社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

杉森滉一「『客観的可能性』としての確率」『岡山大学経済学会雑誌』第5巻第2号,1973年11月

2016-10-18 16:53:45 | 12-3.社会科学方法論(確率基礎論)
杉森滉一「『客観的可能性』としての確率」『岡山大学経済学会雑誌』第5巻第2号,1973年11月

 筆者は本論稿で,J. v. Kries(1853-1928)の「客観的可能性」概念を検討している。M.ウェーバーは「理念型」的方法を構成する要素のひとつに「客観的可能性」を措定した。この概念を詳しく論じたウェーバーの論文は,「文化科学の論理学の領域における批判的研究」と題する。筆者によれば,ここでは理念型論で「客観的可能性」概念が重要な役割を果たしているが,この概念をクリースまで遡って考察することはウェーバー理解にとって意味がある。

クリースの所説(「客観的可能性の範疇とその幾つかの応用について」)は,19世紀後半から盛んに展開された確率基礎論の一つである。クリースは数学上の確率論を「客観的可能性」へと一般化し,さらに「適合的因果連関」論まで展開させている。彼の議論の特徴は,確率を存在論,認識論,論理学一般のなかで論じ,これによって後者の枠組みが再規定されるとしている。クリースからウェーバーへの継承関係が確認されれば,確率あるいは確率的思考が理念型論に入りこみ,その構成要素のひとつになっている関係をみることができる。また,「理念型」が歴史学,社会学などの限られた分野で「有力」な方法論であるのに対し,科学的方法論における支配的傾向は新旧二つの実証主義(論理的および感覚的)のそれである。後者のうちの論理実証主義的方法(=分析哲学的方法)は「理念型的」方法論と全くの異物と考えられがちであるが,両者は類似した面をもつ。筆者はクリース説を吟味することが両者の親近性を知るために必要である,と述べている。

 構成は次のようである。「Ⅰ『無理由原理』と『充分理由原理』」「Ⅱ『領域原理』」「『客観的可能性』と合法則性」「Ⅲ『客観的可能性』と因果性」。

 古典的確率論では,確率論の基礎は「等可能性定義」と「無理由原理」にある。前者は,ある事象の確率を「その事象の生起にとって好都合な諸場合の数/等可能な諸場合の数」(ただし,等可能な場合は相互に排反かつ独立である)とする。後者は「生ずる可能性のある諸事象のうち,とくにどれが生ずるという根拠がないとき,それらの諸現象を等可能とする」原則である。クリースは前者を承認するが,それを意味あるものとするのは後者であるとして,その妥当性如何の問題を考察する。従来,「無理由原理」は,「起こりうる諸事象のうち,特にどれが生じるということを我々が知らないとき,それを等可能であるとみなす」という意味で解釈されてきた。この解釈では,「無知であること」が等可能と見做すことの根拠であるが,この意味での「無理由原理」を根拠にした等可能性判断から確率を計算すると種々の背理が生じる。背理が生じる理由は,「無理由原理」の下に「無知」が等可能性判断の根拠とされているので,判断主体の無知の程度によって,同一事象に恣意的なさまざまな等可能な場合が設定されることにある。このような恣意性を排除するには,等可能な場合の設定が「信頼に足る方法」で行われなければならない。これは,「無理由原理」との対照で「充分理由原理」と呼ばれる。「無理由原理」では等可能性の設定は「無知」が反映され,確率自体が無知の程度を表している。これに対し「充分理由原理」は無知ではなく知識が必要とされ,知識と言うかぎりでは客観的な何ものかについての積極的提示であるから,確率自体は知識として把握された特定の客観的事態を表す。

 クリースは一方で確率の客観性を強調するが,他方で確率における無知の要素をふまえた主観的要素を積極的に主張している。要するに,クリースは確率の成立する根拠として無知と知識とをともに要求する。結局,「充分理由原理」による等可能性判断は,無知と知識の混合した,あるいは無知の要素を含む特定の知識形態である。確率はそういう特定の知識形態の帰結である。この帰結の性格は確率が知識一般のひとつの形態であることにある(無知の要素を含んでいるが客観的な根拠において限定された,知識のひとつとしての無知)。確率は得られる知識がこのようなものであった場合にわれわれが採らざるをえない帰結であり,またその意味での推理の形式のひとつ(論理的関係)である。クリースは一方でこれを確率の「論理的理解」と名づけ,他方で「無理由原理」にたった場合の確率を確率の「心理的理解」と規定し,両者を対立させる。筆者はこの事情をみて,クリースにあっては,「客観的」と「論理的」(または「主観的」と「心理的」)とが同一視されているとみる。

ところでクリースの言う確率の「主観性」は,主観と言っても現実の個々の主観の精神状態を表すものではない。それは個々の主観の現実的状態如何にかかわらない,思惟必然的に妥当する精神状態を指す。これが実はクリースにおける確率の客観性の説明であるが,内容的にみるとこれは確率の論理性の説明である。クリースによる確率の客観性は,確率の「一般的妥当性」のための単なる理由もしくは材料として扱われ,結局「客観性」が「論理性」に還元されている。その「客観性」は主観の外にあるという意味のそれではなく,一般的に妥当する主観性であり,主観内での「客観性」である。ただ,クリースは,ところを変えて,本来の意味での確率の主観性を主張することもある。その結果,外的現実状態の要素が主観内客観性としての一般的妥当性の一部を支えるという関係になっている。要するにクリースの確率概念は,主観性と客観性,論理性と客観性という基本的次元で異なる原理を併存させることで成立している。

