活動から離れた創価内部アンチのブログ。

元バリ活の内部アンチ(3世会員)による体験記・雑記です。

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当ブログについて

2027-04-01 00:00:00 | ブログ概要

<ブログ概要>

はじめまして、管理人のたれぱんと申します。
当ブログは、現在は非活となった30代の創価内部アンチが運営しているブログです。

創価的なスペックとしましては、学会3世、創価学園卒業、学生部では部長、男子部では副部長を経験し、人材グループは創価班に所属していました。信心強盛な元・バリ活です。

男子部にあがってから数年が過ぎた頃に数々の疑問を感じるようになり、徐々にマインドコントロールを解く作業を開始。今ではすっかりマインドコントロールは解けて、完全に活動から離れています。創価とは無縁の生活をしており、組織にもついていませんし、聖教新聞もとってないですし、家に仏壇もありません。

このブログでは、自身の体験談を交えつつ、悩みを抱える2世・3世会員の方にとって、何かしら参考になることを書くことが出来ればと思っています。

(当ブログのスタンスにつきましては こちら に詳しく記載しております)



<コメント欄等について>

コメントは承認制とさせて頂いております。

あくまでも、このブログの位置づけは、私自身の意見や考え方を表明する媒体であり、意見交換や議論を主旨とはしておりません。そのため、コメントを頂いても、全てのコメントに返信できるわけではなく、何卒ご了承頂きますよう宜しくお願い致します。

また、頂戴したコメントにつきましては、ほぼ全て承認させて頂きますが、下記事由のいずれかに該当するものと管理人が判断した場合、コメントの公開を承認致しません。予めご了承ください。

  1. 記事の内容に沿わないコメントであった場合
  2. 過度に暴力的、差別的、誹謗中傷的な内容が含まれていた場合
  3. 特定の個人を識別しうる情報が含まれていた場合
  4. コメントを投稿したご本人が非公開を希望された場合
  5. その他管理人が不適切な内容と認めた場合

 

<リンクや記事の転載等について>

当ブログへのリンク設定はご自由にどうぞ。ただし、引用の範囲を超えた記事の無断転載等はご遠慮ください。

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マスコミの過熱報道と創価学会による誹謗中傷

2018-05-08 19:00:00 | 体験談・雑記

TOKIO山口さんをめぐる一連の実名による過熱報道を拝見していますと、正直なところ、私は、「有罪判決を受けたわけでもない特定の個人を、ここまで叩く必要があるのか?」という思いが拭えません。

 

刑事裁判においては、無罪の推定が働くにもかかわらず、有罪判決が下される前の捜査段階において、被疑者・被告人が有罪の確定判決を受けた犯罪者であるかのように「推定有罪」の報道がなされることにより、被疑者・被告人の名誉が侵害されるだけでなく、被害者のプライバシーを含めた生活の平穏が害されるなど、種々の問題点が惹起されるおそれのあることは周知のとおりです。

なお、山口さんは罪を認めており、被害者との間で示談も成立していますが、被疑者・被告人が罪を認めているからといって、有罪になるとは限りません。裁判において自白の証拠能力が争われるケースもありますし、自白の証拠能力を争わなかったとしても、自白を唯一の証拠として有罪にすることはできないからです(いわゆる補強法則。憲法第38条第3項、刑訴法第319条第2項)。

また、山口さんが弁護士と相談した結果、責任能力の有無など、別の法律上の争点を主張する可能性もあります。実際に、裁判官が「有罪」と判断するまで、どうなるかなんて分からないんですよ。マスコミはこの点が全然わかっていない。

私は、決して山口さんの肩をもつわけでも、山口さんを擁護するわけでもありません。しかし、このような過熱報道の末に、日本国民の敵意・悪意が山口さんに向けられる結果となりました。このような状況において、社会復帰を目指そうと思っても、多大な困難がつきまといます。芸能界への復帰はおそらく無理でしょうし、芸能界以外の仕事に復帰しようと思っても、「犯罪者」というイメージは一生ついてまわります。山口さんが自らの将来に絶望し、自殺してしまうかもしれません。そうなったら、一体誰が責任を取るというのでしょうか。

 

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。

私は、TOKIO山口さんに対する過熱報道を見ていて、創価学会による特定の個人に対する誹謗中傷も似たような問題構造を抱えていると思っています。

創価学会にも言論の自由があるので、例えば、元職員3名のブログや告発本に書かれていることが事実と異なるというのであれば、自らの機関紙において、そのように反論すれば良いし、自らの言い分があるというのであれば、再批判を行うことも勿論自由です。そうやって、双方の意見を戦わせて、周囲が評価・判断すれば良いだけの話です。それが民主主義です。

