会なんて知らんと言うとるぞ。お前、誰や?」と、こちらを睨みつける。私は、この時点である程度察していた。おそらく、母親は入会しているが、そのことを家族には告げておらず、自分の息子を勝手に入会させた(ことにしている)のだろう。そのため、統監上、息子さんの名前は上がってくるが、本人に全くその自覚はないというわけだ。「ご家族の中に、創価学会にご入会されている方はいらっしゃいませんか?」と質問してみるものの、「おるわけないやろ」との返事が返ってきたため、完全にこちらの手違いだったと何度も深く謝罪し、その場を後にした。

 

その後、壮年部の方から連絡がかかってきたが、やはり私の想像した通りだった。母親は入会しているものの、そのことを家族には打ち明けておらず、御守り本尊を隠し持ち、会合にも内緒で参加しているという状況だった。壮年部・婦人部では、家庭訪問NGとなっていたが、この情報は学生部には下りてきていなかった。

この話を通して、「もっと四者間で連携をとるべき」とか、そういう組織の問題を言いたいのではない。別に、未入信の父親から凄まれたことなど、どうってことはないし、その後、母親から謝罪の電話もかかってきたが、全く迷惑とも思っていないので、「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」と謝られても、対応に困る。

 

本題に入る。ここでの問題は、子どもが知らないうちに創価学会に入会させられているという事実だ。

私も、学会3世として、生後1ヶ月ほどで、自らの意思とは関わりなく、無理やり入会させられているが、仮に、創価学会のそのような慣行に従うとしても、子どもに対して何の説明もないというのはバリ活時代ですら理解できなかった。子どもを入会させて、一緒に信心に励んでいこうとするならば、まだ理解できないわけでもない。私は、親が自分の思想を子どもに押し付けることに反対であるが、子どもの幸せを思う気持ちからくるものであれば、親の行動心理として説明できないこともないからだ(それでも反対だが)。

しかし、子ども自身が入会させられているという事実を知らず、その認識もなく、現に信心をしていないなら、何の為に入会させたのか意味が分からない。どのような経緯で子どもを入会させたのか知らないが、壮年部・婦人部もこの点を知ったうえで黙認しているのであれば、人材拡大をアピールするための会員数の水増しが目的だったとしか思えない。

 

マインドコントロールが解け、アンチとなった今、このような状況を冷静に考えると、創価学会が人材拡大・青年部拡大を目標に掲げ、「本年も大拡大を達成した」「陸続と新しい人材が躍り出ている」などと必死にアピールしているのは、はっきり虚勢だと思うし、そのような現実とかけ離れた理想の創価学会の姿は、いつ消え去ってしまうか分からない「蜃気楼」や「砂上の楼閣」のようなものだ。

上記のように、本人の知らないところで勝手に子どもが入会させられているという例は、ほとんどないと信じたいが、そうでなくとも、形だけ入会している(させられている)というのが大半かと思う。少なくとも私の地元組織では、家庭訪問をして話ができる部員さんであっても、自分が学会員であるという認識すらない学生部員・男子部員がほとんど。「親がやっている宗教」としか思っていないし、会合参加はおろか、勤行唱題すらしないという部員さんが大多数だった(そもそも会えない部員さんが圧倒的に多いが)。一体どこの組織で、新たな人材が陸続と躍り出てて、大拡大を達成したのか教えて欲しい。

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改めて当ブログのスタンスや考え方について。

2017-11-24 18:05:17 | ブログ概要

以前、「何のためにこのブログを書いているんですか?」という趣旨のご質問を頂いたことがある。同時に、「貴方の書いている事は、わざわざ書かなくても、創価学会員ならわかってますよ。」とのコメントも添えられていたので、その方からすれば、私の書いていることはかなり当たり前のことを書いているように映ったのだと勝手に想像する。

これに対し、私は、「自分と同じような疑問を感じている会員の方が、当ブログの記事に目を通した際、「自分だけが感じていた疑問じゃないんだ」と思えるような情報を発信し、マインドコントロールを解いたり、自分の頭で冷静に考えられる契機となれば幸いです」と回答した。それだけが目的ではないけれど、一番の目的はやはりそこだ。本日は、このようなブログの目的について、自身の体験を踏まえつつ、改めて整理・明確化しておきたいと思う。

