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創価学会のいう「人材」とは何か。

2017-12-13 19:31:31 | 体験談・雑記

学会では何気なく「人材」という言葉が使われているが、組織の歯車として活動できる人だけを「人材」と見なす風潮・傾向が強まり、眼前にいる一人一人の学会員さんを軽視するような組織になってしまったのではないかという趣旨のコメントを頂戴し、私なりに「人材とは何か」という点を考えてみた。

確かに、「人材」がどうのうこうのと言う前に、「個」を軽視する風潮はあったと思う。活動家だろうが、たまにしか会合に参加しない人だろうが、1人の人間、1人の学会員として、当然のごとく、生活、仕事などの様々な悩みに直面する。もちろん、そのような悩みを表立ってないがしろにすることはないが、座談会やその他の会合において、それぞれが抱えている悩みを共有し、胸襟を開いて人生を語り合うような場はなかった。勤行唱題をして、学会歌を合唱し、特に何の変哲もない活動報告を間に挟んで、最後につまらない幹部指導を聞く。これの繰り返し。あとは申し訳程度に御書を研鑽するぐらいか。「毎回同じような式次第で面白くないですよ。たまには、勤行も学会歌も幹部指導もない、自由討論会みたいなものを開催しませんか?」と提案しても即却下。これが学会の伝統であり、これを変えることは学会の精神に反するとか何とか。まあ、そんな形式的な会合ばかりやってたら、いくら信心強盛な学会員さんであっても参加しなくなるわな。

また、新入会員や活動歴の浅い部員さんであればともかく、活動家となれば、学会員の前で愚痴を漏らすことは許されなくなる。組織のために動き、部員さんを励ましていく側の人間と見なされ、悩みがあるなら、「幹部指導を仰げ」と言われる。そこで、悩みが解決されるならまだいいが、決まりきったフレーズを何度も聞かされ、コレジャナイ感が半端なかった。更に悩みが深まるばかりで、それを解決するためには更に信心に励めと言う。「マラソンをしていたら、疲労で足を骨折しました。どうしたらいいでしょうか?」という相談に対し、「まだまだ体力が足りない。もっとマラソンに励め」と回答するぐらい馬鹿げている。

 

さて、このような風潮が漂う組織において、「人材」とはなんだろうと考えてみると、おのずと答えはひとつしかないことに気づく。思うに、それは「組織を活かす人」じゃないだろうか。もっとネガティブな表現をするなら、「組織の歯車」とか「社畜」と言い換えてもいい。我々は、どこまでいっても眼前にいる一人一人の人間が大事だという「人間主義」を教わり、「人間を活かす活動」をしていると思いつつ、実は、「組織を活かす活動」をしている。活動家が次々と潰れても、活動家を酷使するような体制を改めない様子を見ていれば、この点は火を見るよりも明らかだ。1人、2人活動家が潰れても、残った活動家が組織を活かしてくれればそれで良いと言わんばかりに。

組織を活かすために平気で個を犠牲にする例は枚挙に暇がない。選挙や新聞啓蒙もそうだと思うが、例えば、会合の結集ひとつをとっても、私の地元組織では、常軌を逸した連れ出しが横行していた。ある部長は、会合の当日、事前に会合に参加できないと返答していた部員さんの家を突然訪問し、「今ヒマ?ちょっとだけ話せる?」と声をかける。「なんだろう?」と思って顔を出した部員さんを無理やり車に押し込み、そのまま会合に連れ出すのだ。「本当は予定なんかねえんだろ?分かってるって」と部員さんを脅して黙らせる。そんなことを平気でやる人が、「結集目標を大幅に達成しました!」とドヤ顔で活動報告をしている姿を見ると、本当に辟易する。そして、そういう人が組織の中ではもてはやされるので、非人間的な行動がエスカレートされていき、組織のために人間を殺す人材がどんどん増えていく。今の創価学会の異常性はそういうところからきていると思わざるを得ない。

逆に、人間性を重んじ、一人一人の部員さんと真摯に向き合おうとする活動家は、なかなか結果が伴わないので、お前のやり方は間違っていると揶揄され、活動に嫌気が差していってしまう。そういう人は、人間を活かすために組織を殺しているというわけだ。学会活動に励んでいる方は、「人材」という言葉をどういう意味で用いているだろうか。今一度考えてほしい。

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