社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

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「対談:有澤廣巳+森田優三(聞き手 中村隆英・三潴信邦)」日本統計学会編『日本の統計学50年』東京大学出版会,1983年4月

2016-10-01 22:23:55 | 13.対談・鼎談
「対談:有澤廣巳+森田優三(聞き手 中村隆英・三潴信邦)」日本統計学会編『日本の統計学50年』東京大学出版会,1983年4月

 日本統計学会創立50周年記念事業の一環として企画された対談集(創立は1931年)。その狙いは,歴史の証言を残しておくこであった。本書には,有澤廣巳,森田優三の対談の他に,寺尾琢磨と宗藤圭三,佐藤良一郎と林知己夫の対談が収録されている。有澤廣巳と森田優三の対談をここでとりあげたのは,二人が社会経済統計学者だからであり,聞き手のひとりが三潴信邦だからである。そして,4人とも,この「社会統計学・論文ARCHIVES」にその論稿の要約が載っている。この点も念頭にあった。

 この種の対談が面白いのは,一定のテーマが枠としてあっても自由闊達な話が展開されるからである。論文では出にくい人間的な個性が伺えることもある。表だたない隠れたエピソードも語られる。そうは言っても,生の話で,当人がしゃべっているからといって鵜呑みにしてはならない。記憶違いや話に尾ひれには,注意しなければならない。対談は,「統計学を学びはじめたころ」「留学の思い出」「統計学の先学と同僚」「日本統計学会の創立」「統計委員会と統計法」「国勢調査と戦後の統計行政」「現代の統計の問題点」の順で進む。

 「統計学を学びはじめたころ」。有澤は糸井靖之助教授の統計の演習に出て統計に興味をもった,と言っている。田中信吾『米価の研究を』読んで勇躍し,報告書を書いて自信をつけたと,回顧している。糸井はその後,フランスそしてドイツに留学したが,東京駅に見送りに行ったおり,糸井がチチェクの平均論の英語の本を記念にくれたという。その糸井は若くして亡くなったので,そのとき糸井の後継者として白羽の矢がたったのが有澤だった。有澤はそれを契機に数学を勉強し始めたらしい。偉い数学者である高木貞治に教えを乞うた,と語っている。

 森田の経歴はだいぶ異なる。中学を出て,神戸の高等商業に入り,一橋に転入。学生のときに藤本幸太郎の統計の講義を聞き,試験勉強のときに図書館で統計の原書を2,3冊引きずり出して読み始め,平均の概念に興味を覚えた。卒業の時に,どこかの学校で先生の口がないかと藤本に相談に行くと,横浜高等商業を紹介してくれ,就職した。ここでは,統計学と銀行論を教えた。学生時代は抽象論的な方法論的なことに関心があり,ボーレーやユールを読み,卒論は論理的なドイツの統計学に関するものだった,と語っている。この辺の話で森田はチュプロフ,カウフマン,フォルヒャー,リューメリンなどの統計学者の名をあげている。

 「留学の思い出」。ここでは有澤と森田がベルリンでの留学経験が語られている。有澤は1926年から28年の半ばまでドイツに留学した。ベルリンのブランデンブルク大学で聴講生となったが,授業は半分もわからないので,学生の一団と知り合いになり勉強会に参加した。週一度程度の勉強会は,ドイツの経済情勢に関して議論する会であった。高野岩三郎があとから来て,一緒に約半年,ミュンヘン生活をしたが,すぐにベルリンの景気研究所(ワーゲマン)に戻った。高野岩三郎にはジュースミルヒの『神の秩序』の初版本探しを依頼された。古本屋「ストライザンド」の親父がこれを見つけだしてくれた。研究所では東亜の事情の資料をまとめる仕事をさせられた。統計の本では,カウフマン,チチェク,マイヤーを読んだ。マイヤーには一度会った。

 森田は有沢の渡欧10年後にベルリンへ。ナチスの全盛期だった。ナチスが制圧していたベルリン大学で聴講した。その後,ウィーン(ウィーン大学付属少数民族研究所)に行ってウィンクラーに会い,教えを乞うた。ウィンクラーはかなりの統計の文献を収集していた。そこの一室を借りて半年ほど,講義には出ず,勉強した。高野岩三郎のお供をして。第24回ISI(国際統計会議)に出席した。ヒトラーがズデーデンを荒らしまわっていた頃で,アメリカ,イギリスから来ていた研究者は引き上げてしまい,学会も中途で終わってしまったとか。森田はこの研究所で『関数論的物価指数』『人口増加の分析』などをまとめた。