 

私自身、創価に疑問を感じ始めた頃、どうやって疑問を解消すればいいのか全く分からなかった。「おかしい」と感じつつも、その先を詮索してはいけない、これ以上創価学会や池田先生を批判するようなことを思ってはいけない、と頭の中でストッパーがかかってしまう。幼少の頃から、「創価学会や池田先生を疑うこと・批判すること」は「絶対にしてはいけない」というMCを受けていたからだ。かと言って、先輩や幹部に相談しようとも思わなかった。相談したところで、「死ぬ気で祈ってる?まだ全然足りないよ」「〇〇くんにとって、池田先生との原点はなに?迷ったら原点に戻ろう」といった(お馴染みの)似たような指導を受けることは目に見えていたし、何の解決にもならないと分かっていたから。そんな決まりきった飾りの言葉なんか要らない。

そうなると、行き着く先はインターネット上の情報となる。ただし、「創価撲滅!」などの過激な言葉を掲げているウェブサイトを覗いてみようという気にはならなかった。そういうネット上の情報はデマばかりというバイアスがかかっているうえに、上記のとおり、「疑問の先を詮索してはいけない」という感情が心を占めているため、「今、自分はとんでもなく悪いことをしている」という気持ちになって、思わずウェブページを閉じてしまう。そういうウェブサイトは、疑問を感じ始めている学会員さんにとっては有益ではないと悟った。

すると、自然と最後に行き着く先は、個人の方が運営されている「ブログ」になる。ブログでは、取り留めもない体験談が書かれていたり、創価に対する疑問や批判などが、その人の「生の言葉」で書き綴られていたりする。そして、恐る恐る覗いてみたパンドラの箱の中にあったものは「共感」だった。学会内部で見たこと、聞いたこと、感じたこと、その全てが共感できる。誰も口にしなかった創価の真実が書かれていると直感し、「この人は嘘は書いていない」と直ぐに分かった。すると、「他の記事も読んでみよう」となり、他の記事を読んでみると、これまた共感できる。たまたま共感できる人だっただけかもしれないので、他の方のブログも読んでみると、他の方のブログ記事も共感できる。その次も、その次も。このような共感を積み重ねていくと、「自分の感じていた疑問は、自分だけではない」ということが段々と分かってきた。

ここまでくると、もう半分以上マインドコントロールは解けているも同然で、前まで「疑問を感じても、その先を詮索してはいけない・考えてはいけない」と思っていたのに、インターネット上の情報を調べることも、自分の頭の中で批判的な意見を構築することも平気になっていた。今まで抑圧されていた内なる感情が爆発したと言うべきだろうか。そういう作業を一定期間繰り返しているうちに、気がつけば、マインドコントロールは完全に解けて、すっかりアンチとなっていた。創価の呪縛から抜け出すことができたのは、ひとえに個人の方が運営されていた数多のブログのおかげである。本当に感謝の念が絶えない。

 

以上の経験を踏まえ、たとえ当たり前のことだろうが、それをブログで書くことには大きな意義があると思っている。人によっては、「当たり前のことだな」「そんなこと、とっくに知ってるよ」「聞き飽きたよ」と思うかもしれない。だけど、それが刺さる人もいるかもしれない。私は、当ブログに訪れた人のうち、たった1人でも共感してくれる人がいるなら、それで良いと思っている。

また、おこがましいかもしれないが、私は3世会員として、幼少の頃からマインドコントロールを受けて育った人の置かれている状況や気持ちが多少なりとも分かっているつもりだ。40~50代の壮年部・婦人部の方に私の言葉は刺さらないかもしれないが、同じく学会2世・3世会員として生まれ育ち、学生部や男子部の活動に疑問を感じ始めている同世代の方に対してなら、共感できる記事を提供できるかもしれない。創価に疑問を感じ始めている学会員に対し、疑問を解くための判断材料を提供する数多のブログ群の歯車のひとつになれたらそれで良い。かつて、自分が読ませて頂いたブログと同じように。

 