上記の「充分理由原理」で要求されているのは「積極的知識」であった。この「積極的知識」とはいかなるものなのか。どういう知識状態であれば等可能性設定が正しく行われるのか。確率についての「論理的理解」からみて,等可能性判断の基礎となる知識状態は論理的にいかなるものであるのか。筆者はこうした問題をクリースの確率論について考察する。

クリースはその確率論の最深の基礎概念に「領域(Spielraum)」をすえる。この概念は,問題とする事象がおこりうる「範囲」(確率はその一部が現実化したもの)のことである。この「領域」の性質は,3点ある。第1に,等可能性は「領域」のどの部分も他に比して論理的に優先しない。第2に,同一の事柄について無差別な「領域」が複数成立することがある。このとき,どの「領域」に依拠するかにより,等可能性の設定の仕方が異なる。第3に,「領域」は測定(もしくは比較)可能でなければならない。以上の3点が満たされれば,何かの事象が起こる確率は,その仮定がもつ「領域」の大きさにより計量できる(領域原理)。
この領域原理にはさまざまな問題点がある。まず「領域」とは,「客観的可能性」のことである。この概念には,2つの基礎がある。一つは一般的結果がその実際の出現に際し,幾つかの具体的諸形態をとると解釈できること,もう一つは一般的結果の出現自体が確実とみなすことである。「領域」の意味内容は,事象における一般的結果が現実化するさいにとる個別的諸形態としての行動余地もしくは形態可能性に他ならない。「領域」は,形式的にはこの個別的諸形態の集まりである。

一般的結果の確実性は,各個別形態に分有される。「分有された確実性」は,「領域」の実体であり,ある事象を構成する個別的諸形態の多少がその事象に必然性の程度すなわち「可能性」をあらわす。クリースにあっては「確実性の分有」は「確実性の程度」であり,「確率」は主観内的なものとされるので,このような解釈が可能とされる。ただし,概念的次元でも,「領域」と確実性とは原理的に異なるもので,このことはクリースも認めている。要するにクリースの「領域」(可能性)概念は事象の現質的個別的形態を並べたもので,事象の現実的生起を説明するものではない。

 注意すべきは,「領域」自体は一般的結果がいかなる個別的形態において実現するかが不明なときには常に成立するということである。加えて,「領域」が先の三条件をもし備えていれば「領域」を分割し,相互の大きさを比較することができる。もし数値化できない「領域」の場合には数値化できない確率があることになり,蓋然性だけが示される。確率は蓋然性一般ではなく,その中の「領域」一般でもなく,特殊な性質をもった「領域」を表現しているにすぎない。結局,筆者によれば(「領域」の三条件を踏まえると),量化しうる「領域」すなわち確率の基礎である知識とは,無差別な(想定しうる個別的現象形態のうち,現実化する形態を指定しえない),根源的な(客観的事態に支えられている),測定可能な(個別的諸形態が比較可能な)それである。

クリースは,あらゆる現象が先行条件の必然的帰結であるという一般的合法則性を認める。同時に,確率の基礎としての「領域」は,先行条件からの結果の一義性を決定できないところに成立する。外見的に矛盾するこれら2つを調和させるには,どのような説明が可能であろうか。クリースは認識結果一般を2つに分ける。一つは合法則的連関の認識である(法則論的規定)。もう一つは法則が規定する仕方で事象が経過するさいに,その経過の「出発点」を与えるもの,あるいはその経過に具体的形態を与えるものの認識である(存在論的規定)。確率論の基礎である「領域」は,「法則論的規定」によって指定された限界内で「存在論的規定」が変化するところに成立する。換言すれば,「法則論的規定」について完全(既知)であり,「存在論的規定」について不充分(無知)であるような知識形態(=積極的知識)が「領域」の基礎にある。クリースによれば,この2つの規定ないし知識の区別によって,「領域」の存在が保証される。一般的合法則性は先行条件と帰結の一義的結合という意味で「客観的可能性」の特殊な場合ということになる。「領域」および「領域原理」に関して付言すると,それらの特質は「領域」自体の「客観的性格」および領域成立の基礎にある2つの事柄,すなわち確率を一般的結果-個別的諸形態(法則論的規定-存在論的規定)という関係のなかにもとめること,一般的結果自体に確実性を想定していることにある。

 クリースは以上の一般的合法則性における先行条件と帰結との結合を,原因と結果の関係(因果関係)として把握する。となると,因果関係が「客観的可能性」の形で存在するこことになるが,このことは因果関係の究明過程に対して「客観的可能性」の判断および因果連関の「適合性」の判断という手続きを必要とさせる。

筆者はこの手続きについて簡単に予約している。すなわち,クリースによれば,ある事象の原因を突き止めるにあたり,ある結果がある契機なしには起こらなかったと考えらえるとき,その契機が「原因」となる。因果律では例外のない継起的規則性を規定する関係は稀で,通常はある契機はある結果の実現を「助成」する。この「助成」には程度の差があり,その程度が比較的高いと考えられる時には,当該関係が「適合的」であると言う(そうでないときは「偶然的」)。以上がクニースの「客観的可能性」と因果性の解説である。

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