しかし、そのような批判の域を超えて、実名を挙げたうえで、罵詈雑言を浴びせるのは一体何なのか。日蓮正宗の日顕上人に対する誹謗中傷のほか、創価学会を退会した ”反逆者” に対しても同様に辛辣な言葉を投げかけており、実際に名誉毀損の裁判において敗訴することもあります。創価学会に敵対する人物であったとしても、対話による平和を目指そうとしている団体が、民主主義のルールを逸脱するような言論活動によって、特定の個人を追い詰めることが何故正当化されるのか。

 

つい昨日も、当ブログに対し、汚い言葉で罵るようなコメントが寄せられました(普段このような誹謗中傷コメントの公開は承認しませんが、今回は敢えて公開させて頂きました)。

批判コメントが寄せられるのは当然のことですが、その大半は、至って冷静なご意見・ご指摘であると認識しています。このブログは、悩みを抱えてらっしゃる2世・3世会員の方を念頭に置いていますので、そういう方にとって両方の意見があった方が参考になると思いますし、むしろ有難いことです。なので、私はほぼ例外なく公開しています(※)。

しかし、ただの誹謗中傷コメントとなると、コメントをされた方にとっても、私にとっても、何のメリットもありません。そのコメントを読んで、「創価学会は、平気で汚い言葉を吐く非常識な団体」という印象を世間に与えることになりかねませんし、不愉快な思いをされる人もいるでしょう。有益な指摘でもないので、2世・3世会員の方にとって何の参考にもなりません。

(※)ただし、ブログ記事と無関係の内容だった場合等は公開しないこともあります。それは、アンチさんからのコメントであっても同様です。

 

創価学会という組織に長きにわたって身を置いていると、汚い言葉で罵倒することや、敵対する者を徹底的に追い詰めることを普通に感じるようになってしまうのかもしれませんが、私には、感覚が麻痺してしまった可哀想な人たちに映ります。

学会員さん全員がそうではないと思いますし、良識ある方もたくさんいらっしゃる一方で、上記のような人たちを生み出すことになった創価学会の罪深さを感じざるを得ません。

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「友好週間」は「友好」ではない件

2018-04-27 19:00:00 | 体験談・雑記

今週末からGWに突入しますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

GWといえば、創価学会では「友好週間」だと思いますが、わざわざ創価学会が指定しなくても、世間一般的に、普段会えない友人や遠方に住んでいる友人と会えるのは、GWとか、お盆とか、年末年始などの長期休暇に決まっています。長期休暇以外にも、「出張でたまたま近くまで来たから、久しぶりに飲もう」といった誘いはあると思いますが。

また、社会人になって、家庭を持つようになると、長期休暇を家族とゆっくり過ごす時間に充てる人が多くなってくると思います。間違っても、長年連絡をとっていなかった顔もほとんど覚えていない学生時代の同級生と会おうと思う人なんてほぼ居ません。今更会って何の話をすればいいか分からないし、創価学会の話でもされた日には、「そうかそうか。今後、公明党のお願いとか色々頼むと思うけど宜しくってことか。ふざけんな。貴重な休みの時間を返せ」って感じでしょう。

 

私は、学会活動ありきの友好なんて友好ではないと思っています。

どれだけ友好を深めたと本人が思っていても、傍から見ていれば、新規顧客を開拓しようと営業をかけているようにしか見えないし、実際そうとしか思われていません。その場ではどれだけ親睦を深めることができたとしても、後日、選挙や新聞をお願いしたときにどんな反応をするか想像に容易いはずです。

実際のビジネスにおいて、本当に信頼のできる営業さんであれば、仕事の枠を超えて仲良くしようと思えますけど、そんな人はほんの一握りで、大半はビジネスライクの付き合いです。学会員もその域を出ていません。

しかも、創価学会は、学会員の友人関係なんて心底どうでもいいと思っています。営業活動をやらせて、どれだけ罵倒されようが、無視されようが、嫌われようが、「宿業を一つ消すことができたね」「聞法下種であっても功徳は同じだよ」などと都合の良いことを言って、学会員の人間関係を犠牲にさせています。そういえば、「信心の強さは、友人から縁を切られた数に比例する」とか、馬鹿なことを言っていた幹部もいましたね。一般の人が聞いたらドン引きですよ。

こういう様子を見ていて、腹立たしさしかないと言いますか、「友好週間」などという、いかにも「民衆の連帯を広げています」的な見せかけの標語なんてさっさと捨てて、率直に「外回り営業週間」と表現した方が分かりやすい。「友好を深めてこい」ではなく、「お前ら、創価学会の営業マンなんだから、お得意さんになってくれそうな潜在顧客に当たってこい」と言った方がむしろ親切です。本人にそのつもりがなかったとしても実際そうなんだから。

 

もし、学会活動を抜きにした本当に純粋な意味での友好と言うなら、創価学会に「友好週間」などと指定される筋合いはないし、「友好を深めてこい」などと命令される筋合いもないし、学会員の個人的な人間関係に口出しをする創価学会とは一体何様なのだろうと思う。お金も時間も友人関係もむしり取らなければ気が済まないのだろうか。この組織は。

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あなたは、なぜ不幸なんですか?