最後に、上記コメントを書いた方から、ランキング1位のブログから見たら笑われますよ(?)…というご意見も頂戴したが、ブログランキングなんかどうでもいい。別に、創価カテゴリーで1位になりたくて、ブログランキングに登録しているわけではないし、他のブログを運営されている方の当ブログに対する評価もどうでもいい。言論の自由が保障されているのだから、批判したいならお好きにどうぞ、というだけの話だ。創価の教義について論じたいなら、そういう趣旨のブログにすればいいし、政治のことを書きたいなら、政治系のブログにすればいい。ただひたすら愚痴を書きたいだけならそれでも良いと思う。他方で、活動家の方が創価学会を賛美するブログを書くのだって自由だ。創価について悩んでいる人にとって判断材料は多い方が良い。それらの情報を収集したうえで、自身の頭で正邪を判断することができれば。一番由々しきことは、創価を批判する意見を知らない状況の中で、創価は正しいと思い込んでいることだと思う。

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会則を変える前にしょうもない伝統を変えたら?

2017-11-17 19:29:46 | 体験談・雑記

今、おそらくどの組織でも青年部の人材が不足し、組織の後継者が育っていないという問題に直面しているものと思われる。実際、私が属していた組織もそうだったし、他の方のブログを拝見していても、若い人がいないという趣旨の記事をよく見かける。

そして、「人材難のしわ寄せ」が、男子部や女子部に降りかかっているように思う。これには2つの原因があり、1つは、今申し上げたように、「人材がいない」という点。もう1つは、「にもかかわらず、(人材が豊富だった)昔と同じことを続けていること」が原因だと思う。要するに、100の業務量を10人で捌くなら、1人当たりの作業量は100÷10=10だが、これを3人でやるとなれば、100÷3≒33となる。工数自体は変化していないのに、作業員数が減れば、1人当たりの作業時間や労働負担は増える。少し考えればすぐに分かる。

このような状況を打開するためには、工数を減らすか、人を増やすしかないが、創価学会には前者の発想がなく、後者を強いている。新しい人材を発掘して、活動家として育成することを現場に求めるのだ。しかし、そんな簡単に人材なんか見つかるわけもなく、活動家はどんどん疲弊していって、最後には潰れる(そういう人を何人も見てきた)。この負のスパイラルに陥っている。

 

こういう様子を見ていると、「創価学会はバカなのか?」と思う。今いる活動家を大切にしていないのに、次の活動家が陸続と誕生するわけがない。昔から続くしょうもない伝統は若い世代に押し付けつつも、自分たちにとって都合の悪い会則などは直ぐに変える。本当にご都合主義の塊のような組織だ。怒りを通り越して呆れる。

別にこんな組織潰れてくれて一向に構わないが、残念ながら創価の欺瞞に気づくことができず、今なお学会活動に勤しむ学会員さんに思いを致すと、せめて日々の活動の無駄を省くなどして、業務を効率化し、活動家の負担を減らしてあげればどうなんだ?と思う(もちろん、活動から離れるのがベストだと思うけれども)。何のためにやっているのか分からない会合は全部廃止するとか、選挙活動は公明党員がやるとか。会則を変える前に変革しないといけないことはたくさんあるんじゃないだろうか。

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創価班会とは何だったのか。

2017-11-15 19:14:22 | 体験談・雑記

私にとって、数ある会合の中でも、創価班の会合(創価班会など)は特別なものだった。外部の人からすれば、創価学会自体がブラックボックスなので、「何をやっているのか分からない」というのは当然だと思うが、学会員さんであっても、創価班ではない場合、創価班が普段どのような会合をやっているのか知らないという人もいるかもしれない。そこで、私が経験した創価班会の様子を少し紹介し、創価班や創価班会とは一体何だったのか、自分なりにまとめてみたいと思う。

なお、あくまでも私が属していた創価班の話なので、他の組織では全く違う雰囲気なのかもしれないし、会合進行や指導の内容も異なるかもしれない。そのような可能性があることにご留意頂きたい。また、記事中に登場する名前は全て仮名・架空人物である。

 

最初に結論から申し上げると、終始笑いが絶えない楽しい創価班会など無かったと断言する(そもそも、創価班員の気を引き締めるために実施しているようなものなので、楽しい要素など皆無なのだが)。どう思い出しても毎回怒号が飛んでいたように思う。

