あまり詳細には書けないが、学生部の頃、幹部の方の中に、ひたすら御書を研鑽されている方がいた。肌身離さず御書を持ち歩き、暇さえあれば御書を開かれていたように思う。他の幹部たちが、池田センセーの指導しか引用しないのに対して、その方は、逆に御書しか引用しないぐらいだった。
ある時、その方が中心となって、御書の勉強会が定期的に開催されることになった。最初のうちは、「どうせ難しい話なんだろ?」と毛嫌いされ、参加者もまばらだったが、その当時の時代背景を掘り下げたり、現代で起こっている問題などに置き換えたり、その人のユーモアも手伝って、「〇〇さんの御書講義、めちゃくちゃ面白いよ」と評判になり、瞬く間に大盛況になった。
事実、学生部のその他の会合には参加しないが、その方の御書講義は聞きたいという部員さんもいるぐらいで、私も毎回参加していたが、本当に為になる話だった。
何というか、その方の御書講義は、我々が考えなければならない生命の根幹部分の話をされている気がして、自然と聞き入ってしまうのである。「あ、これは他人事じゃない。ちゃんと聞かなきゃ」と。「戦うぞー!」「勝つぞー!」と精神論・根性論だけを振りかざす他の幹部の話とは明らかに違った。その方の御書講義にしか参加しないという部員さんも、他の幹部には見当たらない「何か」を感じ取っていたのかもしれない。
そして、非活・アンチとなった今、「まあ、そりゃ、池田センセーの指導ばかりを引用する幹部の話なんて面白いわけがないわな」と心底思うし、その方の御書講義にしか参加しないという部員さんの姿を思い出し、日蓮仏法のことなんて何一つ分からないという人たちであっても、池田センセーの指導なんかより、日蓮大聖人の仏法を学ぶ方が、自分の為になるということを本能的に感じ取っていたんだろうなと思う。