活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

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少年部時代にお世話になったおっちゃん

2017-08-27 21:46:48 | 体験談・雑記

今回の記事は、創価学会への批判などではなく、純粋に「今あの人はどうされているのだろう?」という心配である。

私は、小学生の頃、少年部の活動に頻繁に出ていた。 活動と言っても、日曜日に男子部の人に連れられて、会館や拠点で勤行唱題を行い、学会のビデオを観て、合唱の練習をするぐらいだったと思う。それが終われば、お菓子やジュースが振る舞われ、皆でワイワイ遊んでいた記憶がある。

私は、少年部の会合のために個人会館を提供されていたおっちゃんが大好きだった。年齢で言えば40代ぐらいの壮年部の人で、いつもニコニコして、私達子どもの遊び相手になってくれて、少年部のメンバーは皆、「◯◯のおっちゃん」と呼んでいた(◯◯というのはその人の名字が入る)。おっちゃんと遊びたいから少年部の活動に出ていたぐらいだった。

 

時は流れ、中学生へと学年があがり、私はふと疑問に感じることがあった。そんなに中等部の会合に出ていたわけではないが、同中には毎回参加していたし、会館では、親しい男子部や壮年部、婦人部の人にもよく会う。しかし、おっちゃんの姿をなかなか見かけないのだ。「なんでだろうなぁ?」と疑問に感じつつも、それ以上気には留めなかった。

ある日のこと。学校からの帰宅途中に、偶然おっちゃんを発見し、嬉しくなった私は、思わず「あ!◯◯のおっちゃん!」と声をかけて駆け寄っていった。しかし、おっちゃんの顔には覇気・生気がなく、どこかどんよりと暗んだ表情をしていて、私に気づいても、「おう…」と力なく返事をするだけで、心なしか目の焦点も合っていなかった。その姿を見た私は、子どもながらに「今、声をかけてはいけなかった」と察した。すぐにその場を後にしたが、そのときのおっちゃんの表情は今でも忘れない。そして、それがおっちゃんを見た最後だった。

 

家に帰ってから、父親に「そういえば、今日、◯◯のおっちゃんを見かけたんやけど、なんか様子が変だった」と言うと、父親は、「あぁ、◯◯さんな…」と口を濁したきり、それ以上のことは何も言わなかったが、今から思えば、そのとき、おっちゃんは既に脱会していたのだと思う。今ならわかる。

その後おっちゃんには会っていないし、どうなったのか、何をされているのかも知らないし、話を聞くこともない。しかし、私は、最後に見たおっちゃんの顔が未だに頭から離れず、「おっちゃんは今どこで何をしているんだろう?」と思うことがある。元気に過ごされていることを心より願ってやまない。

 

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学会活動を「訓練」と呼ぶことについて

2017-08-14 20:00:00 | 体験談・雑記
創価学会では、何かにつけて「訓練」という。

日々の家庭訪問や折伏、人材グループの着任、F活動なども「訓練」だ。「学会活動で積んだ訓練は、実生活でも活かされる」「創価学会で訓練を積んだ人は、社会でも通用する人材になる」などと言ったりもする。

「訓練」という言葉は非常に巧妙な言葉だ。これに取り組めば自分の為になると思うし、これをサボることは罪悪感に繋がる。そして、真面目な人ほど、サボることを悪とみなし、自分をどんどん追い込もうとする。「もっと学会活動に邁進して訓練を積まなくてはいけない。学会活動をサボれば、全部自分に返ってくる」という思考に陥りやすくなる。

要するに、創価学会が学会員さんをマインドコントロールするにあたって、「訓練」という言葉ほど便利なものはない。どんな無理難題を学会員さんに押し付けても、全部「訓練」で片づけられるからだ。


確かに、家庭訪問やF活動など、普通に暮らしている限り、あまり体験できないものであることは認める。これらの活動を通して、人と会ったり、話したりするスキルが身に付くというのも完全に間違いではないと思う。事実、私も、学生部時代に、死ぬほど家庭訪問や仏法対話をして、かなり度胸はついた気がする。

しかし、一生成仏が日蓮仏法の目的である以上、信仰の過程で得られる実社会で通用するスキルなど、副次的なものに過ぎない。しかも、別に信仰で得る必要もない。にもかかわらず、創価学会が、学会活動を「訓練」と呼称し、学会活動を通じて実社会でも通用する人間力を身につけさせようと大々的に喧伝している姿は非常に滑稽に見える。

また、以前別の記事でも書いたとおり、学会員の中には、幹部であっても非常識な人もいる。そんな人に、「学会活動は訓練」「学会で訓練したことは全て社会で活かされる」などと言われても、「お前が言うな」と言いたくなる。実際、そんな人をたくさん見てきた。「創価学会で訓練を積んだ結果、めちゃくちゃ非常識な人間になってんじゃねーか」と。


仏道修行と言うぐらいだから、ある種の「訓練」の側面のあることは否定はしない。しかし、創価学会が言う「実社会でも通用する力」なるものは、別に学会活動でなくとも身につけられるし、そんなものはこの信仰の目的ではなかったはずだと付言しておく。

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