あのよろし

趣味のことをかきますが浅いです。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

隋書倭国伝(取り敢えず資料だけ。)

2017年02月26日 14時44分15秒 | 歴史
隋書倭国伝
wikiソース
以下wikiソースの底本引用記述。

底本:石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉(岩波文庫、岩波書店)
1995年5月6日 第52刷発行 ISBN 4-00-334011-6
底本の親本:百衲本の影印
注釈:原文では倭を俀につくる。多利思北孤の北は比の誤りとされる。
コメント

魏志倭人伝

2017年02月26日 01時36分24秒 | 歴史
むかーし昔 邪馬台国ブーム ってのがあったそうです。
確か 松本清張の、「陸行水行」がきっかけだったけ?読んでないけど。
邪馬台国と、ブーム と言う言葉が、くっつくとは、卑弥呼もひっくり返るね。

魏志倭人伝は、
魏書 第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称
(ウィキペディアから引用。)

邪馬台国は、九州説 近畿説 はたまたインドネシア説 ハワイ説まで、何とかご当地に、邪馬台国を誘致したいようで憶測 霊感 やま感 リモートビューイングまで引っ張り出して、ご当地比定地があります。

九州人としては、なんとなく邪馬台国は九州にあった気がします。根拠は?と聞かれたも、なんとなくです。

本音の所 難しくてよくわかんないです。
本来は、魏書等 陳寿が書いた者を通読し、用語の使い方等を検証しなければならないんでしょうが、ちょっと俺には無理。

じゃぁなんで、邪馬台国なんかでブログ書くんだ?
ですよね。

こっから先 魏志倭人伝で、文章的に好きな部分をのっけます。
本文は、簡潔を旨とする漢文なので、一種の漢詩と思って読むと味わい深いです。(またウィキペディアから引用w現代語訳は、自分で訳しました。)

原文
"又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好魚鰒捕、水無深淺、皆沈没取之。"

俺様的現代語風
また、海を渡ること一千里余り 。
末廬國(まつら国と読むか?)に到着する。
人口はだいたい四千戸
山と海の間に住んでいる。
草木が繁り、前を行く人の姿が見えないほどだ。
海が浅くても深くても、
皆、海に潜り盛んに魚とあわびを捕らえる。


この節が好きなんですよね。
草木茂盛、行不見前人
(草木が繁り、前を行く人の姿が見えないほどだ。)

卑彌呼の時代に、魏から訪れた使者は
正始元年 西暦240年の
建中校尉 の梯儁
正始八年 西暦247年の
塞曹掾史 の張政

この二人の内、どちらかが書いた文章を元に、先のまつら国の景色の描写を書き写した物ではないのかな。なんとなくです。たぶん張政が、記した記録を元にしたのでは?
ヤマ感的にピピピと。

草木が繁る、と言うころから、真夏のクソ暑い時期に、邪馬台国への旅をしたのではないでかな?。

やっとのことで、邪馬台国 本土にたどり着いたけど、真夏でクソ暑くって、草ぼーぼー生い茂るところを歩かされて、たまらんって感じが伝わってきますな。

次に、皆 魚やあわびを、海の水深に関係なく捕っている。
大陸育ちの魏使には、めずらしかったんでしょう。
なんか一回では書き切れないことが判明w
↑写真は、まつら国の比定地(現在の唐津 松浦)とすると、次の伊都国 現在に糸島市付近)
から、次の伊都国までの道中にみたであろう景色。 、張政は、1800年前、写真と同じこの景色を見たはず、と妄想。
(牧のうどん 二丈バイパス店の駐車場よりみた 唐津湾と姫島。)書き入れなかった。とりあえずここまで。


コメント

はじめまして。

2017年02月01日 10時18分43秒 | 日記
みなさん初めまして。

ブログは、ヤフーブログをやってたんですが、
暫く更新してなかったのと、また なにか発信したくなり、gooブログを始めました。
コメント