 

まず、創価班会に遅刻した場合、遅刻してきた班員は、入室したら開口一番、「遅刻して申し訳ございません!」と大声で謝罪しなければならないという暗黙のルールがある。仕事で残業した場合であろうが、子どもが急に体調を崩した場合であろうが、事前に連絡していた場合であろうが関係がない。世間一般では「やむを得ない」と思うような事情であっても、それを回避できなかったことは全部自己責任となる。「そうなる前に手を打っておくべきだった」という理屈なのだ。

 

では、謝罪したら万事許されるか?…答えは「NO」だ。そのあとは、幹部による恫喝が始まる。

これにはいくつかパターンがあって、幹部によっては、「いや、謝らんでええよ。帰ってくれ」と、冷たく突き放したりする。そこから、徐々に語気が強まり、耳をつんざく怒鳴り声へと変わっていくのだが、これは私にとっては優しい方だった。
こんなパターンもある。遅刻してきた班員をいったん無視して話を続け、一息ついたところで、「おい、鈴木。ちょっと立てや!」とドスをきかす幹部もいる。遅刻してきた班員が油断しているところに変化球を投げ込むのだ。直角に曲がる高速スライダーなので、かなりの高確率で動揺して捕れない。なかなかの高等テクニックだ。

 

仮に、全員時間通りに集合したとしよう。

幹部が入場するまで狂ったように唱題をあげて待つ。司会の一声で会合が始まる。元気よく返事もする。怒られる要素はない。「うん、今日は大丈夫だ」と思う。そう思っていると、司会が「おい、田中。ちょっと立てや」とドスをきかす。ドスをきかせるのと立たせるのが本当に好きな人たちだ。
怒るポイントは、服装だったり、髪型だったり、何気ない振舞いだったりする。その日体調が悪いと言って午前の会合には出れなかったのに、夜の創価班会に参加できるのはなぜか?と詰めたりもする。そのようにして、まず司会によるジャブが入る。この時点で、私の心は「帰りたい」という気持ちで半分以上支配されている。

 

勤行をして、学会歌の指揮をやって、創価班通信(?)みたいなものを読み合わせして、日蓮正宗や顕正会などの「敵」の情勢が報告され、幹部指導へと移っていく。この時点でかなり気持ちは疲弊しているのだが、まだ折り返し地点である。もう少しお付き合い願いたい。

 

幹部指導が平和に終わることはほぼない。その日遅刻した班員がいれば、終始ピリピリとしたムードの中、班長に飛び杼したりもする。「お前、佐藤が会合に間に合うように祈ったか?前日に連絡したか?出来てへんやろ!」などと。その間、班長は直立不動で叱りを受け、ただひたすら「申し訳ございません!」と頭を下げる。あまりに謝り過ぎると、「別に謝罪はええから、なんで出来てへんのか理由を言えよ」となるし、何も言葉も発しないと「謝罪の一言もないんか?」と怒鳴られる。何か理由を述べると、「ただの言い訳やんけ!」と、これまた火に油を注ぐ。どうしろと言うのか。

直近の会合着任時に事故(班員の遅刻・ドタキャン、会員さんの忘れ物、怪我人・急病人)があったり、着任(志願)率が悪かったりすればもう悲惨だ。特定の班員を吊るし上げ、「やる気ないんやったら、創価班のバッジ外してくれてもええぞ(創価班をやめてくれてもええぞ)?」と言葉を投げかけることもある。こんな問われ方をして、「あ、じゃあ、バッジ外します。今までお世話になりました」と言える班員はまずいない(言いたいけど)。「いえ!続けさせてください!」と答えるしかない。そうすると、創価班の指針?モットー?みたいなもの(もう忘れた)を言ってみろと続ける。これが言えなかったらご臨終なので、大抵の創価班員は丸暗記しているのだが、運悪く言えなかったりすれば、そんな奴に創価班が務まるわけがないということで、創価班員としてのアイデンティティを徹底的に否定され、「会合終わりに残っとけ」と居残りを命じられる場合もある。