 「統計学の先学と同僚」。ここではまず財部静治のことが語られている。森田は学生の時分には財部静治『ケトレーの研究』,高野岩三郎『社会統計論綱』に感激したと言っている。財部,高野,藤本が,有澤,森田の若いころ,統計学の先達とみなされていたようだ。森田は,他に杉亨二の高弟で,統計学社という団体の社長になった横山雅男のもとで手伝いをしていた。森田はさらに,高田保馬の『大数法則論』の名前をあげている。

中村隆英が蜷川虎三のことを有澤に投げかけると,有澤は話し始める。有澤がベルリンにいた頃,後から来たという。そこから蜷川の集団論や,蜷川が財部の弟子だったので,財部と対立していた汐見三郎に排撃されたこと,水谷長三郎に引っ張られて中小企業長官になったこと,などがひとしきり語られている。さらにこの場で名前が出たのは,郡菊之助,柴田銀次郎,岡崎文規,佐藤良一郎,中山伊知郎,中川友長である。いずれも統計学畑の重鎮である。

「日本統計学会の創立」。森田は,日本統計学会を作ろうと言いだしたのは水谷一雄だ,と言う。水谷は第19回ISIに出席した蜷川,岡崎,中川,郡,有澤に反発して若い力を結集して,圧力団体(?)を作ろうとした。水谷は中川伊知郎,森田に働きかけて学会創立のために動いたようだ。ここから話は,脱線しつつ,中川のことになる。結局,中川と森田が,有澤をかつぎだして,日本統計学会を創立し,京都で第一回の総会を行った。有澤は,高野の弟子である大内兵衛に会長をゆずり,第二回の総会を東京大学で開催した。
「統計委員会と統計法」。戦後,「復興は統計から」という空気があり,森田が統計局におさまり,各省に統計局ができた。そして統計委員会がつくられた。統計委員会は,最初,美濃部亮吉が事務局長,正木千冬が次長,彼は統計局次長でもあり森田を援けた。厚生省は,統計関係の大きな動きの渦中にあったようだ。

 統計委員会は,統計制度を改善する委員会である。委員長は大内兵衛だった。山中四郎あたりが舞台裏になり,「改善に関する委員会」で答申を作成し,それを時の首相吉田茂にもっていったというのが委員会設立にいたる事情であった。日本側で独自に作成した案がGHQにすんなり承認された稀有なケースである。GHQに都留重人,高橋正雄がいたことが大きかったようである。この話との関係でライスの人柄などが語れている。そして話は統計法に移り,この法律の矛盾した内容などの指摘がある。指定統計で国勢調査だけがこの法律の条文にあることなど(大内兵衛のツルの一声で決まったという逸話もある)。

 「国勢調査と戦後の統計行政」。国勢調査は,戦後森田が統計局長のときに実施された。この名称は,当初からのもので,ある意味で奇妙だが(内容は人口調査),完全なセンサスを行いたいという統計マンの悲願が込められているようでもある。上述の統計委員会は,設立当初はかなり実質的な議論をしたが,次第に各省の統計活動を調整する役割をになった。当時の問題のなかで最大のものは,農林省の作報(作物報告統計)であった。有澤はここで農林省の抵抗が非常に強かったことを述懐している。この話の延長で,統計委員会(行政機関)が統計審議会に変わる経緯に関する議論になるが,話はあまり盛り上がらない。いわゆる中央集権的分散型の日本の統計制度が問題にされ,現場での調整の困難が議論されている。川島孝彦は中央統計局構想をとなえたことがあったが,ボツになった。こうした構想は,国が小さい場合にはうまくいくことがあるが(オランダなど),日本の統計は行政と強く結びついているので採用しにくい。

 「現代の統計の問題点」。最後に三潴が両人に,現在の統計の問題点のひとつとして,経済統計をSNAに収斂させていく傾向をどう思うかを質問している。この議論に関しては,二人はおおむね否定的に回答している。聞き手の中村,三潴が元気に発言している。国連主導で,諸統計の整合性にウェイトをおくというやり方が強引であるというわけである。SNAに重きをおおく統計体系の整備は,基本的には間違っていないが,それで何かを判断しようとしたらダメだというところに結論がおちついている。もうひとつここでは統計に対する役人の理解がおそまつであると,有澤が嘆いている。また,人事異動が多く,統計のエキスパートが育たないという問題提起もされている。

 他に,統計学者が官庁の統計に使い方に問題提起すべき,統計専門家と研究者が共同の研究会をもつべき,などの忠言が示され,対談は終わっている。森田の「昔の統計委員会時代では,・・・統計委員会が音頭を取って,統一的な考え方で案を立てて,それを実際直接関係のある各省におろしてやるという考え方があったんですけれも,なtかなかできない・・・。まして統計委員会なしに,いまの統計主幹というああいう小さな機関になったら,どうもいうことを聞いてくれない」という発言が耳に残った。
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