活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

学会活動を「訓練」と呼ぶことについて

2017-08-14 20:00:00 | 体験談・雑記
創価学会では、何かにつけて「訓練」という。

日々の家庭訪問や折伏、人材グループの着任、F活動なども「訓練」だ。「学会活動で積んだ訓練は、実生活でも活かされる」「創価学会で訓練を積んだ人は、社会でも通用する人材になる」などと言ったりもする。

「訓練」という言葉は非常に巧妙な言葉だ。これに取り組めば自分の為になると思うし、これをサボることは罪悪感に繋がる。そして、真面目な人ほど、サボることを悪とみなし、自分をどんどん追い込もうとする。「もっと学会活動に邁進して訓練を積まなくてはいけない。学会活動をサボれば、全部自分に返ってくる」という思考に陥りやすくなる。

要するに、創価学会が学会員さんをマインドコントロールするにあたって、「訓練」という言葉ほど便利なものはない。どんな無理難題を学会員さんに押し付けても、全部「訓練」で片づけられるからだ。


確かに、家庭訪問やF活動など、普通に暮らしている限り、あまり体験できないものであることは認める。これらの活動を通して、人と会ったり、話したりするスキルが身に付くというのも完全に間違いではないと思う。事実、私も、学生部時代に、死ぬほど家庭訪問や仏法対話をして、かなり度胸はついた気がする。

しかし、一生成仏が日蓮仏法の目的である以上、信仰の過程で得られる実社会で通用するスキルなど、副次的なものに過ぎない。しかも、別に信仰で得る必要もない。にもかかわらず、創価学会が、学会活動を「訓練」と呼称し、学会活動を通じて実社会でも通用する人間力を身につけさせようと大々的に喧伝している姿は非常に滑稽に見える。

また、以前別の記事でも書いたとおり、学会員の中には、幹部であっても非常識な人もいる。そんな人に、「学会活動は訓練」「学会で訓練したことは全て社会で活かされる」などと言われても、「お前が言うな」と言いたくなる。実際、そんな人をたくさん見てきた。「創価学会で訓練を積んだ結果、めちゃくちゃ非常識な人間になってんじゃねーか」と。


仏道修行と言うぐらいだから、ある種の「訓練」の側面のあることは否定はしない。しかし、創価学会が言う「実社会でも通用する力」なるものは、別に学会活動でなくとも身につけられるし、そんなものはこの信仰の目的ではなかったはずだと付言しておく。

コメント   この記事についてブログを書く
« 親が子どもに思想を押し付け... | トップ | 少年部時代にお世話になった... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

体験談・雑記」カテゴリの最新記事