極めつけは、「自分たちと今の世代との比較」だ。自分たち幹部も仕事が忙しい中で創価班の着任に挑戦してきた。祈りながら知恵を絞り、どうすれば着任できるかを考えてやってきた。それに比べてお前たちはなんだ。最初から無理だと決めつけて挑戦していないだろう!…と(よく聞いてみると、その幹部は時間の融通がきく個人事業主だったりする)。

 

そのような恫喝が続き、最終的には疲労困ぱいして創価班会の幕が閉じる。私が参加していた創価班会は大体いつもこんな感じだった。マインドコントロールが解け始めていた時期だったので、感化されることはないし、着任率が悪くても何の後ろめたさもないし、反省することもなかったけれど。

 

以上を踏まえ、創価班会において(というか、創価班において)指導されていたことを、自分なりにまとめると、以下のような感想になる。

まず、誰だって仕事や家庭が大事に決まっている。「仕事をクビになってもいい」「家庭が崩壊してもいい」と思いながら、創価班をやっている班員なんていないし、もちろん幹部もそのような指導はしていない。職場でも信頼を勝ち取り、創価班の着任にも挑戦する。これが基本的な考え方だ。しかし、一応志願制をとっているものの、実質的には「全着(全て着任する)」を強要している。着任できない日があると、班長から「なぜ着任できないの?」と理由を問い質される。諸賢においては理解できないかもしれないが、仕事や冠婚葬祭のような重要な用事ですら、着任できない理由にはなっておらず、長期にわたって海外出張に行くとか、誰がどう考えても無理だと思われる事情のない限り、「何とかしろ」と無理難題を突きつけられる。これは創価班会の出席も同様である。

そのため、本当は予定の調整が出来ていないにもかかわらず、「着任します」「参加します」と返事をせざるを得ず、そのように返答した以上、本当に何とかしなくてはならない。その日、残業しなければ終わりそうにもない仕事を任されていようが、遠方に出張していようが、子どもが急病で入院していようが、自分自身が高熱を出してぶっ倒れそうになっていようが、(冒頭にも述べたが)そんなことは関係がない。そんな状況に対し、幹部は「祈って知恵を絞れ」と言うが、祈ったところで皆が幸せになれる最適解が簡単に見つかるわけもなく、結局、職場の他の同僚に仕事をお願いするとか、上司に掛け合って早めに上がらせてもらうとか、子どもの世話を奥さんに押し付けるとか、周囲の反感を買う行動を起こさざるを得ない。「そうならないように、日頃から信頼を勝ち取っておけ」と言うけれど、周囲に迷惑をかけていることに変わりがないし、そんなことを続けていけば、いずれ職場・家庭での信頼なんてなくなる。

にもかかわらず、「全着しろ」「職場・家庭での信頼も勝ち取れ」と言うのは、矛盾というか、不可能を強いているようにしか思えない。しかも、それが出来ないと、上述のように創価班会や着任後の総括などで吊るし上げを食らう。どう足掻いても達成できないノルマを課せられる体育会系のブラック企業と同じだ。家庭訪問もしないといけない。折伏もしないといけない。選挙もお願いしないといけない。そのうえ、創価班の着任もしないといけないという多忙を極める中で、激しい叱咤を受けるとなれば、組織はどんどん疲弊していく。

 

創価班の先輩が、「昔はこんなもんじゃなかった」と色んなエピソードを披露し、「最近の若い世代はついてこれない。随分優しくなったもんだ」など、何とも言えない表情を浮かべながら語る人もいるが、体罰が大幅に許されていた時代を懐かしむスパルタ教育者のそれと同じである。それが、体罰やパワハラといったコンプライアンス上問題のある言動であるという認識もない。付いてこれない脆弱な奴が悪いという論調で全て片付けようとする。

現代社会は、コンプライアンス意識だけでなく、夫婦共働きが当たり前となるなど、家庭環境や働き方も変わってきている。少子化の影響もあるし、創価学会では特に若年層において人材難だ。時代背景や社会情勢が移り変わっていく中で、昔と比べること自体がナンセンスだし、そんなことをしても意味なんてない。創価班のような厳しい人材グループの考え方が残存し続ける限り、創価学会の幹部候補生は疲弊し、人材難は加速するだろうと思う。もはやそんなことを言っても仕方ないのだが。

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