2018-04-24 19:42:42 | 体験談・雑記

シニフィエさんのブログ記事を読ませていただいたのですが、「幸せですか?」という問いかけは、私自身が学会員に対して最も聞いてみたい質問のひとつであり、自分のブログでもこの点について、少し書いてみようと思います。

活動から遠ざかっている方や、既に退会済みの方であれば、ほぼ例外なく、「信心をやっていても幸せではなかった」と答えると思います。また、決して強がりではなく、本当に心の底から「幸せです」と答えるバリ活の方もいらっしゃると思います。

この2種類の方たちについては、特に異論はありません。何故なら、自分の気持ちに正直に行動しているからです。幸せではないと思っているからこそ創価学会から遠ざかり、幸せだと思っているからこそ創価学会の活動に打ち込んでいる。別に普通のことです。

 

問題なのは、「幸せじゃない」「不幸だ」と思いつつ、学会活動をやめられない方です(「幸せだ」と思いつつ、学会活動をやらない人もおかしいんですけど、ここでは取り上げません)。こういう方たちが、「途中で信心をやめればこれまで積み重ねてきたものが無駄になって無間地獄に堕ちる」とか、「まだ長い仏道修行の途中であり人生の最後で勝てばいい」とか、色々な思いを抱えているのは理解できます。かつての自分もそうでしたから。

私は、このタイプの学会員さんに対して、敢えてシニフィエさんとは違う質問を投げかけてみたいと思います。「あなたは、なぜ不幸なんですか?」と。

 

もちろん、学会活動に励むぐらいですから、何かしら人生の悩みや困難を抱えてらっしゃるんだと思います。仕事のこと、お金のこと、病気のこと、人間関係のこと、家族のこと。それは分かります。仏法の観点からいうと、私たちはそういう宿業を背負って生まれてきてしまったんですよね。

また、信心の功徳とは「六根清浄の果報」をいうので、信心をする前の私たちの生命は薄汚れていると説かれていますよね。信心に励んでいくことによって、そういった汚れをひとつひとつ落としていくんだよ、綺麗にしていくんだよと、活動家時代によく指導されたものです。

色々な悩みがあると思いますので、それを簡単に「不幸ではない」とは言いませんし、言えません。ただですね。私はこう思います。なんで、創価学会では、「宿業」とか「六根清浄」とか、人間は罪深くて、汚らわしい存在であるところからスタートするんだろう?と。不幸であることが前提みたいな。

 

百歩譲って、仏法の考え方については受け入れたとしましょう。宿業論とか、今でも「なるほど」と思わなくもないです。だけど、宿業らしく見えるものであっても、それが信心でしか解決できないとは到底思えません。

非活となった今、もちろん悩みもあります。一生付き合っていかないといけない問題もあります。その一方で、信心をやめてから驚くほど簡単に解決できた問題もあります。「宿業」という意識がなくなった結果として、自分のことを「信心に取り組まないと変わることができない人間」と思うこともないし、以前よりも自分のことを認められるようになったといいますか、なかなか解決できない悩みを前にして、「自分の業は深い」「信心以外にない」と思っていた活動家時代に比べて、切羽詰まった気持ちは綺麗さっぱり消え去りました。もちろん生活は充実していますし、比べものにならないほど幸せです。

要するにですね。もし、自分のことを「不幸だ」と思いながら、それでもなお学会活動をやめられない方がいるとすれば、その不幸の原因は、信心でしか解決することのできない「宿業」を抱えていると信じ込んでいる点にあるんじゃない?と、私は思うのです。信心があなたの首を絞めていると言い換えてもいいです。自信をもって言えます。あの頃感じていた息苦しさや不幸の原因はそこにあった、と。

 

もし、学会活動をやりながらも幸福感を感じられない方は、信心でしか解決することのできない罪深い業を抱えているとか、自分の六根は薄汚れているとか、自分を否定するところから入るんじゃなくて、信心に頼らなくたって自分は立派に生きていける強い人間だと、自分を認めるところからスタートした方が良いです。直ぐにでも。

あとね。「困難を困難と思わない境涯」でしたっけ。創価学会がよく言ってるやつ。それって、別に信心をしてなくても到達できますよ。常に挑戦しながら生きてる人って、皆そういう精神力持ってます。「どうやって乗り越えてやろうか」って、ワクワクしながら生きてる。そういう境涯を功徳というなら、はっきり言います。別に信心で得る必要がないですよ。

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本部職員に対して抱く羨望と不憫の念

2018-04-19 20:00:00 | 体験談・雑記

私の知人、親戚の中には、本部職員さんが何名かいらっしゃって、そういう方は、ほぼ例外なく、幼少の頃から創価エリートの道を歩んでこられた方。つまり、小学校から大学まで創価一貫教育を受けて育ち、運命に引き寄せられるかのように新卒で本部職員になったような人です。

 

私は、そういう幼少の頃から創価エリートの道をまっすぐ歩んできた人に対し、ある種、とてつもない羨望の念をもって見ることがあります。

私もかつては創価中学、高校に通っていましたが、大学まで創価教育を受けようとは思えませんでした。創価学園自体が好きではなかったし、池田氏を心から崇拝していたわけでもないし、何より当時の私は、大人たちが用意した創価のレールに漫然と従うことに対するぼんやりとした不安のようなものを感じていました。

親に人生を決めつけられることに対する反抗心というか、自分の人生は自分でデザインしたいという自我というか、思春期の年頃の子どもだったら、少なからずそういう気持ちってあるじゃないですか。実際、私の周りには、創価学園を途中で退学しちゃったり、違う学校に転校する同級生もいたわけですよ。「こんな学校でやっていけねーよ」となってしまって。

また、仮に創価一貫教育までは受け入れられたとして、創価学会に就職しようという発想には到底行き着かない。本部職員になった方たちも、本部職員になるにあたって、さまざまな葛藤や悩みがあったと思いますが、バリ活時代の私がそういうチャンスに巡りあったとしても、たぶん葛藤や悩みを抱くことすらなく、本部職員になるルートを速やかに除外したと思います。

2世・3世会員として、どれだけ創価色の濃い人生を歩んできても、どこかで創価と距離を取りたいとか、レールを脱線したいという思いに駆られてもいいはずなのに(実際、そういう人はたくさんいるのに)、彼らは、そのレールを脱線することなく、最後の就職先まで創価一本で貫いた。何と言いますか、その純粋さはどこから来るのかと驚嘆します。私が羨望の気持ちを抱くのは、その恐ろしいまでの純粋さに対してです。

 

その一方で、私は、幼少の頃から創価エリートの道をまっすぐ歩んできた人に対し、ある種、とてつもない不憫の念をもって見ることがあります。

これから先もずーっと上述のような純粋さをもって、創価学会のこと、池田氏のことを信じ、本部職員としての職務を全うしようとする気持ちが薄れないのであれば、本人にとって幸せなことだと思います。生活に困ることもないでしょう。

しかし、全員が全員そうとは限らない。件の元職員3名のように、現執行部をおかしいと感じ、批判の声をあげ、組織に従わなかったために終には懲戒解雇処分になった職員さんもいる。過去を振り返れば、創価学会のおかしさに直面して、目が覚めてしまった本部職員も他にもいたでしょう(中には、自ら問題を起こして表舞台から消えてしまった自業自得のような人もいますが)。

そのように組織の現実に直面し、創価学会を見限ったとして、私のように、何のしがらみもない普通の学会員であれば、非活になるとか、脱会するとか、いくらでも逃げ道はあります。その後、創価と無縁の人生を歩むことも可能です。ところが、本部職員となればそうはいかないはずです。自身の正義を貫いて創価学会と敵対するか、自身の心情に反して創価学会に付き従うか。そのどちらかを選択するしかなく、どちらの道を進むにしても多大な苦労が付きまとうことは容易に想像できます。

また、仮に、波風を立たせないように穏便に自主退職できたとしても(そんなことが出来るのか分かりませんが)、創価エリートとして生きてきた過去は消せないし、今更創価と無縁の人生を歩もうと思ってもたくさんの困難がつきまとうと思います。私が不憫の念を抱くのは、たとえ創価学会に対して疑問を抱いたとしても、創価の呪縛から逃れることができない人生の残酷さに対してです。

 

そして、どちらかと言うと不憫の念の方が強いです。

創価学会の欺瞞に気付かず、「創価学会は正しい」「信心は正しい」と信じ切ったまま、人生を終える方が幸せな人もいると思いますが、私にとって、本部職員さんも信じ切ったまま人生を終えるのが幸せな人たちのように思えます。創価学会から搾取されてきたと感じている学会員さんは、そのような状況を決して許さないと思いますし、創価学会の内部事情は嫌でも耳に入ってくると思いますが。。

私は、創価のレールを人生の途中で脱線することなく、本部職員になる道を選んだ人というのは、この世に生を受けたその日から、抗うことのできない運命を課せられていたようにも思うのです。普段、「運命」というオカルトチックなものはあまり信じませんけど、これについては、そうだったのかなぁ…と。こちらの一方的な思いで申し訳ありませんが、だからこそ余計に不憫に思うのでしょうか。

 

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